洗脳
黄昏時。侘しげな街路には、帰路に付く人がまばらに歩いている。猫のけだるげな鳴き声が響く。
私は憂鬱な顔で歩を進めていた。生温い空気が取り巻き、足取りを遅くする。頭の中は霞が立ち込め、上手く思考が回らない。総てが嫌だった。妥協を許さない性格。意固地になって育児、家事、仕事とこなそうとしたが、何もかも上手くいかない。夫と口論が絶えず、家にいるのが億劫で堪らなかった。脳内の澱が軟泥のように溜まって沼と化す。底無し沼となった頭が痛い。帰りたくない。あと数分の距離が憎らしい。
重い足取りを進めていると、鼻歌が聞こえてきた。老女の声だ。歩む度に声が大きくなってくる。次第にそれは歌に変わった。耳を澄ましてみると歌詞が聞き取れた。
鵞鳥は がぁ がぁ 桃の花 ひら ひら
温んだ川で ぢゃぶ ぢゃぶ ぢゃぢゃぶ
いーくら洗って いーくら干しても
未だ日は落ちぬ
右手の荒家からだ。廃墟だと思っていたけれど、誰かが住んでいるようだ。歌は尚も続いている。頭に残る響きと詞。妙に気になり、私は家の周りを歩いて歌の源を探した。裏手に回ると音が大きく聞こえた。木製の壁が隙間だらけだったので、そこから覗き込めた。
小柄な老婆がしゃがんでいる。
中は土間のようだ。老婆の正面にある大きな桶には水が湛えてあり、桃色の何かが浮かんでいる。カボチャ程の大きさの柔らかそうな物体だ。老婆はそれを労わるように優しく揺らしていた。手元にあった石鹸を手に取り泡立てると、それを丁寧に揉んでいく。水が微かに黒っぽくなっていった。
先程の歌が老婆の口から漏れる。軽快な拍に合わせて手が動いている。私は目を凝らした。洗っているものが知りたかった。だが認識した瞬間、悲鳴を零しそうになって慌てて口を抑えた。
脳だった。
老婆は人間の脳を洗っていたのだ。よくよく見ると傍らには中年男性が横たわっている。彼のものだろうか。死んだように動かない。
私は恐ろしくなって引き返そうとした。しかし老婆が作業を進めたので、目が離せなくなってしまった。
老婆は脳を真水で濯ぎ、そっと持ち上げてざるに置いた。水が滴る。水分を切った後、それを男性の頭の上へ動かした。脳を慈しむように撫でながら、何かを呟いている。
ぢゃぶ ぢゃぶ ぢゃぢゃぶ・・・
ぢゃぶ ぢゃぶ ぢゃぢゃぶ・・・
すると、それはひとりでに解けていき、紐のようになった。脳は生き物のように男性の両耳にするすると入っていく。あっという間に全て収まってしまった。
最後まで入り切って数分後。男性はぱちりと目を覚まして身を起こした。少しの間考えていたようであったが、何事も無かったかのように伸びをした。
「僕は不思議な夢を見ていたようだ。でも、凄くいい気分だよ!」
「そうかい、良かったねぇ」
老婆はしゃがれた笑い声を出した。
男性は礼を言った後、颯爽とした足取りで家を出ていった。私は石のようにその場に立ち竦んでいた。悪夢から逃げ出したい反面、彼の生き生きとした姿が目に焼き付いている。脳は鈍く脈を打っていた。
数十分迷った末、私は戸口に立った。三回ノックすると返事があった。扉がゆっくりと開けられる。
あの老婆が玄関前に立っていた。小柄で萎びた身体を古びた着物で包んでいる。薄くなった白髪は頭皮に貼り付き、皺だらけの顔の中で窪んだ目が輝いている。何処かぞっとさせる印象だった。
「こんにちは……」
「何か用かね?」
掠れてしまった挨拶に、老婆は素っ気なく嗄れ声を出す。
「あの……鼻歌が聴こえて……」
先程見たことは話さないでおいた。老婆は値踏みするように此方を眺めた。散々じろじろと見た後、周囲を警戒する素振りを見せながら手招きしてきた。
「ちょっといいかい?」
萎びた顔を近付け、耳元で囁きかけてくる。
「脳をすっきりさせたくないかい? 汚れが溜まっているんだよ。ちょっと洗濯をすれば見違える程綺麗になるさ」
私は息を呑んだ。先程の光景が思い浮かぶ。か細い声で訊ねた。
「記憶は無くなりませんか?」
「調節すればいいからね。希望に合わせるよ」
逡巡していると、老婆はこう付け加えた。
「無理にとは言わないけど、礼金ならいらない。善行だからね」
私はゆっくりと頷いていた。老女は了承という風に微笑んで奥へいざなった。言われるがまま後ろへ付いて行く。土間を進むと、突き当たりが台所になっていた。竈や釜などが並んでいる。右手側には縁側を挟んで戸襖があり、典型的な日本家屋であった。
老婆に促されるまま、私は縁側に座った。ござが敷かれている。台所の右隅に大きな桶があり、老婆はそれを真ん中に置いた。蛇口を捻り、ホースで水を入れていく。戸棚から古びた石鹸を取り出して傍らに添え、水が充分に満ちた頃に私を呼んだ。老婆はござを床へ移動させ、そこに座るよう言った。
言う通りにすると、老女は私の頭を両手で包んだ。手は骨張っていたが予想以上に暖かい。喉の奥から、歌とも呻きとも取れる声を零した。
ぢゃぶ ぢゃぶ ぢゃぢゃぶ・・・
その擬音語を何度も何度も繰り返す。ふと、両耳に違和感を覚えた。横目で見ると、蛇のように細くなった脳が這い出ている。だが恐怖は感じなかった。
老婆の反復が耳に馴染む。
それは少しずつ桶の水の中へ入り、従来の形に収束していった。ちゃぷん、と水が動く。とても気持ちが良い。まるで羊水の中にいるようだった。
穏やかな気持ちのまま、私は眠りに付いた。
「さぁ、目をお開け」
老婆の言葉で、目を覚ました。
私はぼんやりと周囲を見渡した。どうして此処にいるのかが思い出せなかった。
頭が動き出すと同時に、燻っていた靄が晴れていった。雨が上がって生じた虹のように輝いた。日常の問題なんて些細なことに感じる。こんなに清々しい気分は初めてだった。
私は笑顔を浮かべた。靄が消えた理由は分からないものの、どうでも良くなった。老婆に礼を述べ、私は踊るように家へ帰った。満面の笑みで家族に挨拶する。皆驚いたような顔を向けたものの、怒りは沸かなかった。育児も家事も苦にならなかった。家族が部屋を散らかしても腹が立たなかったし、鼻歌交じりで掃除ができた。仕事も目を見張る程にはかどり、失敗しない。
次第に家庭も円満になり、笑顔が溢れていった。絵に書いたように幸せな家族。全てが上手く進んでいた。あんなに悩んでいたことが嘘のようだった。
しかし数ヵ月後、私は気付いた。
風呂場にこびり付くカビのような靄が、脳に付着していた。徐々に、但し確実に汚れが溜まっていくのが分かる。目薬をしても頭を冷やしても、蜘蛛の巣のようにべったりと付き纏ってくる。我慢していたものの、あの爽快さが忘れられなかった。
私は必死に思いを巡らせた。頭の重さが消えたのは老婆と会ってからだ。一体何があったのだろう。どうにも思い出せない。寝ても覚めても私は考え続けた。
そしてある日、唐突に思い至った。
隙間から覗いた光景。桶の中の脳。男性の脳を手洗いしている老婆。
私は老婆に脳を洗ってもらったんだ。
耐え切れなくなり、私は老婆の家へ走っていった。扉を拳で激しく叩き、彼女が出てくるなりもう一度脳を洗ってもらうよう懇願した。
「あんたは……どうしてその事を知っているんだい?」
老婆は不審がる瞳で私を見た。
「見たところ、あんたの脳はそう汚れていない。やりすぎも毒だからね。少し汚れが付いている方が人間いいものだよ。この事は忘れな。さっぱりね」
そこまで言って、はたと思いに耽るような顔付きになる。急に態度を改め、老婆は猫撫で声を出した。
「仕方ない。洗ってやるから入りなよ」
私は危機を感じた。脳を綺麗にする気などなく、記憶を流してしまうつもりだ。事実を知っていることを消すつもりだ。
私は慌てて追い縋ろうとする老婆から逃げた。背後から静止の声が聞こえるも、自宅まで全速力で走った。
鍵を掛け、部屋に篭る。家族が心配の言葉を掛けても無視した。やる気が減退していき、仕事が緩慢になった。次第に家庭がぎくしゃくし始め、些細な事でも気に障って小言が多くなった。笑顔は能面のような顔に変化し、冷え切った空気が充満して霞に拍車を掛けた。私はあらゆる手を尽くして脳の汚れを払拭しようとしたが、徒労に終わった。苛立ちが募る。脳から腐敗臭がする。黒ずんで浸蝕していく。融解する。
洗いたい、洗いたい、洗いたい。
私は居ても立っていられなくなった。
老婆が洗ってくれないなら自分で洗うまでだ。私は夜中、荒屋にこっそり忍び込んだ。幸い鍵は掛かっておらず、木造の扉はあっさり道を開けた。工具を持ってきて損をした。私は息を潜めて侵入した。闇に慣れた瞳には内部の様子がぼんやりと分かる。襖に注意を向けながら、台所へ入った。大きな桶は立てかけてあった。隣に水道がある。私は音を立てないように桶に水を湛えた。石鹸を探し出して、傍らに置く。
問題はどうやって耳から脳を出すかだ。
私はあの時の記憶を必死に掘り起こした。何が要因なのだろう。重大な秘密が隠されている筈だった。あのメロディを鼻歌で歌ってみる。何も起こらない。今度は歌詞付きで歌ってみる。何も起こらない。ふと、老婆がある一節を反復していたことを思い出した。
「ぢゃぶ ぢゃぶ ぢゃぢゃぶ・・・。
ぢゃぶ ぢゃぶ ぢゃぢゃぶ・・・」
すると頭の奥に疼きを感じた。
私は桶の前に蹲ると、そのフレーズを繰り返した。耳からするすると脳が出てきた。私は非常に慎重に事を進めた。完全に抜けきる前に止めなくては。
頃合を見てループを停止した。脳の一部を繋げたまま、動きが止まる。想像通り五感はある。自分の脳がぷかぷかと水に浮かんでいる。
私は成功したことに満足し、頭を動かさないように手で石鹸を充分に泡立てて、脳をこすり始めた。気持ち良さが全身に広がる。思わず表情が綻び、鼻歌混じりになる。泡が少し灰色になった。これはいけない。新品同様になるまで隅々まで洗わなくちゃ。もっと綺麗に、もっと綺麗に。
次第に視界がぼやけ、意識が朦朧としてきた。鼻歌は次第に熱を帯びてくる。私は上機嫌で歌いながら、ひたすら脳を洗い続けた。何気無く、泡だらけになった手を眺める。
私は小首を傾げた。
あれ? 私は何をやっているのだろう? 目の前のものは何?
遠くから荒い足音が聞こえる。首を横に巡らす。どうして耳から変なものが出ているのだろう? 私は訳が分からず、泡の付いた手でそれを掴んだ。
「止めなっ!」
襖が勢い良く開き、凄い形相をした老婆が現れた。私は視線を桶内のものに合わせたまま、耳の物を強くひっぱった。脳内で千切れる音がした。
途端、意識が途切れた。