プロポーズ
目が覚めてからのアドリアーネの世界は苦しみも悲しみもなくいつもふわふわと優しく輝いていた。
優しく世話をしてくれる使用人たちに、両親や兄二人の温かい家族。
母は時間が許す限り傍にいてくれ、枕元で本を読んでくれた。
ここは本当に天国ではないのかと思うくらいだが、体をまだ自由に動かせないことだけが少しつらく、現実だと思わせてくれていた。
ただ目覚めて初めに父が言ったように、本当に父は――兄もだが、三人は神の遣いらしい。
アドリアーネの父は聖王と人々から呼ばれ、尊敬されている。
この大陸には中央に聖王である父が治める聖王国があり、その周囲に五つの王国があるそうなのだ。
聖王国はとても小さな国ではあるが、聖王をはじめとした王族は国民に愛され、また周辺国からも崇敬され尊重されていた。
神の遣い――聖王の力のおかげで、アドリアーネは生まれてからの七年間、目を覚ますことはなくても生き続けることができていたのだ。
それはまた聖王の奇跡と呼ばれ、アドリアーネが目覚めたときには聖王国だけでなく大陸中が喜びに沸いた。
それから一年の月日が流れ、父の不思議な力の助けもあり、ようやく人並みに動けるようになった頃。
中庭で日向ぼっこをしていたアドリアーネは、突然現れた黒く大きな獣を前にしても驚くことなく微笑んだ。
しかし、鳥たちは陽気なさえずりをやめて悲しそうに声を漏らし、アドリアーネの傍に常に寄り添う母犬は警戒している。
「こんにちは、オオカミさん。あなたはどうしてケガをしているのですか?」
「――はじめまして、アドリアーネ様。たくさんの愚かな争いをしたためですよ」
「痛むのですか?」
「いいえ。今はもう傷は癒えておりますから」
「それでは、どうしてそんなにつらそうなのですか? 我慢などせず痛いなら痛いと言わないと、手当てしてもらえないでしょう?」
「……そうですね」
アドリアーネは最近覚えた動作――手を差し出して、その甲にキスされるのを待った。
ここでは聖王女であるアドリアーネに会うと、男性は皆ひざまずいて手の甲にキスをする。
だが傷ついたオオカミは困ったように笑って答えただけで、キスをしようとしない。
どうやら失敗したらしいと気付いて、アドリアーネは顔を赤くして手を引っ込めた。
(面会ができるようになってから、多くの男性が子供の私にひざまずいて手の甲にキスをするふりをするから、調子に乗ってしまったわ。恥ずかしすぎる……)
羞恥に俯いてしまったアドリアーネを気遣い、周囲の母犬や小鳥たちが抗議するように騒ぐ。
その声に気付いて、アドリアーネは我に返って顔を上げた。
オオカミは不機嫌そうにしているが、本当は動揺しているのが伝わってくる。
(え? あ、嘘……)
急にアドリアーネの視界ははっきりし、目の前のオオカミが一人の青年に変わった。
年齢は二十代後半らしく、いかにも騎士といった屈強な体格をしており、左頬に大きな傷がある。
その傷だけでなく首も手も細かな傷があるのだが、何よりその容貌が厳つく皆を警戒させていたようだ。
しかし、アドリアーネはその姿に一目で魅了された。――オオカミの姿も魅力的だったが。
それはアドリアーネの特殊能力、この世界でいう聖なる力であり、目にする人々がなぜか動植物に具現化して見えるのだ。
それはその人の本質であり、今も傍で警戒しアドリアーネを守ろうとしている母犬は本当は乳母である。
意識を集中すれば本来の姿――人の姿で見ることができるのだが、アドリアーネはこれも異世界と受け入れていた。
今まで集中せずとも人の姿で見ることができたのは両親と兄の四人のみ。
この一年、アドリアーネは母や兄、時には多忙の父からこの世界について、自分の生まれについて教えられていた。
アドリアーネが七年間目を覚まさなかったのは、何かの手違いで器である身体が先に生まれてしまい、魂が間に合わなかったからなのだそうだ。
要するに転生予定より早く生まれすぎてしまったのか、前世で予定より長生きしすぎてしまったのか、どちらともかもしれない。
前世の記憶があるのは驚いたけれどね、と家族は笑いながら七歳にして大人びた考えを持つアドリアーネを受け入れてくれた。
だがそれも家族の間だけの秘密である。
他には乳母であるターニャのみ知らされており、他の使用人たちは聖王女であるがゆえに聡明なのだと納得しているようだった。
そのように恵まれた生まれにありながらも、アドリアーネにとっては父や兄たちの聖なる力に比べて、自分の力は不足しているように感じられた。
父のような予言の力、長兄のような病気を癒す力、次兄のような大地を豊かに実らせるようなもっと人々の暮らしに有益なものがよかったと思ったものだ。
だが、父には見透かされていたようで、アドリアーネの力は今はまだ必要と感じないかもしれないが、後に必ず役立つ時がくると教えられた。
それが今だとアドリアーネは直感した。
「私……あなたと結婚するわ!」
「……はい?」
まだ八歳である王女の宣言に笑う者はだれ一人いなかった。
ただ母犬――乳母やお付きの者たちは慌てふためき、青年は――ボラリア王国の新しき王は驚き言葉を失っていたのだった。