優しい死神と少女の選択
夢の内容を元にした短編小説第二弾です。少女を救おうとした優しい死神と、自らの終わりを受け入れる少女の物語。
夢を見た。
ふわふわと頼りない、夢の中特有の空気の中、私は普段の通りに日々を過ごしていた。学校に通い、さして良くない頭をうんうんと唸らせノートを取り、休み時間には友達と一緒にトイレに行く。大好きなアイスを帰りに買って、大好きなあの人と並んで食べる姿を妄想しながら帰途に着く。
そんなありふれた日常を送りながらーー最後に突然心臓が苦しくなり視界が暗く閉ざされ思考が停止する。
朝になり、目が覚める。
ボーっとして頭をかきながら自分の身体を見て何も変化がないか確認してみる。
お気に入りのキャラクターがプリントされたパジャマに包まれているのはさして肉付きの良くない薄い胸と、対称的にふっくらと良く育ったお腹だった。
何も変わらなかった。私の体も、着ているものにも何の変化も訪れてはいなかった。夢は夢だ。どんなに劇的で涙溢れる素晴らしい内容だったとしても、目が冷めれば全て消える。
まして私が今朝見た夢は何の変哲もない普通の生活を送る夢だ。そこに少年少女が憧れ没頭するようなものは何もない。
ベッドから這い出ると私は急いで顔を洗い朝食の準備を始める。朝食といってもだいぶ適当だ。薄いパンにバターを塗りたくり焦げ目のついた目玉焼きをのっけて噛み砕き、牛乳で流し込む。
もぐもぐ。
もぐもぐ。
ごくん。
ごちそうさまでした。
時計を見ると七時半を回っていた。
いけない。急がないと。
私の家からでは学校に着くまで結構な距離がある。歯を磨いている時間がなかったので口をゆすぐだけにして身支度を整え、自転車にまたがった。
「ーーーーーー?」
ふいに頭をよぎる何か。何かって何だ?
ペダルを漕ぐ足を止めて考えるが分からない。
分からないからこその「何か」だ。分かってしまったらそれはもう「何か」ではない。
ハッと余計な考え事をしていた事に気が付いた私は急いで自転車を飛ばした。激しい運動の甲斐あって遅刻スレスレのギリギリの時間には教室に滑りこんでいた。
ギリギリセーフ。
「馬鹿。ギリギリアウト、だ」
ぱこん、と出席簿で私の頭を軽く叩いたのは担任の先生だった。クスクス、と教室から笑い声が漏れた。教室に入るなり仁王立ちになりニヤニヤ不気味な笑みを浮かべていた女子生徒が次の瞬間先生に頭をはたかれていたらそりゃおかしいよね。
残念だけどギリギリのセーフではなくアウトの方だったみたいだ。
「本当にーーこんな事でいいのか?」
誰かの声が聞こえた気がした。
◆
「ねえねえ」
「はい?」
声をかけられ、私は振り向いた。そこに立っていたのは眼鏡をかけたクラスメイトの少年だった。
「この申請の書類ってさ、今日中じゃないとダメ?」
「ダメです」
「そっか。内容がまだ煮詰まってないから変更する可能性があるんだよなあ……」
などと彼は唸っている。
彼が手に持っているのは文化祭の出し物を決める時に提出する書類である。クラスでにせよ部活でにせよ或いは個人でにせよ文化祭に出店するためにはこの申請の書類を通さないといけないのだ。
「まあいいや。とりあえず渡しておくよ」
そうして私は書類を渡された。私は文化祭の実行委員なので渡されたこの書類を先生にあとで提出しなければならない。
やっと提出してくれたか。彼が最後の一人だったのだ。今のように事ある事にちょこちょこ細かい事を気にしてなかなか書類を提出してくれなかったのだ。書類を提出するなら間に私を挟まず直接先生に通せばいいのにと私は無駄な作業をやらされている気がしてならなかった。
ともあれ、仕事の一つはこれで片付いた。
廊下を歩いていると、ふと香ばしい匂いが立ち込めてくる。
肩をぽん、と叩かれると手に渡されたのはアメリカンドッグだった。特に何の変哲もない、ごく普通のものだった。
「それ、試作品。食べてみてよ♪」
二カッという笑顔と共に男子生徒に渡されたアメリカンドッグを一口かじってみる。
普通の味。ーーに思える。
しかし二口目を口にした瞬間ヌチャア……という嫌な感触と思いっきり生焼けの中部分が私の舌を悲しませた。
「嫌だもう、コレ生焼けじゃない!」
「アレ? 失敗かあ。めんごめんご」
片手を立てて謝る彼を背にして私は廊下を早足で歩いていった。
◆
粗方文化祭の準備は終了し、私の仕事も片付いたので帰る準備を始める。手早く荷物を纏めると私は自転車に乗って行きとは違ってゆっくりと帰り道を進んだ。
明日はいよいよ文化祭だ。
明日の文化祭に参加できないのは残念だが私は私の仕事をきちんとやり遂げた。これでーー心置きなくいける。
ん? いけるって、どこにだ?
疑問に思って足が止まると同時に目の前に非日常が現れた。
黒いボロボロのローブに身を包んだ男。顔の部分には骸骨の仮面をつけ、手に長い鎌を持っていた。
私は目の前に突如現れた不審者にも叫びをあげる事もなくじっと男の顔を見詰めていた。
「これで満足か?」
男はそう言った。
私は黙ってこくりと頷いた。
私の返答が気に食わなかったらしく、男は語気を強めて更に尋ねてきた。
「これがお前の望んだ世界なのか? こんなものが……何の変哲もない平凡な、只の日常が、お前の望むものなのか!?」
こくり、と私は再び頷いた。
この男と対峙して私は全てを思い出していた。
この男は死神だ。死神の仕事は死者の魂を冥土へと運ぶ事。死者とは私だ。私は、既に死んでいたのだ。
私は幼い頃から心臓病を患っており、ろくに学校へも通えず入退院を繰り返していた。しかし近頃になってだいぶ症状が安定してきて学校にも通えるようになっていた。文化祭を控え実行委員に立候補した私は初めて自分の力で何かを成し遂げる喜びを噛み締めながら充実した日々を送っていた。
ところが、文化祭を目前に控えたある日私は心臓病の発作を起こし倒れた。そしてそのまま帰らぬ人となった。今朝見た夢、あれは夢ではなく現実だったのだ。
そうして死んだ私を憐れに思ったのか、死神が私の前に現れこう言ったのだ。
「お前の望む世界望む姿で生まれ変わらせてやる」と。
私はその申し出を断った。代わりに、ほんの一時だけ寿命を伸ばして貰ったのだ。それが、今日の1日。私に与えられた最後の時間だった。
私はその限りある時間を、やり残していた仕事を終わらせる為に使った。私のその選択が死神にはどうしても理解できないのだろう。
「私にはお前の考えている事が分からん。せめて、文化祭が終わるまでいればいいではないか」
「それは出来ないよ。そこまでは出来ない」
私は首を横に振った。
「何故だ?」
「私は、未練を無くす為に寿命をほんの少しだけ伸ばして貰ったんだよ。文化祭にまで出ちゃったら……逆に未練が残っちゃうよ」
「なら、生きればいい。私の力でもっと寿命を伸ばしてやる」
死神は真っ直ぐに私の顔を見てそう言った。
「死神の仕事は死者を冥土へと案内する事でしょ。そんな事許されるの?」
そう言うと死神はぐっと声を詰まらせて顔を背けた。やはり、そんな事は許されていないのだろう。それでも、食い下がるように死神は己の心情を語った。
「今まで私は色んな人間の魂を看取ってきた。そして時にその者が望む新たな人生を与えてきた。誰もが、生前叶わなかった夢を、望みを現実にする事を望んだ。それが普通なんだ。誰だって、自分がヒーローになる事を望むものだ。己が主役の世界を望むものだ。
なのに、お前ときたら……生まれ変わりを望まぬばかりか、ほんのささやかな望みで満足しようとしている! どうして、そんなに無欲でいられる!?」
憤る死神を前にして私は微笑んだ。
「無欲なんかじゃないよ」
死神は私の顔を見て黙り込んだ。
「貴方なら私の置かれていた状況を知ってるでしょ。私の家はとても裕福で……でも私は病気でろくに学校にも通えず悶々とする日々だった」
「………………」
「お父さんとお母さんは私をとても可愛がってくれていたけど、事故で逝ってしまった。遺産目当てで私を引き取った叔父さん夫婦は私を病院に押し込めてお金だけせびり取った」
死神の表情がどんどん歪んでいく。そう、この死神は優しいのだ。私の為にこの死神は憤っている。その事実が私を堪らなく笑顔にさせるのだ。
「辛い日々だったけど、私はその苦しみから抜け出す事が出来た。僅かな間だったけど、憧れてた学校生活を楽しむ事ができた。そして貴方のおかげで、やり残した仕事をきちんとやり遂げる事が出来た。私は、私の望んでいた事全部を叶えて満足だよ」
しかし私のこの言葉に死神は首を横に振って言った。
「願いを全て叶えて満足だと? お前にはまだ叶えていない願いがあるだろう」
む、と思わず眉が寄る。そこを突いてくるか。私の事を思っての事とはいえ、デリカシーのない奴だ。
確かに、私にはまだ叶えていない、いや、叶える事を諦めた願いがある。あった。憧れている人がいた。だけど、私にはもう先が無い。結ばれたとしてもあの人に悲しい思いをさせるだけではないか。
「だから、作り替えてやると言っているんだ。お前の望み通りの世界に連れて行ってやると」
「ダメだよ」
私は即答した。
「何もかも望み通りの人生を歩む。それは、人の身には過ぎた望みなんだと思う」
ズルをして、普通の人よりも恵まれた人生を送って、望みを全て叶える。それは確かに一見魅力的な事のように思える。けれど、私は知っている。身の丈を超えた望みはいずれ自らを滅ばすのだと。叔父さん夫婦は金に溺れた。そのせいで病人の私の世話もせず遊び放けるような人達になってしまった。でも私は知っている。初めからそうでは無かったという事を。叔父さんは、お父さんとよく似て優しい笑顔を浮かべる人だった。
「きっと私は、何もかも上手く行くという事実に安堵して、何も努力をしなくなる。物の有難みが分からない人間になってしまう。私は、私に失望したくない。たとえそれで苦しい人生を歩む事になったとしても、最後には自分に満足して笑顔で死んでいきたいの」
キッパリと、そう言った。
私の顔を見て諦めたのか、死神は息をふうっと吐いて脱力した。そして言った。
「そうか。それならば仕方ない。約束通り、ここでお前の命は尽きる」
そうして、死神が与えてくれた最後の時間は終わりを告げ、私の体は形を失っていく。私は、崩れ落ちていく口を必死に動かして、最後の言葉を死神に告げた。
「有難う、優しい死神さん。貴方のお陰で、私、笑顔で逝けるわ」
その時の不意をつかれたような死神の顔ったらなかった。私は、満たされた気持ちのまま最後の時を迎えた。