恋愛感情
「城壁を見学だと?」
「はい。案内も護衛もしっかりついておりますし、城側の内城壁ですので問題はないかと思いましたが?」
「しかし、あんなところを見ても何も楽しくないだろう? 詰めているのは兵士ばかりだし、階段も急で狭く薄暗い」
「ですが、物見の塔に登れば街が見渡せますし、まもなくこの城の女主になられるのですから、細部までお知りになるのはよいことかと思います。それに兵たちの士気も上がります」
「まもなくなどない。彼女がこの城の女主になることはないのだから。そう言っただろう?」
アドリアーネの本日の予定を聞いたジュードは苛立った様子で答えた。
するとノーハスが不満そうに眉を寄せる。
「式の延期など無駄でしかありません。それどころか婚約解消は悪手と言えるでしょう。国民を動揺させ、内外を問わずジュード様をよく思わない輩に付け入る隙を与えるのですよ?」
「それらに対抗できるだけの力はつけた。アドリアーネ殿にも聖王国にもこれ以上助けてもらわずともやっていける。これからはこの十年のご恩を返していかねばならんのだ」
「では、ジュード様はご恩を返すとおっしゃって、王女殿下を振ってしまわれるのですね?」
「は?」
「誰がどう見ても、殿下はジュード様のことをお慕いされております。ですが、ジュード様はそのお気持ちに応える気はないと。お気の毒に。王女殿下は長年想いを募らせていた相手と結婚されるために遠路はるばるいらっしゃって、盛大に振られるわけですか」
「だからそれは刷り込みのようなもので――」
「刷り込みだろうが思い込みだろうが、王女殿下がジュード様を慕っておられるのは事実です。ご恩があるというのなら、ご自分の気持ちを隠してでも殿下に応えて差し上げるべきではないですか? たとえジュード様が娘としてしか思えなくても、一生それを悟らせないようになさるべきです!」
「お前、せめて妹と――」
「ご年齢差的に親子で間違いありません」
「……」
ノーハスの厳しい反論に少しばかり抗議はしたが、それ以上言うことはジュードにはできなかった。
確かにノーハスの言うとおりなのだ。
恩を返すというのなら、彼女に一生を尽くすつもりで結婚するべきだろう。
ただ、ノーハスに小さく抗議したこと――アドリアーネを娘のようだと思ったことは一度もない。
初めて顔を合わせたときも、幼い子ではあったが自分が子を持つということがまったく想像できなかったため、まだ幼い王女殿下としか思っていなかった。
婚約といってもピンときておらず、無邪気に好意を寄せてくれるアドリアーネとの文通は周囲が敵ばかりの厳しい状況の中での癒しでもあった。
(そうか……。俺は彼女のためなどと言いながら、本当は彼女が突然ある日、目を覚ますのが怖いのだ。なぜこんな人と結婚してしまったのだろうと、後悔されることが……)
アドリアーネに恋愛的感情があるかと問われれば、わからない――おそらくないと言える。
それでもこの十年間、知らずジュードの心の支えになっていた少女に背を向けられるとしたらどれだけ苦しいだろう。
男と女の関係は簡単に壊れる。
それならばこのまま友人のように付き合っていきたかった。
「――それでは、王女殿下と婚約を解消されたとして、ジュード様はどなたとご結婚されるおつもりなのです?」
つい考えに耽っていたジュードはノーハスの問いにはっとした。
しかし、すぐに頭を回転させて答える。
「俺は結婚するつもりはない」
「では、お世継ぎはどうなさるのです? この国が荒れたのもそもそもはお世継ぎ問題が発端。ジュード様に何かあられたら、またすぐにでも争いが始まるでしょう」
「今でも私の血統に不満を抱く輩は多くいるのだ。俺の子にも同じようにこの苦労をさせろと? それにカイリー殿下を強引に引き取った理由はお前も知っているだろう?」
十年前の内乱で王家の血統に近い者たちもジュードによって多くが粛正された。
後の争いの種とならないための措置であったが、それ故にジュードは残虐王と呼ばれるようになったのだ。
しかしその中でただ一人、前王の直系男子が生存している。
前王の愛妾が産んだ第二王子は当時すでに結婚して息子がおり、あの毒殺事件のときにはまだ乳飲み子だったために難を逃れたのだった。
それがカイリー殿下であり、ジュードが王位に就いて後に保護し、後見についている。
「まさか本気でカイリー殿下を後継者になさるおつもりだとは思ってもおりませんでしたから。ですがそれではアドリアーネ王女殿下と聖王様への裏切りではないでしょうか? しかも式間際になっての婚約解消など、アドリアーネ王女殿下がどれほどに恥をかかれるか……」
「だから彼女から断ってほしいと頼んだんだ」
「ずいぶんむごい願いですね」
「だが俺は本来このように王位に就く人間じゃなかったんだ。それを正すためにカイリー殿下が成人すれば俺は退位する。そんな俺に聖王女と結婚する資格などないだろ」
「ジュード様は誤解されております。王とは血統ではないのです。王たる資質があるべき者が王であるべきなのです。残念ながら前王にはその資質がなかった。またその後継者にも資質がなかった。だからこそあのような内乱が起こったのです。そして聖王様はジュード様をこのボラリア王国の王とお認めになった。その意味をまだ理解されていないのですか」
ノーハスの言葉を否定することはできず、ジュードは押し黙った。
すると畳みかけるようにノーハスは続ける。
「皆が血統を重んじるとおっしゃるのなら、アドリアーネ様との御子は大歓迎されるでしょう。何しろあの聖王家の血を継がれるのですから。聖王家の方が聖王国から出られることは過去にもほとんど例がありません。そして聖王家の方を迎えた国はその後必ず繁栄している。だからこそ、聖王家は――聖王国は今もってなお各国から敬われ尊重されているのです。ジュード様は歴史を学び直されたほうがよろしいのではないですか? そのうえでもう一度王女殿下とのご結婚をお考えください。では、失礼いたします」
過去にないほど冷ややかにノーハスは告げて部屋を出ていった。
ノーハスはかなり怒っている。
その姿を黙って見送ったジュードは深いため息を吐いた。
ノーハスの怒りはもっともなことなのだ。
確かに過去に聖王家の者が他国と婚姻関係によって結ばれたことはほとんどない。
それどころか生涯独身を貫いた者も多いのだ。
それが気高い精神のためかどうかはわからないが、アドリアーネを妻にすることほど栄誉なことはないだろう。
聖王から認められた者として、今まで順調とはいかないまでも荒んだ国土を復興させることができた。
それなのに婚約解消を申し出るなど、恩を仇で返すようなものだ。
(それくらい俺にもわかっているんだ……)
しかしどうしてもあの無垢な天使を――アドリアーネを自分のような年上の穢れた人間が触れてはいけない。
その思いはアドリアーネの微笑みを見れば見るほどに募り、ジュードは悩ましさに頭を抱えたのだった。




