97:疾走
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
ここの所走ってばかりいる気がする。何だか、無駄に体力が増えてきていないだろうか。
まあ、毎日長い石段を上り下りしているので、元々体力には自信があったのだけれども。
これが無ければこれまでの怪異を生き残れたかどうかは分らないので、一応あの忌々しい石段にも感謝しないではないのだけれども。
ヒメとトモに連絡を終えた私は、すぐさま賢司の記憶を戻させようとあいつの所へ電話を掛けていた。
出発していようがいまいが、とにかくその用事は止めさせなくてはならない。
無論事故が起こると決まっている訳ではないのだけれど、何故か最近無駄に鋭敏になっている直感が、私に嫌な予感を告げていた。
このまま放って置いては、拙い事が起きると。
しかしながら、賢司は私の電話に出る事は無かったのだ。
あいつはかかって来た電話にはすぐに気付く人間だし、今日に限ってマナーモードにしているとは思えない。
だとするならば――出られない状況か、或いは何かによって阻まれているのか。
一応呼び出しはしていたものの、本当に向こうに通じているのかは分からない。
そのぐらい、この世界は訳の分らないものなのだ。
「はぁっ、はぁっ……ああもう!」
この上なく厄介な状況に毒づく。
相手の化け物が一体どんな存在なのか、それは少ししか分っていない。
けれど、それは間違いなくこの異界の主なのだ。
私はこれまで、ここまで巨大な異界に入り込んだことなど無かった。
ひきこさんの時は公園一つ、学校の七不思議の時は学校の敷地内、そして隠れ婆の時は森一つ。
どれもこれも十分広いけれど、町ひとつを丸ごと包み込むような広さは持ち合わせていなかったのだ。
それだけで、これを創り上げている存在の規格外っぷりが見て取れる。
しかも問題は――相手が怪異ではないということだ。
怪異には弱点と言うものが存在している。あらゆる人間の認識から成り立っている以上、その共通認識から逃れる事はできないのだ。
けれど、今回の相手はそうではない。何せ、怪異ではないのだから。
元々は人間であり、そしてお兄ちゃんたちと同じく超越者になった存在。
それに対抗する手段など、私には存在していない。
そう……私には。
「やっぱり、ヒメに、頼るしか、無いか!」
いつもの待ち合わせの場所に辿り着き、並木に手を付いて荒い息を吐きながら、私はそう呟く。
あらゆる怪異に通用する剣。ヒメの持つ、特殊な力。
あれはお兄ちゃんたちの持つそれと同じもので、そしてその力ならばきっと、怪異の親玉を斬る事が出来るだろう。
安直ではあるが、残念ながらそれしか方法は考え付かない。
ヒメ任せにするのも私としては嫌なのだが、贅沢は言っていられないだろう。
と――そこに、聞き覚えのある声が響いた。
「おーい! 杏奈ー!」
「トモ! こっちよ!」
視線を上げて振り返れば、そこにはヒメを後ろに乗せてバイクを運転するトモの姿があった。
流石に大型バイクとは行かないが、それでも現在の免許で買える限界のサイズである。
律儀に十六歳になるのを待ってから免許を取りにいった辺り、根は真面目な奴だ。
が――今回は、交通規則を思いっきり逸脱してもらう他ない。
近寄ってきて停車した二人に走り寄りながら、私は声を上げる。
「トモ、アンタも思い出したのね!?」
「ああ。けどお前、本気なのか?」
「本気も本気よ。生憎と、ただ手をこまねいて見てるつもりなんてないわ」
無茶無謀は承知の上だ。けど、今はそれも仕方ない。
私は躊躇うことなく、トモの膝の上に腰を下ろした。
「おっふ」
「変な声上げてんじゃないわよ馬鹿。ヒメが木刀振り回せるようにするにはこうするしかないでしょ」
身を縮込ませながらトモの前に座りつつ、私は眉根を寄せながらそう告げる。
このバイクはどっちかと言えば後ろのほうに二人座るほうが安定するだろう。
いやまあ、そもそも三ケツする事自体が想定されていないでしょうけれども。
しかし、今は三人で行かなくてはならない。途中で何が現れるか分らない以上、指示を飛ばす人間が必要だ。
そしてヒメが木刀を振り回すには、後ろに二人乗るのは避けなければならない。
「ヒメ、木刀はあらかじめ出しておきなさいよ?」
「分かってる。走行中だと出せそうにないし」
言って、ヒメは竹刀袋から例の黒い木刀を取り出した。
どうやら、この世界でもこの木刀はしっかりと存在していたらしい。
その辺はいちいち律儀な怪異の主に嘲笑を送りつつ、肘でトモに合図を送る。
「躊躇ってる暇なんてないでしょ、行くわよ!」
「はっは、男前だねぇ杏奈さん。オッケェ――んじゃまァ、張り切って行くぜ!」
ヘルメットを被せられ、思わず首を引っ込めつつも、私は小さく笑みを浮かべる。
私の日常が徐々に戻りつつある、その心地よい感覚に対して。
そしてトモはそれに応えるかのように思い切りエンジンを吹かし――バイクは、勢いよく発進した。
「ハッハー!」
「一応警察に追われかねない事やってるんだから、無駄に目立つんじゃないわよ!」
「あー? 聞こえないぜー!?」
私のはフルフェイスのヘルメットではないものの、位置的に声は聞き取りづらくなってしまっているようだ。
まあ、完全に聞こえていないと言うわけではないだろうけど。今のは半分わざとだろう。
どちらにしろ指示を飛ばすのはちょっとやりづらいが、細かい指示を飛ばすときには日記の杏奈に協力してもらう事にしよう。
状況次第によっては厳重注意じゃ済まないような危険行為をする事になるでしょうし……無茶も今更といえば今更だけど。
とにかく、今は急がなければ。
向かう先は、例の事故があった場所。
そこであると言う確証は無いのだけれど、私達は直感的にそこだと判断していた。
あの事故の事、そして市ヶ谷さんの事……説明はできないけれど、あの場所は何か特別な要素が存在しているのだ。
だから、もしも何かが起こるとしたらあの場所なのだと――そして、賢司達がそこに辿り着くまでがタイムリミットなのだと、そう感じていた。
「えっと、確か……」
日記帳のページを捲り、この間市ヶ谷さんを追いかけていた時の地図を取り出す。
道順を覚えていない訳ではないけれど、何が起こるかは分からない。
何せ、私達は今相手の腹の中にいるようなものなのだ。
怪異の主は、私たちをこの世界に……自分の異界に飲み込んだ。それは、向こうが一方的に有利な状況であると言う事だ。
この異界がどのような性質を備えているのかは分からないけれど、私たちが記憶を取り戻しているとなれば、妨害が来る事は簡単に予想できる。
と言うか、そもそもある疑問が残る。
怪異に目的と言うものは存在しない――それは以前、ヒサルキに聞かされた通りだ。
けれど、今回の相手は怪異であるとは言い切れない。
私からすれば怪異だろうが超越者だろうが、人知の及ばない化け物と言った所なのだけれど……いや、お兄ちゃんたちは別として。
とにかく、怪異の主と呼ばれる存在は、それそのものが怪異であるとは言いがたい。
なら……その目的とは、何なのだろうか。
「あいつは、市ヶ谷さんの命を削っていた」
カーブに際してトモに合わせて体重移動させながら、私は小さく呟く。
吹き付ける風の中で、私の声は消えてしまっていただろう。
けれど――その疑問は、確かに浮かび上がっている。
市ヶ谷さんの死体が消えてしまった事……ヒメはアレを、市ヶ谷さんの情報が流れて行っていると表現していた。
正直な所、感覚として理解する事はできない。
が、要するに市ヶ谷さんの存在自体があのヘドロみたいなのに吸収されてしまったという事だろう。
何故そのような事をしたのかは分からない。市ヶ谷さんの父親だといっていたのに、何故。
それに、まだ疑問はある。
もしも怪異の主が事故の事を覚えているのならば、何故それを再び繰り返そうとしているのか。
そんな事をすれば、再び失われてしまう。今生きているというのに、どうして。
何かがおかしい、何かが破綻している――この世界の違和感は、それそのものが原因だったのかもしれない。
一体、何を考えているのか。或いは、最早狂い果ててしまっているのか。
正直な所、力で劣るこちらとしては、後者の方が厄介だ。
――私たちに、いったい何が出来る?
僅かな自問が、私の中に浮かび上がろうとして――その瞬間、ヒメの声が響いた。
何故か、心臓が跳ねる。嫌な予感を感じたからか?
それとも――いや、今はいい。
「お兄ちゃん、見えてきたよ! 前の車!」
「応よ!」
その言葉に視線を上げれば、確かに見えた。
七年前、落下して大破したはずのあの車。
あの日以来見る事は無かったけれど――それが今、私の視線の先にある。
「一気に追いつく!」
「っ……でも、信号!」
あの車と、私たちのバイクとは、未だに多少距離がある。
そして、賢司が乗っている筈の車は、今まさに交差点を通り抜けた所だった。
私たちがどれだけ加速しても、信号が切り替わる前に交差点を通り抜ける事は不可能。
けれど、ただでさえ時間が無いのだ。ここで離されてしまえば、追いつく事は難しくなってしまう。
どうすれば……!
「へへっ……! 二人とも、しっかり掴まってろよォ!」
「え、きゃあ!?」
「っ!?」
私の焦りを他所にトモは不敵な笑みを浮かべると、ブレーキを掛けるどころか更にバイクを加速させた。
止まる気などまるで無い、そのまま交差点に突っ込む気満々の操作だ。
私とヒメの二人分の命を背負って、そこまでするその覚悟――狂気の沙汰と思えるそれに、私は思わず笑みを浮かべていた。
上等だ、それぐらいやれなくて悲劇を覆せるものか。
いつもいつも足踏みして、その所為で拾えたかもしれないものを取り落としてきた。
私はいつも足が遅い。臆病で踏み出すのが遅い。
けれど今度は、どんな危険な道であっても、僅かな可能性があるのならば、それに懸ける!
じっと正面を睨んで――瞬間、いつもの直感が囁いた。
「トモ、速度そのまま! 方向も動かさずにそのまま真っ直ぐ突っ込みなさい!」
「了解!」
私の何の根拠も無い言葉に、トモは微塵の疑いすら持たずにそう返す。
そして私の言葉通り、一瞬たりとも速度を落とそうとすること無く、そのまま交差点へと突っ込んだ。
この無茶苦茶な度胸も、怪異を相手にする日々の中で身に着ける事が出来たものなのか。
響くのは急激なブレーキ音。けれどそれは私達が鳴らしたものではなく、私達が突っ込んだ事に驚いたドライバー達のものだ。
通り抜けた車、向かってくる車、大きな交差点だけあって、車の量はかなり多い。
けれど、私達はそれらを全て紙一重で回避し、交差点をすり抜けていた。
「はっは! 流石だな、杏奈!」
「とーぜん!」
常識的に考えればありえない。一度も速度を落とさずにそこを通り抜けるなど、天文学的な確立になってしまうだろう。
けれど、それを成し遂げた。糸を投げて針の穴に通すような神業でも、成し遂げる必要があったから。
一瞬でも躊躇ってしまえば通り抜ける事ができなかったこの場所――それを可能にしたのは、私の直感とトモの度胸のおかげだろう。
後ろで交差点が大混乱に陥っている音が聞こえるが、生憎とそれに構っている暇は無い。
道は既に、山の方へと向かう道に差し掛かっているのだ。
「まずは追い抜いて! それから止める!」
大声でトモに呼びかけ、私は意識を集中させる。
いくら何でも、妨害が無いなどと楽観視はしていないのだ。
必ず、何かが来る。そう思い、私は日記帳を取り出した。
前方の車の姿が近付く――その、刹那。
「杏奈ちゃん、後ろから何か来る! この気配、怪異だよ!」
「昼間っからあの化け物どもは……!」
ちらりと、サイドミラーを確認する。
そこに映っていたのは……かなりのスピードで私たちの事を猛追する、老婆の姿。
「『ターボ婆』……!」
都市伝説の中では定番と言ってもいい存在だ。
凄まじい速さで車を追い抜き、走り去ってゆくと言う存在。
けれど今回のそれは、私達の方へと向けて真っ直ぐ走ってきていた。
どうやら、向こうもやる気と言う事らしい。ならば――
「杏奈、先輩と繋いで! ターボ婆の弱点は!?」
『うん、ちょっと待って――』
頼るべきは、最も知識を持っている人だ。
先輩ならば、この場にいなかったとしてもその正しい知識を持っている。
賢司の乗っている車はもうすぐそこ。ターボ婆を引き連れたまま追い抜くのは不安だが、それで車を止めてくれるなら願ったり叶ったりだ。
あまり、時間は無い。そう思っていた最中、日記帳に文字が浮かび上がった。
『急激なカーブだよ。速すぎて曲がりきれないんだ』
となれば、この先にある最後のカーブを利用する他無い。
ここの先を右へ。その先が、事故の起こった現場だ。
賢司たちがそこに到達する前に、ターボ婆を片付けて、尚且つあの車を止めなくてはならない。
悩んでいる暇は無い。取れる方策も少ないだろう。なら、やるしかない。
私は杏奈に、思いついた作戦を文字で書き出させる。
そうして浮かび上がった文字を、まず最初にトモに見せ、それから後ろのヒメに手渡した。
伝えた作戦は、やはり先ほどと同じく無茶苦茶にもほどがあるもの。
けれど二人は、躊躇いも無くそれに頷いていた。帰ってきた日記帳を再び抱え、私は微笑む。
――負けない、絶対に。
「よし、行くぜぇッ!」
トモが、更にバイクを加速させる。
私はトモに不必要な重さがかからないように踏ん張りながら、近付いてくる賢司たちが乗っている車を睨んでいた。
サイドミラーから、僅かに運転席にいる男の顔が見える。
アンタの思い通りになんか、させない。
「お兄ちゃん、これ曲がれるの!?」
「曲がるさ! やるっきゃねぇんだからなあ!」
その強い言葉と同じく力の篭った加速のまま、私達は車を強引に抜き去った。
そしてそのまま、カーブの場所へと突っ込んでゆく。
速度を落とせばターボ婆に捕まり、けれど速度を落とさねば曲がりきれない。
けれど――
「ステアリングを曲げる、アクセルをOFF――」
僅かに聞こえたその言葉と共に、バイクの車体が思い切り横向きに変わる。
必死に私は体重移動し、振り落とされないように踏ん張った。
横滑りしながら交差点へと突っ込んでゆくその状態で――トモは、再びアクセルをONにする。
そしてバイクの車体は、一度も止まる事無く、右側の道へと進み始める。
けれど、そこにターボ婆が迫っていた。
道に入る事は出来る。けれど、あの怪異との接触は免れない。
確かにターボ婆は曲がりきれず、体勢を崩しているけれど、私たちの前進が若干遅い。
このままでは、あいつの手がバイクの後部に当たってしまう。
その手が、私達の方へと伸びて――
「――体重移動は、無拍剣の基本だよ」
――その細い腕と首が、漆黒の剣閃と共に切断されていた。
車上で安定しない中、それでもヒメは鮮やかに木刀を振るい、怪異を斬り裂いていたのだ。
怪異を前にしながら、恐れに怯む様子など欠片も無く、ヒメは剣を振るう。
それは私たちを護るためと言うだけではない。この日々の中で、ヒメも確かに成長していたのだ。
急所を斬られて消滅してゆく怪異を尻目に、私達は右側の道に入ってゆく。
後は、車の足止めをするだけだ。
「ヒメ、木を斬り倒して! 道を塞ぐのよ!」
「分った! お兄ちゃん、お願い!」
「応よ!」
ヒメの言葉に従い、トモは車体を右側に寄せる。
そしてヒメは横に伸ばすように木刀を振るい、高い木をその一閃で斬り倒していた。
折れるような音など無く、ただスライドするように木は倒れて行く。
その向こう側で――減速してこの道に入ってこようとしていた車は、進めなくなった道に停止していたのだった。




