鍵
「さて、問題はあの黒い化け物なのよね」
「姫様、何をおっしゃるのです! あれは放っておくべきですよ! 姫様にどのような害があるか――」
「ないみたい」
「はい?」
「ずっと、この国に来てから二十日余り、ただ空に漂っているだけなの。だから大丈夫よ。お父様の聖石もあるし」
翌朝、支度を整えたアドリアーネは朝食前に窓際に立って空を睨みつけた。
ターニャは心配して反対したが、アドリアーネは微笑んで安心させる。
絶対に大丈夫だとの確信はないのだが、そう言わなければターニャは納得しないだろう。
「今までたくさんの人たちに会ったけれど、誰もあれの……飼い主じゃないみたいね。それが不思議なの」
過去に似たような化け物は見たことはあったが、それは誰かしらに纏わりついており、聖王に拝謁すれば霧散してしまうような弱いものだった。
この国の王都に入って初めて見たときには、やはり聖王がいないから大きく育ってしまったのだろうと思っていたのだが、どうにも違う気がする。
「あれを解決できないことには、帰るにしても気になって帰れないわ。だからジュード様を篭絡するのと並行して調べてみるわ」
「姫様、決して無茶はなさらないでください。色々な意味で」
「あら、もちろんよ。私に何かあればジュード様やこの国の人、聖騎士のみんなに迷惑をかけるもの。気をつけるわ。だから今日はお父様の聖石を持って出かけるつもり」
「それならば……よくはないですが、仕方ないですね……」
渋々といった様子でターニャは答えて、大きくため息を吐いた。
長年一緒にいるので、アドリアーネの頑固さは理解している。
無理に止めるよりも協力しながら危険がないように精一杯守るしかないのだ。
しかし、ここは聖王の力に守られた聖王国とは違う。
本当に大丈夫なのだろうかとの不安は拭えないが、ターニャは聖王を――アドリアーネを信じることにした。
「よかった。今日も日記が届いたわ!」
「さようでございますねえ」
アドリアーネが朝食をちょうど終わらせたところで、例の小箱が届けられた。
昨夜はついつい夕食後に熱を入れて日記を書いたために、返事がこないのではないかと朝になって心配していたのだ。
日記に書いた内容は当然どれだけ自分がジュードのことを好きかということ。
初めて会ったときから好きだったが、ひと月に一度の文通でジュードの人柄を知り、ますます好きになったと語った。
もちろんそれがジュードのほんの一部であることはわかっているので、これからもっと知りたいとも書いていた。
小箱を受け取ったアドリアーネはドキドキしながら鍵を開けた。
そしてはっと息を呑む。
「姫様?」
「何でもないわ」
ターニャに微笑んで答えたアドリアーネは小箱に収められた日記を改めてじっくりと見た。
日記の周囲は青々とした蔦に覆われている。
これは日記を読まれたくないのか、読みたくなかった――封印したかったのかどちらなのだろう。
アドリアーネは緊張しつつ日記を取り出すと、ターニャにもう一度微笑みかけた。
「書斎で読むわ」
「……かしこまりました」
アドリアーネに与えられた王妃の間には、居間や寝室だけでなく小さな書斎や浴室、衣装部屋に使用人たちの控え室など多くの部屋がある。
その中で寝室が一番奥まった場所にあり、さらにその奥――扉を開けると、狭く短い廊下の先にジュードの寝室があるらしい。
書斎は寝室の一つ手前にあって居間とは反対側の扉を開ければ寝室に繋がる。
アドリアーネは書斎に入るとちらりと寝室への扉を見てから、窓際にある長椅子に腰掛けた。
書架には歴代の王妃たちの好んだ本が並べられ、その種類も様々だ。
初めてこの部屋に入ったときにはわくわくした。
これから自分はどんな本を並べることになるのだろうと思ったものだが、それも無駄な夢想に過ぎないのかもしれない。
「さて、読みましょうか」
自分を鼓舞するように声を出し、蔦をそっと掻き分けるようにして日記を開く。
今の仕草だけでもターニャに見られていたら日記に拒まれていることを知られてしまったかもしれない。
他の人が見ればただ意味のない言動でも、長年傍にいてくれるターニャはだいたい察しをつけてしまうのだ。
アドリアーネは厚い革表紙を開き、栞の挟んである頁を人差し指でそっとめくった。
それからさっと目を通し、詰めていた息を吐き出してからもう一度読む。
(最低最悪だわ……)
心を込めたつもりの告白は、遠回しではあったがやはり刷り込みのようなものだと書かれていた。
それを確かめるにしても、結婚までの期間が短い。結婚してから気付いては遅い、と。
さらには年の差結婚は上手くいかないだろうとまであったのだ。
しかもポレルモ子爵夫人を引き合いに出し、ニ十歳差結婚をした彼女の今が幸せそうでないことは実際に会ったあなたにもわかるだろうと。
この鈍感で無神経さにアドリアーネは腹が立った。
おそらくジュードに対して腹を立てたのは初めてのことだ。
(何なの? 女心をわかってほしいとまでは言わないけれど、昔の恋人のことを話題にするのが非常識で失礼だってことぐらいはわかるでしょう!?)
ぷりぷりしながら日記をぱたんと閉じたアドリアーネは、しゅるしゅると蔦が元の位置に戻ることに気付いて噴き出してしまった。
この不器用さも含めてジュードなのだ。
どうやらこの蔦はアドリアーネの告白をなかったことにしたいのではなく、ジュードの本音を隠すためらしい。
要するにジュードは心からアドリアーネのことを考えて言いたくもないことを告げたようだ。
ポレルモ子爵夫人とジュードが恋人同士だったことはわかる。
これは力など関係なく、女の勘というものだろう。
そしてどういう別れ方をしたにしろ、それ以来ジュードには一切疚しいところがない。
それどころかジュードはアドリアーネと婚約して以来、ポレルモ子爵夫人だけでなく女性とかかわりを持っていないのだ。
これは十年も文通を続けてきて彼の人となりをわかっているからで、アドリアーネの力によるところも大きい。
(何と呼ばれようと、王様である限りは誘惑も多かったはずなのにね)
初めから国を立て直すまでの仮婚約のつもりだったのなら――いや、本気だったとしても婚約者が幼いのだから派手にしなければ女性関係に誰もが目をつぶっただろう。
だが驚くほど真面目で誠実だからこそ、聖王はジュードを認め、アドリアーネは好きになったのだ。
今回の申し出も本気でアドリアーネを思いやってのこと。
だからこそ、アドリアーネも今までの援助と約束を盾に結婚を無理に迫ることはできなかった。
(ああ、でもひと月じゃなくて一年にすればよかった……)
あとひと月でただの小娘であるアドリアーネがジュードを落とすことができるのか。
自分の出した期限に後悔しながらも、アドリアーネはとにかく行動に移すことにしたのだった。




