第1話 新人看護騎士・暁トキ
「イメリア経由サウガリア行の長距離バスはまもなく出発します」
オアシス都市ベガルタの王立バスターミナルに朝日が差し込むと、屋根の上に回転式の台座に強弓を備えた馬車式バスの長距離路線が次々に出発する時間だ。円形の停留場の周りには市場が立ち、様々な国から来た色とりどりの民族衣装を着た人たちであふれかえっている。
バスの最前列に、紺色の襟の真っ白な細身のセーラー服を着た暁トキが窓枠に腕をかけて市場を眺めていた。透き通るような真珠色の肌の黒髪の少女は、十字の赤い星のバッジを付けたツバのない帽子をかぶっていた。
突然、市場が騒がしくなった。人々は一斉に足を止め、何事かと騒ぎ始めた。押し合うように人垣ができる。
「じいさんが倒れたぞ」
「息をしていないぜ」
その声を耳にしたトキはバッと席を立ち運転席に向かって「お願い。少しだけ出発を待って」と言うと、そのまま車外へ駆けだしていった。
「すみません。通してください」人垣を押し分けて進んでいくと、騒ぎの中心に、汚い服を着た老人があおむけに倒れているのを見つけた。周りを囲む人たちはざわざわとしながらも、老人を遠巻きに見守るだけだった。
トキは躊躇なく老人の体の上にかがみ込むと汚れた服の胸元をがばっと開き、両手を胸に押し当てて二回、三回と強く押した。心臓に耳を押し当てると、とくん、とくんと心音が聞こえた。
「よし、あとは呼吸ね」独り言をいうと、老人の半開きの口に顔を近づけた。唇と唇の距離があと数センチというとき、動きが一瞬止まった。――これが、男の人と初めてのキス。
――はっ! バカ! なに考えているの。早くしなくちゃ。
これは人命救助のためだ。私は看護学生なのだから。高鳴る胸を押し殺し、トキは意を決して顔を近づけた。あとわずかで唇が触れ合う瞬間、老人が「ゲホゲホ」と大量のつばきとともに息を吐き出した。「おおお!」と周りから拍手が起きた。
褒められて嬉しい気持ちと、大勢の注目を浴びて恥ずかしい気持ちで、トキの顔はみるみる赤くなった。トキは立ち上がると、手でパンパンと制服の埃を払った。「あとの処置はみなさんでお願いします」丁寧に頭を下げると、バスに向かって駆けだした。
「はあ、はあ、お待たせしました」
息を切らしてバスに戻ったトキに乗客の一人が「顔汚れてるよ」とハンカチを手渡した。
運転手も優しい目で声をかけた。「お嬢ちゃん。立派だったぜ、その十字星はだてじゃないな」食パンのような形をした赤い十字星は看護高等学校生の証しだ。
「いえ、当然のことです」
「ますます立派だねえ。では乗客のみなさん、少々遅れましたが出発します。我々のバスには小さな英雄が乗っておりますので、ご安心して旅をお楽しみください」
運転手のおどけたあいさつに満員の車内に拍手が巻き起こると、トキは恥ずかしくなり小さな体をさらに小さくした。
◇
馬車式バスはベガルタの城壁を出た。振り返ると城壁の上には、いくつもの大きな風車がぐるぐると回っている。ベガルタは、町を巡らす城壁の上を数百の風車が並ぶ美しい街として知られている。
トキの反対側に座った親子連れの男の子が窓の外を見て「あっ。すごい高い山」と声をあげた。一斉に乗客が右手を見る。「モモソ山脈だ」「今年は雪が多いな」と口々に話す。
モモソ山脈は大陸を縦に断ち切るように走る。山脈を境にして、東西二つの地域に分かれている。
西は草原がどこまでも広がる乾燥地帯で、暁トキが生を受ける四年前からオチデント帝国が全域を支配している。東は山地、森林、そして複雑な海岸がもたらす豊かな風土を持つ。帝国の脅威も、高くそびえるモモソの山々にさえぎられているわけだ。
山脈のほぼ中心には、ぽっかりと空いた自然の「大回廊」があり、これが東西を結ぶ唯一の大街道となっている。その入り口にはたくさんの旅人とともに大回廊を通る西風を常に迎える、沙漠に囲まれたオアシス都市ベガルタがある。
トキは数年間、住んだ町に心の中で「さようなら」とつぶやいた。
ベガルタを発ってから十時間。ひたすら荒野を南へと向かったバスの車内には、西日が射し込みだした。真夏とは言え、もうすぐ日は沈むだろう。満員だったバスも今は十人ほどの客しかいなくなった。
西日がきつくセーラー服の襟元をつまんでパタパタと扇いでいたトキの視線の先に夕日を浴びた丘が見えだした。
「イメリアの丘!」思わず口に出た。
丘と言っても標高二百メートルはある。低い山と言える高さだ。
バスは幹線道路を外れて夕日の方向に進路を変えると、この丘へと向かった。ガタガタとバスの揺れは大きくなる。八頭立ての馬たちも疲労のいななき声をあげる。
近づくにつれて次第にその全容を現した丘は、鬱蒼とした森の木々で覆われている。丘自体がオアシスなのだ。
丘の斜面に張り付くように城壁が夕日に照らされて、まるで巨大な大理石の彫刻のようだ。何層もの建物群が見え、風車の羽根が夕風を受けてゆっくりと回る。一見すると城そのものだ。そう、これこそが野戦城塞病院として名高い「イメリア流星騎士団病院」なのだ。
「わー。大きいなあ」
トキは大きな目をぱちくりさせた。バスが城壁の目の前まで来ると、病院が想像以上の規模であることが分かる。
見る人がまず圧倒されるのは城壁だ。近くの山から切り出された白い自然石でくみ上げられた城壁の高さは、二十メートルはゆうにある横幅も山の北側から南側まで五百メートル近くは続いているようだ。
城壁のあちこちに、長い年月を経た傷跡のようなものが見える。壁の両端は、ベガルタのものよりも巨大な風車を備えた高い塔が二基立っており、まるで白鳥が翼を広げたような優雅さだ。
優雅な一方で、軍隊を率いた経験のあるものなら、この城壁を一目見れば、攻略の難しさを実感するはずだ。丘の後ろは急峻な崖で、城の南北にも丘陵が広がり、城の正面の狭い平地にしか、主戦力を展開できない。正面からの正攻法に頼るしかないのだ。ここはまさに天然の要害なのだ。
もっとも、一学生に過ぎないトキにとっては、ただその壮麗さにため息を漏らすばかりだった。
運転手がキーッと手綱をひくと、低く「ヒヒーン」と馬たちが鳴き、バスは正門の前に停車した。
「はい、はーい。わたし降ります」
トキは小ぶりなバックパック一つを背負うと帽子をかぶりなおして、はねるように運転席の脇からバスを降りた。停留所には十人くらいの見舞い客らしき家族連れが待っていて、トキと入れ替わりにバスに乗り込んでいった。
「ありがとうございました」
トキは、客が乗るのを確認すると、運転手に向かって元気な声であいさつをした。
運転手も「長旅ご苦労さん。気をつけてな、お嬢さん」と手を振ると、馬たちに鞭をいれ、Uターンして立ち去った。
プップププー・・・
バスの運転手が吹いたラッパのクラクションの響きが小さくなると、独りぼっちになったトキは不安な気持ちを抱きながら正門へと足を進めた。
空はまだ茜色だが、太陽は山の向こうに沈んでおり、周りはすでに薄暗い。自然と歩みが早くなる。
正門の前に来ると、門の隣に壁の高さまであるレンガ造りの円筒の塔があった。入り口らしいガラス戸の横には「受付はこちら」と書かれた木の看板が下げられていた。
トキは緊張しながらそーっとガラス戸の中を覗いてみた。中には患者用の木の長いすが何列か並んでいる。
そこに座る人はすでにおらず、正面の受付らしい木のカウンターに、白衣を着た若い女性がうつぶせになって寝ているのが見えた。肩まである茶色い髪がカウンターから垂れさがっている。受付の女性の寝息がかすかに聞こえる。
ナース服を着ているから病院の看護婦なのだろう。もう外来受付の時間はとうに終っているから、留守番だろうと思った。
「よし元気よくあいさつするぞ」
独り言を言いながら、戸を押そうとした。ガラス戸に黒い人影が映り、背後に一瞬、人の気配を感じたような気がした。その瞬間、トキの小さい体はいきなり横へはじき飛ばされた。
「な、なんなの?!」