正体
「お忙しいところ、このようにお時間をいただき、申し訳ございません」
「いや、こちらこそノーハスが無理を言ったようだ。申し訳ない。しかも本来なら場所を変えるべきなのだが――」
「いいえ、これ以上ジュード様を煩わせるわけにはまいりませんので、お気になさらないでください」
むしろご褒美です。
そう言葉にしたいのを抑えて、アドリアーネは勧められた応接ソファに腰を下ろした。
ジュードの執務室は机だけでなくあちらこちらに書類が積み上げられており、書架には帳簿などがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
汚れてはいないが雑然としていて、アドリアーネが初めて見る光景でもあった。
「それで、話というのは昨日の件だろうか?」
「え? あ、はい。おっしゃるとおりです」
はしたなくもきょろきょろと室内を見回していると、ジュードに問いかけられて現状を思い出した。
慌てて姿勢を正し、ジュードに向き直る。
「実は、昨日のお話はなかったことにしてほしいのです」
「なかったことに……?」
「はい。自分が申したことをこのようにすぐに撤回するのは、非常に愚かだとは思うのですが……当初の予定通り、結婚をしていただきたいのです」
「……ノーハスに乞われたのだな?」
「確かに、彼にはお願いされましたが、それ以前に決めたことです。撤回しようと」
いつもは無表情なジュードが渋面になる。
オオカミさんも機嫌が悪く、そんな姿を初めて見たアドリアーネは少し怖かった。
だけどここで引くわけにはいかない。
「昨日の私は感情にとらわれすぎておりました。私は聖王国の王女です。私がこの国に嫁いでくることによって、この国の多くの方が喜んでくださり、希望を抱いているようです。それなのにジュード様のお心が私にないからといって、我が儘にもこの婚約を――結婚をなかったことにはできません」
「いや、しかし――」
「しかも私は嫌な男性の許に嫁ぐのではありません。心からお慕いしている方に嫁ぐのです。これほど幸運なことは過去の政略結婚の例を見てもあまりないのではないでしょうか」
「政略…結婚……?」
「はい。はじめは私のプロポーズから始まったことではありますが、それでもこれは国のための結婚です」
アドリアーネの言葉に、ジュードは驚いて目を見開いた。
オオカミさんも大きな口がぱかんと開いている。
その姿はアドリアーネがよく知る姿で、心の内でほっとしていた。
「そのことに一晩経って冷静になった私は気付きました。そして城壁を見学させていただき、兵士の方とお会いし、街を見渡してつくづく感じたのです。皆がこの結婚を心待ちにしてくださっていることを」
「あなたは本当にいいのか? その……私が相手でも?」
「私はあなたがいいのです」
ジュードも同じように国民のことを思い出したのかもしれない。
その表情が、問いかけが変わった。
アドリアーネは心を込めて頷き、天使のようだと評される笑みを浮かべた。
恋愛事は苦手だが、政治面ならちゃんと勉強してきたのだ。
「ジュード様、いい加減に覚悟を決めてくださいませ」
「……もし……もし、あなたが嫌になったらいつでも言ってくれ。私に触られたくないとか、話したくないとか、顔も見たくないとか」
「ジュード様、そんなに怖がらなくても、私は取って食べたりしませんよ?」
あまりに心配するジュードの自己評価はかなり低い。
これは手強そうだと思いながら、アドリアーネはくすくす笑って冗談に変えた。
結婚してしまえばこちらのものである。
ジュードは優しいのでこのまま夫婦として過ごせば情が湧くだろう。
その情を愛へと変えてみせると密かに誓って、アドリアーネは執務室を退室した。
そして自室に戻り、ターニャ以外に誰もいなくなった途端――。
「よっし! やったわ!」
右手を固く握り締め、ガッツポーズをする姿にターニャは顔をしかめた。
いったいどこでそんなことを覚えたのだと、頭を抱えたくなる。
きっとターニャ以外の誰かが目にしたのなら、幻覚だと自分を疑うことになるだろう。
「姫様、お喜びはわかりますが、そのお姿はあまりにお行儀が悪すぎます」
「だって、気持ちが昂ってしかたないんだもの。ヘレオンお兄様なんてよくしていたわ」
「ヘレオン様が?」
「ええ。ヘレオンお兄様は私以上に喜怒哀楽がはっきりされているでしょう?」
「確かにそうですが……」
困った方だと呟きながら、ターニャは頭を振った。
ヘレオンはアドリアーネの二番目の兄で、七歳年上である。
今のところ結婚の意思はなく、聖王家の者としては珍しく自由奔放でたまに城からいなくなるのだ。――どうやらお忍びで旅をしているらしい。
聖王家の者に生涯独身が多いのはやはり人の心を読めることにある。
そのため、どうしても相手に身構えてしまうし、相手も秘密を知れば身構えてしまう。
そんな事情もあるので、アドリアーネはよくヘレオンに羨ましがられたものだ。
兄のことを思い出して心が温かくなっていたアドリアーネはふと気付いた。
この国にやって来てからほとんど家族のことを思い出さなかったのだ。
アドリアーネにとってはジュードのことばかりで、いったいどうすれば振り向いてくれるのだろうとばかり考えていた。
そればかりかどんどんネガティブになっていたように思う。
「……私、わかった気がするわ」
「いかがなさいました?」
「あの黒い化け物のことよ!」
「まあ……」
興奮したアドリアーネの答えにターニャは驚いた。
ターニャには全く見えないが、アドリアーネがこの城にやってきた当初から心配していた空を覆う黒い化け物のことがわかったというのだ。
アドリアーネにいつか害が及ぶのではないかと心配していたので、解決はしないまでも無茶はしなさそうだとほっとする。
「あれはたぶん、人々の不安や不満が具現化したものなのよ」
「不安や不満?」
「ええ、そう。それで、他の人々に憑りついてさらに不安不満、憎悪までもを増やしてしまうんじゃないかしら」
「なんと恐ろしい……」
「本当にね。気付かないうちにあれに憑りつかれていたら、負の感情が大きく育ってしまうもの。聖王国であまり見たことがなかったのは、お父様たちのお陰ね。今までに外国からのお客様で似たような化け物を連れていた方は何人かいらしたけれど、みんなお父様とお会いした後には消えていたもの」
「さすがは聖王様です」
聖王のことになると、ターニャはとても嬉しそうに頷いた。
相変わらずだなと思い、アドリアーネはくすりと笑う。
「今日は城壁に上ることにしたから――少しでも化け物の近くに行ってみようと思ったから――」
「まさか、そのようなおつもりだったとは聞いておりません!」
「ごめんなさい、ターニャ。でも、だから今日はお父様の聖石を持って行ったの」
「そのご判断は正しいですが、せめてひと言おっしゃっていただかないと、何かあってからは遅いのですよ? そもそも姫様は……」
城壁を見学したいと言った本当の目的を知ったターニャのお説教は続いた。
ちょっと失敗したなと思いつつ、アドリアーネはターニャの気が済むまで素直に聞く。
「――ごめんなさい。これからは気をつけるわ。でもね、今までも聖騎士が傍にいてくれたから――お父様から聖なる剣を授けられた彼らがいてくれたから大丈夫だったのよ。だけど、彼らや私たちがこの国に来たことによって、あの化け物は大きくなったんだわ」
「どういうことですか?」
「あの化け物は、聖騎士たちが城内をうろうろすることで、居場所をなくしてあのように上空に漂うことになったのよ。だから私がいくらあの化け物に憑りつかれた人を捜してもみつからなかったわけ。私が――聖騎士が近づけば、化け物は逃げていくんだもの」
「なるほど……」
納得したターニャは次いで満足げに笑った。
「それでは、このまま姫様がいらっしゃれば、この国は聖王国のように心持の美しい人々で溢れますね」
「いいえ、それは無理よ」
そう言って、アドリアーネは悲しそうに笑ったのだった。




