恋はタイミング~キスでひるがえる~
ふいに天井から、ドンドンと大太鼓を叩く音が落ちてきた。次いでシャーンシャーン、とシンバルの耳障りな残響音がする。
「うるせぇ……」
自分の発したかすれ声で、湊は覚醒した。同時に、頭にあったはずの手の感触、温もりが、すっと消えた。
「そろそろ起きろよ」
いつもの保人の声に、湊はホッとしながら顔を上げた。とたん、まぶしい陽光に顔を照らされ、視界が白く霞んだ。
――あー寝ちゃってた。
自分の置かれている状況が、一気に頭に流れ込んできた。吹奏楽部の演奏が聞こえてきたのは、放課後だから。下校前のショートホームルームの時間に、自分は居眠りしてしまったのだ。
湊はうつぶせになっていた上体をゆっくりと起こした。目の前には背もたれを前にして座る保人の姿。ちょっと冷たそうな整った顔。でも内面は反対だ。穏やかで優しい。
「俺、どれぐらい寝てた?」
「二十分ぐらい」
カーテンも窓も開いている。校庭からは野球部のジョギングの掛け声が聞こえてきた。
ここ――三年四組の教室は、窓際から校庭全面がよく見渡せる位置にある。トラックの内側には、走り高跳びの赤と白のバーと、青いエバーマットが設置されている。その周りには、湊たちの後輩が集まって、二人一組になってストレッチをしている。
「いいなあ」
湊は頬杖をついて、彼らの姿をぼんやりと眺めた。二か月前までは、湊も保人も、あの集団の中にいた。
「受験終わったらまたやればいいじゃん」
保人が呆れ顔で言う。
「そうだけど」
引退した身で部活に顔を出しても、後輩たちにはウザがられそうだな、と思う。
湊は今年の夏の記録会で芳しい結果を残せなかった。専門の走り高跳びは、背面飛びで最高記録が百九十一センチ。保人は百九十六跳べていた。自分たちの身長はほぼ同じなのに。
「そろそろ帰ろうぜ」
保人が席を立って窓を閉めた。湊は机のフックにかけていた鞄を手に持った。欠伸が出そうになって、空いた手を口元に持って行く。そこで、あ、と気がつく。
前とは違う自分の行動に。
以前は大口を開けて欠伸していたのに、今は口を閉じたままする。鼻の下が伸びて変な顔になっている自覚があるから、手でそれを覆い隠す。――保人の前だと。
だけど、変な表情を隠したい相手は、保人だけではなく。
だからこの、自覚している感情を表に出すわけにはいかない。
でも、きっと、彼の抱えている自分への気持ちも――。
確認したくなって、湊は前を歩く保人の、肘でも肩でもなく手を軽く掴むのだ。
「マック、寄ってかない?」
こちらを振り返ってくる保人が、予想通りの表情を晒した。困った顔、戸惑いを浮かべた目、最後にはぎこちなく笑った。彼から湊の手を離してくることはない。
「いいよ、俺も腹減ってた」
湊の誘いを、保人は一度も断ったことがない。最近の自分もそうだ。保人の誘いを断っていない。
何かが変わりそうで変わらない。このもどかしくて照れくさい空気感が、心地いい。
マックで一時間半(その内訳は食事五分、お喋り二十五分、勉強一時間)すごしたあと、ふたりは高校の最寄り駅――M駅――で別れた。
湊の家はM駅からJR線で二駅の場所にある。保人のマンションは、M駅から歩いて五分。近くて羨ましい。
――あれ、そういえば。
帰りの電車内で、週刊誌のつり広告を目にしながら、湊は今更気がついた。
保人の部屋に遊びに行ったことが一度もない、ということに。
午後六時に自宅に帰りついた。
玄関の三和土に見慣れたアディダスのスニーカーがあるのを確認し、湊のテンションは自然と上がる。
夕餉の匂いを漂わせるリビングまでは行かず、玄関すぐの階段を上って二階の自室に向かった。
「隆」
ドアを開けながら、幼馴染の名前を呼ぶ。
彼は壁に背をつけた状態でベッドに座っていた。湊の漫画雑誌を読んでいる。
「よ」
隆が雑誌から目を上げて、湊に向かって軽く手をあげた。
「遅かったじゃん。帰ってくるの」
「ちょっと寄り道したから」
湊は鞄を床に投げ、ブレザーのポケットからスマホを取り出して机に置いた。
クローゼットから着替えを出す。脱いだブレザーをハンガーにかけ、シャツのボタンを手早く外していく。
自分の手の動きを目で追いながら、あれ、そういえば、とまた気がつく。
隆の前で着替えることが、以前ほど恥ずかしくなくなった。
上半身裸になり、ベルトを外してスラックスを脱ぐ。そこまでして、いつもと順序が違う、と気がつく。スラックスを脱ぐ前に、Tシャツを着るのだった。
でも今は。クローゼットの扉の裏に張られた鏡には、パンツ一枚の自分の姿が映っている。
ま、いいか。どうせ隆は見ていない――そう思ったのに、違った。こちらを見ている隆の顔が、鏡に映っている。
背中が熱くなってきた。
「筋肉落ちた?」
その声は、呟きのように小さかった。
「落ちたかも。引退して二か月経ったし」
八月中旬から今まで、体育の授業以外で運動していない。
日焼けしていた肌も、若干だが薄くなった。
Tシャツを着て、カーゴパンツを穿く。
「寄り道ってどこに行ってた?」
隆が終わった話をぶり返してくる。
「マック。セットメニュー、がっつり食べてきた。だからお腹空いてないんだよね」
「一人で?」
「友達とだけど」
「いつもの同じクラスの奴?」
「――そうだけど」
隆らしくないと思う。たかが寄り道ぐらいで、ここまで言及してくるとか。
隆の座るベッドに歩み寄ろうとしたとき、下から母親の自分を呼ぶ声がした。
「夕飯できたわよ~! 下りてきなさい」
いつもより機嫌の良い声だ。お気に入りの隆が来ているからだろう。
湊と隆は家が隣同士で、幼稚園の頃から家族ぐるみの付き合いが続いている。
隆の両親は共働きだ。母親の帰りが遅いとき、隆は湊の家に夕飯を食べにくる。
いま行くー、と返事をして、湊は体を部屋のドアに向けた。
あまり食欲はなかったが、食べないわけにもいかない。
「俺、ご飯食べたら、そのまま帰るけど」
背後に隆が立った気配がして、湊の体は少し揺れた。
「そう。じゃ」
わざと明るい声を出して、湊は後ろを向いた。思っていた通り、一メートル、いや三十センチ先に彼がいた。
顔を上げて、十センチ背の高い隆の唇に、自分のそれを重ねた。軽く触れるだけのキスだ。一秒にも満たない。ふんわりしていないし、硬くもない不思議な触感。
唇を離したあとは、いつもと同じようにドキドキした。
でも、何度も繰り返そうとは思わなかった。だってそれを、隆は望んでいない。お情けのキスなのだから。
部屋のドアを開けると、「もう良いんだ?」と揶揄するような言葉を投げられる。
「夕飯早く食べたいし」
「お腹空いてないんじゃないの」
すかさず突っ込みを入れられ、「燃費が良いからすぐ腹減るんだ」と言い返す。
食事中は、湊の母が隆に一方的に質問を投げる形式で会話が続く。
「隆くんって、大学はどこ志望なの?」
「A大です」
「そうなのぉ。凄いわね。高校もS校だもんね。良い所狙えるわけよ」
それに比べてうちの息子は、とわざとっぽくため息を吐かれる。
「子供の学力って、母親からの遺伝なんだってよ」
どこかで聞きかじった情報で応酬すると、母がむっとしように唇を尖らせた。
「湊はK大だっけ? 第一志望」
向かい側に座っている隆が、箸を止めて確認してくる。
「そうだよ。指定校推薦だから、まあ受かると思うけど」
小論文と面接だけだ。もしものために、勉強はちゃんとしているが。
――保人も指定校推薦受けるんだよなあ。
違う大学だが、K大と近い場所にある。だから高校を卒業しても付き合いは続けられる。
「隆くんは今、彼女いるの?」
母が違う話を振った。あまり嬉しくない話題だ。
「いません。受験でそれどころじゃないし」
不愛想な声で隆が答えた。
「そうなんだ。まあ、受験の方が大事だしね」
母は席を立って、キッチンの流しで鍋を洗い出した。
ほうれん草のお浸しを食べながら、湊は隆をそっと盗み見た。
――本当に彼女いないのかな。
隆が女の子を連れて自宅に入るのを、一か月前に目撃したばかりだ。その子と別れたのだろうか。
隆はルックスが良い。一重瞼のきりっとした目、高い鼻、形の良い唇。パーツ一つ一つが優れていて配置も素晴らしい。体型も非の打ちどころがない。背か高く骨格がしっかりしている。パッと見はスラっとしているが、貧弱な印象は受けない。筋肉がちゃんとついているからだろう。彼は高校で弓道部に入っていた。もう引退しているが。
――モテて当然って感じ。
そういうイケメンと幼馴染、という自分は相当ラッキーだと思う。こうやって仲良くしてくれていることも。
中三の秋に、湊は隆に告白した。特別な意味で好きなんだ、と。
結果は玉砕。同じ意味で好きにはなれないとはっきり言われた。
想定内の結果だったから、それほどショックではなかった。想定外だったのが――。
――付き合う事はできないけど、キスぐらいならして良いよ。
はあっ? て感じだったが。言われたときは。でも、キスしたい気持ちは抑えられなくて、お言葉に甘えてキスさせてもらった。そっと、触れるだけのキスを。
そんなわけで、相変わらず今も、お情けでキスさせてもらっている。
高校に上がってすぐに、隆には彼女ができた。女の子を家に連れ込んでいるシーンも、何度も見るようになって、さすがに「もしかしたらいつかは好きになってくれるかもしれない」といった一縷の望みを持つことはなくなった。
ずっとずっと、隆への恋愛感情を断ち切りたいと思っていた。でも、そんなに容易いことではなかった。好きな人は隣に住んでいるのだ。週に二回は家に夕飯を食べに来てくれて、休日はたまにだが、どこか出かけよう、と誘いにきてくれるのだ。
――友達としては好かれてるってことだよな。
だったら自分の気持ちを、恋愛感情から友情にシフトチェンジするしかない。分かってはいるのだが――難しい。
「湊? 箸止まってるぞ」
「え? ――ああ」
湊は慌てて手元を見た。ごはん茶碗が傾いている。箸を握っている手に、力を入れる。
――キスはもうやめた方が良いかもしれない。
していいよ、と言われるとしたくなるが。
断ち切れない原因の一つにはなっている。
「最近、ぼんやりしていること多くない?」
心なしか、心配そうな顔をして隆が言う。
「ちょっと最近、寝不足だから」
適当に返し、湊はみそ汁を飲んだ。賽の目に切った豆腐は噛み応えがない。
「俺、大学に入ったら一人暮らししようと思ってるんだ」
「――ふーん、そうなんだ」
じゃあ、お隣さんとして仲良くできるのもあと五か月ぐらいか。短い。
寂しいけど、その方が良いのかもしれない。物理的な距離ができれば、ちゃんと諦められるかもしれない。
――A大だったらここからでも通えるのに。
もしかしたら隆の方も、自分と距離を置きたいのかもしれない、と思い至った。
彼の顔をまたそっと窺う。
「隆?」
思わず首を傾げてしまったのは、彼がもの言いたげな顔をしていて、湊と目が合った瞬間、慌てたように視線を逸らして表情を消したからだ。
――なんだ、今の。
気になった。だが、その表情と動きの意味を追求する気にはならない。過去何度か、隆に意味深な言動を取られたことはあったけれど、結局何も変わらなかった。この三年、ずっと。これからも変わることはない。
受験が終われば、隆はまた女の子と付き合いだすだろう。
五週間後――十二月初め。
湊と保人は受験から解放された。二人とも指定校推薦で大学に合格したのだ。それを境に、ふたりは部活に顔を出すようになった。鈍った体では、以前のように跳べなくて、足を引っかけてバーをよく落としたが、それでも楽しかった。
「今日、俺んち来ない?」
湊はランニング前のストレッチをしながら、横にいる保人に話しかけた。自分の口から出る白い息の行方をぼんやりと見届ける。それは保人の首あたりまで届いて、消えた。
湊は顔を上げた。晴れている。白藍色の空には雲が一つも浮いていない。
空気は冷え込んでいるが、日差しは暖かい。
まだ他の部員は来ていない。今の時期、三年は短縮授業ばかりだ。
「なんで?」
だいぶ間を開けてから、保人が問うてくる。
「なんでって別に……母さんが一度連れて来ればって言ってたし」
これは本当だ。母に学校の話していると、自然と保人の名前があがる。その度に、連れて来てよと言われていた。
そういえば、保人とは一番仲が良い友達なのに、家に招いたことがない。
「ていうか、俺、保人の家に行ったことないよな。今度遊びに行っていい?」
保人の家の方が、学校から近い。寄りやすい。
「来てどうすんの?」
予想外の答えが返ってきて、湊は目を瞬かせた。保人の顔をちらりと見る。彼はつまらなそうな顔をしていた。
「ゲームとか、ゲームとか」
頭に浮かんだのはそれだけ。考えてみたら、さほど保人の家でやることなんてない。
「俺、ゲームやんないし」
保人の声が更に不機嫌に染まっていく。自分は彼の地雷を踏んでしまったらしい。
――家に呼ぶのが嫌なのか?
「あーやっぱり良い。行かない」
湊は話を切った。保人の部屋がどんな感じなのか興味はあったが、どうしても行きたいわけじゃない。
ストレッチを終わらせ、さっさと走ろう、と足踏みを始めたとき、保人が目の前に立った。
「どうして気軽に言えんの? そういうこと」
「え?」
「俺は気軽に『うちに来いよ』って言えない」
保人がジッと湊を見た。強い目だった。怒っているのかもしれない。
「ごめん」
湊はとりあえず謝った。なんとなく、自分の軽さが保人を怒らせていることは分かる。
「謝ってほしいんじゃなくて」
苛立ったように保人が前髪をかき上げた。目には焦燥が浮かんでいる。
こういう表情は見たことがない。場違いにも、湊はドキリとした。
「違う答えを期待してるんだ俺は」
今度は困ったように、保人が眉を寄せる。照れを隠すための表情だと、湊はとっくに気がついていた。
「『学校では話せないことを話したい』とか」
尻すぼみになる声には不安が滲んでいる。そんな声を出させているのは自分だと思うと、堪らなくなってくる。
「『学校ではできないことをしたい』とか?」
湊がいたずらっぽく聞くと、保人が右の肘を掴んできた。ジャージ越しでも彼の体温が伝わってくる。
「ああそうだよ。それが一番聞きたかった」
保人が顔を近づけてきた。鼻と鼻が触れる。キスされる予感がするのに、避けられない。
「いつから俺のこと」
時間稼ぎの質問に、「去年の夏。記録会の前」と即答される。
「ああ、仲良くなりだした頃――」
「黙って」
頬に手を添えられ、湊は大人しく目を瞑った。すぐに保人の唇が重なってきた。
キスされるのは初めてだ。いつもは自分からしてばかりだった。
唇はすぐに離れて行かない。次を促すように保人の舌が、湊の唇を突いてくる。
自然と口が緩くなって、彼の舌を容易く受け入れてしまう。
舌先が触れあうだけで甘い痺れが走った。口内が蕩けていくと同時に、頭も働かなくなっていく。
――ああ俺は。こういうキスがしたかったんだ。
触れるだけのキスなんて物足りなかった。もうずっと前から。
視界が青く染まる。今日の空の色じゃない。去年の夏の青だ。
記録会直前で、走り高跳びの猛練習をしていた時だ。失敗しすぎて何回目の跳躍かも覚えていない。バーはあるべき場所になく、マットを背に仰いだ空はセルリアンブルー一色だった。起き上がる気力がなくて横たわったままでいると、保人が声をかけてくれた。
――結果はさておき、おまえのフォーム好き。
そして湊に、手を差し伸べてくれた。
午後五時半に、湊は家に帰りついた。保人とキスをしてから二時間半は経っているのに、まだ湊は夢心地だった。
――年末年始、俺の家に泊まりに来ない? 毎年俺の親、田舎に帰ってていないから。
唇を離したあとに、耳元で保人に囁かれた言葉を反芻する。
「ただいまー」
玄関の三和土にあった靴を確認することもせずに、自分の部屋に直行した。
ドアを開けたとたん、湊は夢から覚めた。
「隆、来てたんだ」
自分の声が、他人のものように聞こえた。
隆がベッドの端に座って、湊の顔に視線を向けてくる。真面目過ぎる目に、胸騒ぎがする。
「話があって――湊が帰ってくるの待ってたんだ」
彼の声は上擦っていた。まるで緊張しているみたいに。
「どんな話?」
「A大に受かった」
「――良かったじゃん。おめでとう」
急に湊のテンションは上がった。自分のことのように嬉しくなった。
「それでさ、一人暮らしする部屋を探そうと思ってる」
言いながら、隆がベッドから立ち上がった。湊が立っているドアの前まで、ゆっくりと歩いてくる。
「湊、俺と一緒に住まない? 都内の広めの部屋を借りるから」
「ルームシェアってこと?」
湊はわざと聞いた。本当は分かっていた。そんなカジュアルな類の誘いではないと。
「違うよ。湊と一緒に住みたいんだ。恋人として」
――恋人? なんだよ、それ。いきなり。
三年前、湊は隆にきちんと告白して、はっきりお断りされたのだ。
彼は高校の三年間で、いろんな女の子と付き合っていたし、家に連れ込んでもいた。
「なに言ってんの。三年前、俺を振ったくせに」
「あのときは湊の気持ちに応えられないと思ってた。男同士で付き合うのに抵抗があった」
「今は違うって? 冗談言うなよ。隆は女の子が好きなんだろ。家に連れ込んでたじゃん」
その現場を目撃する度に、最初の頃はいちいちショックを受けていた。落ち込まなくなったのはいつからだっただろう。諦念が心の中を占めていったのは――。思い出せない。
「どの子と付き合っても本気になれなかったんだ。エッチしててもデートしてても、いつも湊の顔がちらついて」
いつの間にか、正面に隆が立っている。湊の肩を両手でつかんでくる。
「お前の気持ちもまだ変わってないよな? いつもキスしてきた」
必死な顔をして、今更なことを言ってのけるのだ。
――なんで今更、そんなこと言うんだよ。
本当に今更だ。今日この日に――心変わりした当日に言われるなんて。
昨日だったら違っていた。今まで溜めこんでいた鬱憤をぶつけまくってから、同棲の話を受けていた。昨日までなら。
「――ごめん。俺は隆と付き合えない。他に好きな人がいるから」
思っていたよりも冷静な声が出た。心が隆に残っていないことを痛感する。
「キスももう、しない」
保人によって、キスされる陶酔を知ってしまった。あの胸の高鳴りも。知らなかった頃には戻れない。
「嘘だろ?」
肩を掴んでいる手から、力が抜けていく。
呆然としている隆から目を逸らし、湊はドアノブを掴んだ。
湊は保人からもらったLINEのメッセージに早く返信を打つことしか、考えていなかった。了