99:漆黒の塔
溢れ出した闇から身を庇うように顔面を隠す――それとほぼ同時に生じたものは、強い風が吹き抜けてゆくような感覚だった。
周りにあった全てが吹き散らされ、塗り替えられてゆくように、私の周りを闇が通り抜けてゆく。
そして強い衝撃が消え去り、顔面を庇っていた腕を外せば――
「な……!?」
周囲の景色は、うちの神社の境内へと変わっていた。
相変わらず強い違和感を感じると言う事は、やっぱり外に出られたという訳ではないみたいだけれども。
いや、それよりも今重要な事は、周囲に皆の姿が無いという事だ。
先ほどまで目の前にいたはずの賢司や秋穂さんの姿も無い。
一体どうしてこうなったのかは分からないけれど、どうやら奴のせいで分断されてしまったらしい。
まずい状況だ。ここで孤立してしまうなんて――そう思った、刹那。
「――誰ッ!?」
背後から響いた物音に、私は誰何の声を上げていた。
時間が巻き戻ったとするならば、ここに何者かがいるのはおかしい。
もしもこの状況で怪異が現れたりしたら、対処するのは難しくなってしまうだろう。
一応杏奈の日記はあるみたいだけど、先輩に話を聞けたからといってそれに対応しきれるかどうかは分からないのだ。
いざとなったらすぐに逃げれる体勢を整え、じっと物音が聞こえた方へと眼を凝らす。
そこにいたのは――
「って、トモ?」
「お、おう。大丈夫か、杏奈?」
「ええ、怪我はないわよ。そっちも大丈夫?」
「ああ、問題ないさ」
がさがさと林の中から現れたトモは、身についた葉っぱを払いつつきょろきょろと周囲を見回している。
どうやら、現状を把握し切れていないらしい。
といっても、私だって現状はさっぱり理解できないのだけれども。
「……ただ時間が巻き戻った、って訳でもないみたいだな」
「トモも気付いた?」
「ああ。確かに時間は巻き戻っていたみたいだが、俺達の服装は変わってねぇし、それに俺がこんな所に放り出されたのもおかしい」
「って言うか、何でこんな所にいたのよ?」
「あの時、杏奈の傍にいたからじゃないのか? まあ、理由なんてどうでもいいがな。合流する手間が省けた」
色々と不可解ではあるが、合流に関しては確かにそうだ。
この夜の街を一人で当てもなく彷徨うのは流石に危険すぎるだろう。
一応このトモが本物なのかどうかという疑問もあるけれど――このトモからは、あの違和感を感じる事はなかった。
それに何より、あの怪異の主と言う存在の性質上、噂話でもない限り何かを構成する事は出来ないだろう。
少なくとも、私に違和感を覚えさせないだけの偽物を構築する事は不可能だ。
「他の皆はどうしたのかしら?」
「少なくともこの周辺にはいなかったと思うぞ。もしもいたら、ヒメが俺たちの気配に気付いてる」
「ああ、最近かなり敏感になってきてるしね」
あの能力のおかげで、ヒメは気配に対してものすごく敏感だ。
近くに私たちの気配があれば、すぐに気付いて近づいてくるだろう。
それが無いという事は、少なくともこの周囲にヒメはいない。
「たぶん、ヒメは賢司と一緒にいると思うぜ?」
「その根拠は?」
「杏奈の傍にいた俺が杏奈の近くに飛ばされたってことは、あの二人もそうなんじゃないかって思っただけだ」
成程、確かに納得できないわけではない。
それに、あの二人が一緒だと言うなら多少は安心できるだろう。
怪異に対する知識がある賢司と、怪異を斬る事の出来るヒメならば、よほど危険な存在でもない限りは対処できる。
ただ、問題は――
「秋穂さん、大丈夫かしら……私としては、アンタが秋穂さんの方に行かなかった事がびっくりなんだけど」
「仕方ないだろ、一度離れちまってたんだから」
「はいはい……トモ、アンタはあいつが最後に言ってた事覚えてる?」
「あの突然喋りだしたあいつか? 確か――」
トモはあの時の言葉を思い出そうとして虚空を見上げ、そして硬直した。
思い出したのだろう、あの時の言葉を。
あいつは確か、『喰らい、補え』とか言っていた。
その意味がどういうことなのか、ここまで来れば簡単に想像する事が出来る。
「あいつは、ヒメと葵ちゃんの力を奪い取ろうとしてるんだと思う。だから、秋穂さんが積極的に狙われる事はないと思う」
「けど、安心できるって訳でもないだろ。どっかで合流しねぇとな」
「そりゃ分かってるけど、そんなのどこに向かえばいいかなんて――」
言いつつ周囲をきょろきょろと見回して、私は思わず言葉を失っていた。
違和感を感じる事を除けばいつも通りの町の風景。しかしその中に、一つだけ不可解なものが存在していた。
町の中心部――かつてひきこさんと戦ったあの公園の辺りに建つ、漆黒の塔。
あれは時計塔なのだろうか。黒く、歪に捩れたその塔の上部には、黄金に輝く時計のようなものが見えている。
あんな物は、三上町には存在しない筈なのに。
「何だよ、ありゃ……」
「私に聞かれても分からないわよ……けど、これ以上無い目印にはなりそうね」
「近付くのは危険じゃないのか?」
その可能性は否定できない。
というより、ほぼ確実に危険だろう。直感ではあるが、あそこがこの世界の中心のような場所なのだと思う。
即ち、あそこに敵がいる可能性が高いという事だ。
けれど――
「時間で解決する問題ならそれでもいいんだけどね。でも、今回はそういう訳には行かないでしょ」
「成程、補欠に入らずんば意地を得ずって奴だな」
「虎穴と虎児でしょうが」
こんなくだらない問答をしていてもしょうがない。
とにかく、あの場所に向かうのを一つの目標としよう。
恐らく、賢司や先輩でも同じ判断を下すはずだ。
あちらに向かっていれば、賢司たちと合流できる可能性もある。
「ともあれ、あっちに行くしかないって訳だ」
「そうね……万全の体勢で行きたい所だけど、そうも言ってられないか」
先輩はこの場にいない。その上、相手の弱点などさっぱり分からない。
そもそも、相手は怪異ではないのだ。それら全ての上に立ち、自在に操る逸話の王。
ただの人間が、敵う相手ではない。
けれど……一つだけ、思いつく事があった。
「そうだ……!」
振り返る。目の前にあるのは、現実とほぼ同じ形で構築された香御城神社。
もしもこの家が完全に再現されているのであれば、その中にある物も、恐らく。
いや、もしも情報を元に再現されているというのであれば、下手をすれば現実にあるそれよりも確かな力を持っている可能性がある。
その可能性に思い射たり、私は本殿の方へと駆け寄った。
「おい、杏奈!?」
「ちょっと待ってて、もしかしたら!」
本来ならば罰当たり極まりないが、もしも偽物が作り出した物だと言うのならば使う事もやぶさかではない。
これが本当に効果があるかどうかは分からないけれど、少なくとも私の祝詞は妖怪相手には効いていた。
だとすれば、ここに納められている御神体もそれだけの力を持っている可能性がある。
本殿の奥、箱の中に安置されているそれは――
「あった、佐瑠女五十鈴……!」
――三角形の各頂点に鈴が付いたような、黄金の鈴。
三角形の中心部には金具が伸び、そこを通し固定ように取っ手が付いている。
本来の神楽鈴はこれが三段ぐらいあり、そこにいくつもの鈴が付いているものだけれど――これは、非常に特殊な品だった。
「杏奈、何だそりゃ?」
「うちの御神体よ。天鈿女命って知ってる?」
「いや知らん」
「……じゃあ、天岩戸は?」
「ああ、それなら知ってるぞ。太陽の神様が引きこもったってアレだろ」
引きこもるという表現には若干複雑な部分が無くはないが、間違いではない。
天照大神が天岩戸に隠れてしまった事は非常に有名な神話だ。
「天鈿女命っていうのは、岩戸の前で踊りを踊って、その太陽の神様を外に引っ張り出した神様の事よ。佐瑠女五十鈴っていうのは、その時に用いられたと言われてる鈴なの」
「って、それ神話の道具って事か!?」
「いや、別に本物って訳じゃないわよ。そういう風に伝えられている道具って言う事だけ。分霊みたいな物よ」
まあ、トモはたぶん理解できていないだろうけれども、今は詳しく説明している時間もない。
携帯ストラップの鈴でも効果があったのだ。だとするならば、これはそれ以上の効果を発揮する筈だ。
まあ正直罰当たりというならばこの間道祖神をぶった斬ってしまった事のほうが相当ヤバイ。
あれって、天鈿女命とその夫の猿田彦を表しているから。なので、あの道祖神は後でしっかりと修理して補強しておいた。
お兄ちゃん曰く、ちゃんと許してくれたとの事……今思うととんでもない事をしてしまったものだ。
ともあれ、今はこれを使わせて貰うしかないだろう。
「よし、それじゃあ行くわよ」
「おう、分かった」
本殿を出て石段の方へと向かう。
と、本格的に出発してしまう前に、私は日記帳を取り出した。
携帯が圏外になってしまっている事は確認したけど、これならば先輩と連絡が取れるかもしれない。
「杏奈、先輩に!」
『うん、分かってるけど……ちょっと、大変みたいだよ』
その言葉に、私は目を見開く。
どうやら、予想以上に厄介な状況になっているみたいだった。
* * * * *
黒い町に二人分の足音が響く。
それは本来ならばこの町にいないはずの存在、テリア・スリュースと市ヶ谷葵であった。
先ほどまで黒い空間に囚われていた彼女たちは、いつの間にかこの町の中へと投げ出されていたのだ。
「葵、大丈夫?」
「う、うん……」
とりあえず今は落ち着いているが、葵の様子はあまり余裕があるといった風情ではない。
対し、テリアの方は冷静さを保っているように見えるが、それも幼子を不安にさせないように気を張っているに過ぎなかった。
二人とも、最も大切に思っていた家族を失ったばかりなのだ。内心は決して穏やかではない。
二人の姿は、基本的には浩介を追っていたときと同じ。
しかし、テリアの格好だけは若干変化していた。
彼女には少々大きめなベージュのコートと、右手に握られているのは古臭いラジオ。
そして左手で葵の手を引き、いつでもラジオを起動させられるように周囲へと気を配っていた。
手を引かれる葵の方は、残る左手に四つ折にされた紙を握っている。
あの時、浩介が持っていた筈の道具。それらは今、テリアの手の中にあったのだ。
「あ……お姉ちゃん、紙に文字が」
「杏奈ちゃんか。ちょっと見せて」
現在のところ、テリアたちには著しく情報が不足している。
連絡手段がこれ以外に存在しない以上、杏奈の日記は非常に重要な存在だった。
テリアは葵から日記の切れ端を受け取り、そこに浮かび上がる文字に眼を通す。
「はい、こちら部長だよ。杏奈ちゃん、状況はどうなってる?」
『端的に言うとかなり悪いです。こっちは分断されました。私の所にはトモがいますけど、ヒメと賢司と秋穂さんに関しては現在行方不明です』
伝わってきた杏奈の言葉に、テリアは目を細める。
状況は悪い。けれど、これは同時に好機であるとも言えるのだ。
『恐らくここは、あの偽物の世界の発生源となっている場所なんだと思います。あいつが再びあの世界を展開しないのは、恐らくヒメと葵ちゃんの力を取り込むため。逆に言えば、二人が捕まりさえしなければアレが展開される事はないと思います』
「成程ね……分かった、気をつけるよ。姫乃ちゃんなら大丈夫だと思うけど、問題はこっちって訳だ」
とは言え、葵が一人で分断されてしまうよりはよほどマシな状況だ。
今は浩介が残してくれたラジオもこの場に存在している。
怪異を相手に、必ずしも不利であるとは言いがたい状況だ。
『あ、それと……もしかしたら、秋穂さんが一人で分断されてしまったかもしれません。力を持ってないから積極的に狙われる事は無いでしょうけど……』
「万が一が無いとも言えないか。分かった、ウツロに探させるよ。ただ、ワタシ達は狙われてるから、合流はしないけど」
『はい、了解です。私達は中央にあるあの黒い塔に向かおうと思います』
「あからさまに危険そうだけど……他に目印も無いし、決着はつけないと駄目か」
相手が意味も無く自分たちを解放してくれると思うほど、テリアも楽観的な性格ではなかった。
となれば、相手を倒さなければこの世界から抜け出す事は叶わない。
逃げ続けていた所で、いずれは追い詰められてしまうのがオチなのだ。
「ともかく、了解したよ。お互い気をつけよう」
『はい、分かりました。何かありましたら連絡します』
「うん、それじゃあね」
その言葉と共に文字が消え去り、日記の切れ端は再びただの白紙に戻る。
それに対して若干の心細さを感じたが、テリアはその感覚を振り払い、笑顔を浮かべて葵へと声を掛けた。
「それじゃあ、また持ってて。何か文字が浮かんできたらワタシに知らせてくれればいいから」
「ん……分かった」
日記に注意させることで、周囲にあまり目を向けさせないようにする。
そうすれば、突然怪異が出てきた時にも、そこまでパニックになる事はないだろう。
そんな事を考えながら、テリアは視線を上方へと向けた。
その先にある、漆黒の時計塔へと。
「護るんだ、ワタシが……必ず」
誰にも聞こえないほどの小さな声。
けれどそこには、この世界の重圧を容易く跳ね飛ばすほどの、強い意志が込められていたのだった。




