98:遡る侵蝕
停止したバイクから降り、私はほっと安堵の息を吐き出す。
正直な話、これは今までで一番の綱渡りだったのではなかろうか。
ここまで相対してきた怪異は危険なものも多かったけど、私たちだけで命の危険に晒される事はそうそう無かった。
まあ、今回の危険は怪異ばかりという訳でもなかったけど。
「賢司君!」
私に続いてバイクから降りたヒメが、待ちきれないと言わんばかりに車の方へと駆け寄ってゆく。
気持ちは分らないでもないが、あそこには怪異の主と思われる存在がいるのだ。少しは落ち着いて行動して欲しい。
気を安らげる暇もないままに私はトモと一緒に車の方へと駆け寄り――同時、後部座席の扉が開いた。
出てきたのは言わずもがな、賢司だ。
「ヒメ!」
「賢司君! よかった……!」
心底安堵した表情で、ヒメは賢司に飛びついてゆく。
鍛えているためにそれなりに重さがあるヒメの体を賢司は危なげ無く抱き留めて、その髪に顔を埋めていた。
どうでもいいが、賢司は割と匂いフェチな所があると思う。
車の中を見れば、秋穂さんも無事な様子。とりあえずトモに秋穂さんを任せ、私は賢司の方へと歩み寄った。
「ギリギリだったけど、間に合ってよかったわ」
「ああ……こっちも途中で気付いたんだが、連絡が取れなくてな。心配掛けてすまない」
「……賢司、自力で気付けたの?」
私が言うのもなんだけど、この世界が偽物であるという事に気づくのは非常に難しい。
特に、私たちのようなヒントを得る事も無く自力でそこに辿り着くなど、かなり難易度が高い行為だろう。
それに、賢司にとってこの世界は、かつて失ったものが全て残っている世界だ。
もしもそれに惹かれていたのであれば、この記憶を取り戻す事なんて出来なかったはずなのに。
けれど賢司は、何でもない事のように笑いながら声を上げた。
「この道、どうにも嫌な感じがしてな。その理由を捻り出そうと考えていたら、違和感の正体に気づけたって訳だ。まあ、それだけじゃないが――」
「秋穂さん、早く!」
「ど、どうしたの友紀君? そんなに慌てて」
と、賢司の言葉を遮るように大きな声を上げながら、トモが秋穂さんを車の外へと連れ出した。
その様子に、私は思わず眉根を寄せる。
秋穂さんはまだ、記憶を取り戻していないのか。
彼女は私たちの姿を認めると、どこか困ったような表情を浮かべながら声を上げた。
「一体どうしたの、貴方たち。さっきのバイク、貴方たちでしょう? 何であんな危ない事をしたの?」
「あ、えっと、それは……」
無茶な事をしていたという自覚はある。けれど、あれだけの事をしなければならない状況だったのだ。
今のところ、車の中の人々に動きは無い。
と言うかむしろ、不気味なほどに動いていない……どういう事なのかは分らないけれど、こちらを妨害しないのであれば好都合だ。
さっさと説明して、秋穂さんに正気に戻って貰わなくては――そう思い声を上げようとした瞬間、私を遮るように賢司が手を伸ばした。
「賢司?」
「姉さん……下手な芝居は止めてくれ、気付いてるんだろう?」
「な……何の、事?」
秋穂さんのその反応に、私は思わず目を見開く。
そして同時に、納得していた。先ほど私が賢司に対して抱いていた懸念。それは、秋穂さんにも当てはまる事だったのだ。
賢司と市ヶ谷さん以外の家族を失って、その市ヶ谷さんもついに命を落としてしまった。
長い時間の中でその傷を癒していたのかもしれないけれど、目の前で市ヶ谷さんを失ってしまった心の傷は浅くはないはずだ。
だとすれば、この世界で再び感じる事が出来たかつての日々を、惜しいと思ってしまうのも無理はないと思う。
けれど、賢司はそれを否定した。
かつての幸せな日々を、己の手で捨て去ったのだ。
「確かに、姉さんの気持ちは分かる。俺だって、悩まなかった訳じゃないさ。こんな形であの日々の続きを見られるとは思っていなかった」
「……」
賢司は、目を伏せながら秋穂さんに対してそう告げる。
家族みんなで過ごした日々は、賢司にとっても大切なものだった。
何より日常を大切に思っている私だからこそ、その思いは痛いほどに分かる。
それを取り戻す事が出来ると言うなら、何を捨て去ってでも飛びついてしまうかもしれない。
例え、幻だと分かっていたとしても。
「けどな、姉さん。俺は、それだけは認める訳にはいかないんだ」
「どう……して」
秋穂さんの声が、僅かに響く。
その中には、深い葛藤が渦巻いていた。
やはり、秋穂さんも分かっているのだ。このままではいけないと。
けれど、取り戻したものを簡単に捨て去る事など出来なくて……だからこそ、苦しんでいるのだろう。
そんな葛藤を前に――賢司は、告げる。
「俺は、ヒメを選んだから」
「え……」
その言葉はどこまでも真っ直ぐで、純粋で、眩しさすら感じてしまうほどのものであった。
ただ純粋に、心の底から、賢司はその言葉を発している。
本当の本当に、ヒメの事が好きなのだと……ヒメと共に在るこの日常を選んだのだと、そう告げていた。
「俺は、ヒメと一緒に生きると……ヒメの事を護り、ヒメに護られて、共に歩んで行くと決めたんだ。二人で一緒に幸せになると、そう約束……いや、そう誓ったんだ」
「――――っ!」
その言葉に、私は思わず息を飲む。
そして、私の口元は自然と笑みの形を作っていた。
二人が一緒に幸せになる――それは、私が二人に対して抱いている何よりの願いだったから。
それを優先して、その為にかつての幸せを捨て去ってくれた事が、私にとっては何よりも嬉しいことだった。
賢司は過去の幸せではなく、未来の幸せを願ったのだ。
「姉さんだってそうだろう、ちゃんと言葉にしなかったかもしれないが、自分に誓っていた筈だ!」
「私は……!」
「そうだろう! 浩介兄さんが死んだ時、姉さんは決めた筈だ!」
強い言葉に、秋穂さんが息を飲む。
いや、それはその言葉に込められた気迫の為だけではなかっただろう。
それはきっと、秋穂さんが無視することの出来ない言葉だったから。
「姉さんは――葵を、護るんだろうッ!」
「ッ……!」
そしてついに、秋穂さんは自分を誤魔化しきれなくなっていた。
大きく目を見開き、その視線を伏せる。
元の世界にあって、この世界にないもの――それは、あの事故の後に拾われてきたテリア先輩と葵ちゃんの存在だ。
ここはきっとIFの世界。あの事故が起きなかったらこんな風になっていたと言う仮定の世界だ。
そんな世界で再び事故が起ころうとしていた理由は分からないけれど、今この時点で先輩や葵ちゃんがここにいないのは間違いない。
つまりこの世界を選ぶという事は、あの二人を見捨てるという事に等しいのだ。
それを自覚してしまえば、秋穂さんにそんな事が出来る筈がない。
だって秋穂さんは、二人の事を本当の家族のように思っていたのだから。
「ごめん、なさい……私は……!」
「俺だって、気持ちは分かるさ。もしも父さんたちが取り戻せるなら、是が非でも飛びついていたかもしれない。でも……これは駄目だ」
言って、賢司は車の方へと視線を向ける。
未だに沈黙を保っている車内。それは最早、異様と言うよりも不気味だった。
中からは私たちの姿が見えているはずだ。もしも賢司の両親なら、私達の事を気にして出てきていてもおかしくない。
だと言うのに、彼らは全く、何の反応も示さなかったのだ。
それどころか、身じろぎ一つしていない。じっと前方を見つめたまま固まって、動かずにいるのだ。
私には人間と言うより、マネキンが座っているようにしか思えなかった。
「こんなのは、父さんや母さんじゃない。この世界はきっと、失われたものは再現できないんだ。俺たちが錯覚しているだけで――全て、偽物なんだ。だから俺は、こんなものに縋り付きたいとは思わない!」
人形、偽物。それがきっと、賢司の両親や市ヶ谷さんの家族に対して感じていた違和感の正体。
そしてそれに気付いてしまった以上、秋穂さんも無視する事は出来なくなってしまったのだ。
そうである以上、秋穂さんが先輩たちを見捨てる筈がない。
再び上がった秋穂さんの顔には――強い決意の表情が浮かんでいた。
「そうね……ごめんなさい、賢司」
「俺に謝る必要は無いさ。お帰り、姉さん」
「ええ。ただいま、賢司」
和解の言葉に、私はほっと安堵の息を吐く。
とにかく、これで全員が記憶を取り戻す事が出来た。後は、怪異の主を何とかしなくては。
そう思いながらヒメがずっと木刀を構えて車の方――運転席に座る市ヶ谷さんのお父さんを警戒しているのだけれど、未だに動きがない。
ここにいるのはもしかしたら本体じゃないのではないか……そう考えた、刹那。
「――っ!?」
「これ……!?」
世界を覆っていた強烈な違和感――それが、鳴動を始めた。
一番最初に気付いたのは私とヒメ。ヒメの力と同じあの不思議な力が、何らかの作用をしているのを感じたのだ。
どのような形で力が働いているのかまでは特定できないけれど、間違いなく何かが起こっている。
感じるのは目の前の車からではなく、周囲全体だ。恐らくは、この世界全体。
一体、何をしようとしているのか――
「皆、上を見ろ!」
それに一番早く気がついたのはトモだった。
周囲を見渡していたはずのトモは、何かに気付いたのかすぐさま空を見上げ、そして私たちに声を掛けたのだ。
私たちもそれに倣い空を見上げて――絶句した。
空が、動いているのだ。
「いや、違う……何よ、これ」
首を振り、私は己の認識を訂正する。
空が動いているのではない、急速に日が沈もうとしているのだ。
そもそもおかしい。もうすぐ夕方だと言うにも関わらず、太陽は真上にあったのだから。
そして、その太陽が沈んでゆく方向に対して、私はこれ以上無いほどの違和感を覚えていた。
「違う……逆、じゃないの」
日が沈む方向が違う。
生まれてからずっと、私はこの町で暮らしてきたのだ。
日がどちらから昇ってどちらに沈んで行くかなど、毎日のように見て知っている。
だと言うのにこの太陽は、上るはずの東側へと沈んでいっている。
そう、まるで――時間を巻き戻すかのように。
『ドウ……シテ』
ありえない光景に唖然としていた私たちの耳に、一つの声が届く。
地の底から響くような、直接脳に届いているかのような、そんな声。
けれどその発信源を、私達は正確に知る事ができた。
簡単な事だ……その声は、目の前から発せられていたのだから。
『止マッタノニ、止マッタノニ、ナゼ戻ラナイ』
車の中、車を止めた姿勢で硬直していたはずの市ヶ谷さんの父親が、カタカタと音を鳴らす。
その姿に、私は思わず背筋が寒くなるのを感じていた。
――血涙を流している。凄絶なまでの感情が、そこに渦を巻いていた。
『ヤリ直セ、巻キ戻レ、繰リ返セ』
そして、唐突に理解する。
この世界に時間と言う概念が存在しないのではないかと、煉さんが言っていた言葉。
今の私たちに合わせて世界は変質しているが――この世界は、変わらないのだ。
ずっとずっと、同じ日を繰り返している。七年前、事故によって全てが始まった、あの日を。
『足リナイナラ――喰ライ、補エ』
車が、内側から弾ける。
そう錯覚するほどに、膨大な量の闇が車の内側から溢れ出し――全てを、漆黒に染め上げた。




