92:終わりの始まり
医者じゃないから正式な判断を下す事は出来ない――そう言いながらも、トモは市ヶ谷さんの脈が止まった事を確認していた。
本当に、ただその場で眠っているようにしか見えない死に顔も、もう二度と目を開く事はない。
その満足そうな表情に複雑な感情を抱きながら、私は深く息を吐き出して空を見上げていた。
腹が立つほどに綺麗な月は、変わらず私たちを見下ろしている。
「遅かった……のかな」
もっと早く、私が賢司や先輩の事情に踏み込んでいれば、こんな事にはならなかったのだろうか。
ヒメの時もそうだけど、私は他人の懐に入り込むのを躊躇ってしまうような性質でもあるのだろうか。
あながち間違いではないのかもしれないと、私は自嘲気味に口元を歪める。
聞こえる啜り泣きに対して、どうしようもない無力感を味わいながら。
気丈に笑っていた先輩でさえ、最早涙を隠す事はできなかったのだろう。
市ヶ谷さんの亡骸に縋り付きながら泣き叫んで、それでも無様には見せないようにと、必死に弱音を押し殺している。
結果として響くのは、何の意味も成さない泣き声だけだった。
「真似、出来ないなぁ」
先輩は本当に凄い人だと……今更ながら、私は思う。
変な人だとばかりに思っていたけれど、こんな時にまであるべき自分を貫けるのは、本当に強いのだと思う。
本人に聞いたら、きっと否定するだろうけれども。
私から皆に対して口に出来る事は、きっと何もない。
涙を流していないのは、私とトモぐらいだ。ヒメは直接関係があった訳じゃないけど、結構涙腺が緩いところがある。
けど――完全に他人と言えるほどに、無関係だとは思っていなかった。
と、そこで私はふと思い出す。
この場には、もう一人の人物がいたことに。
先ほどから何も口出しして来なかったから忘れていたけれど、あの人はこの場に残っているのか――そう思って周囲を見渡せば、案外すぐにその姿を発見する事ができた。
暗闇の中、ぼんやりと市ヶ谷さんたちの事を見つめている、煉さんの姿を。
ただこのまま無気力に突っ立っているのも落ち着かず、私はそちらのほうへと向けて歩いてゆく。
「……煉さん」
「ん、どうかしたか」
声には、あまり抑揚が無い。
それは落ち込んでいる為なのか、或いは――正直なところ、私にはそれを読み取ることなんて出来ない。
それが出来るとしたら、ミナさんぐらいだろう。
ただ、この人が市ヶ谷さんの事を気に入っていたのは確かなはずだ。蓮花さんもそう言っていたのだし。
となれば、多少は思う所があるのだろう。
「助けられなかったん、ですか?」
「そうだな」
正面に立つと落ち着かず、私は煉さんの隣に並ぶように立ち、市ヶ谷さんの方へと視線を向けた。
しばらく落ち着かないだろうあの場所を、少し離れた視線で見ながら――私は、煉さんの言葉を待つ。
そうして数秒ほど待ち……煉さんは、ゆっくりと声を上げた。
「無理だった、だろうな。俺は、前もああいう人間を救えなかった……いや、きっとああいう人間を救う手立てなんて無いんだよ」
「ああいう……?」
「自分の死に方を定めちまってる人間だ。最初から結末を決めてしまっているから、そこ以外に行き着く場所が無い」
死に方という言葉を口の中で小さく反芻して、私は目を細める。
成程、確かに……市ヶ谷さんは、この場所を自分の死に場所として決めてしまっていたのだろう。
怪異の根本となってしまった自分の父親を救う事、そして怪異の危険に晒される自分の家族を護る事。
市ヶ谷さんは、きっとその為に死のうと、昔から決めてしまっていたのだろう。
「救いって言うのは、救う側が手を伸ばすだけじゃ駄目なんだ。救われる側が、手を伸ばしてその手を取らなくてはならない」
「市ヶ谷さんは……手を伸ばしていなかったんですね」
「伸ばされている事に気付いていても、それを取ろうとしなかった……或いは、気付いていなかったのか、とにかくそういう要素が無かった以上、あの男を救うのは不可能だったんだ」
何となく、納得してしまう。
考えれば考えるほど、しっくりと嵌ってしまう言葉だった。
伸ばされた手を取らなくては、救いなど成立しないのだ。
誰よりも人を救おうとして、誰よりも人に救われようとしなかった人。
なんて皮肉だろう……そんな風に、思ってしまう。
「市ヶ谷浩介は、己の死を選んだ。そうしてまで、救いたい何かがあった。それを忘れるな」
「……はい」
少しだけ、この人に対する苦手意識が薄れているのを感じる。
煉さんは……市ヶ谷さんの思いに対して、本当に真摯に向き合っているからか。
そんな事をぼんやりと考えながら、私は先輩たちの方へと視線を向ける。
市ヶ谷さんが、救いたかったもの。それは、即ち――
「煉さん、葵ちゃんって――」
「ああ、考えている通りだろう。だから若干焦っている部分もあったんだろうな」
やっぱり、そうか。葵ちゃんは、ヒメと同じだったんだ。
今まで葵ちゃんが狙われていなかったのは、もしかしたら煉さんが傍にいたからなのかもしれない。
そうだとするならヒメの事も何とかして欲しかったけど、と――そこまで考えて、ふと思いつく。
市ヶ谷さんが本当に救いたいと思っていた存在、即ち怪異の根本となった父親は、一体どうしたのかと。
「……あの、煉さん」
「まだ何かあるのか?」
「はい、その……怪異の根本って、どうなったんですか?」
「ああ、それは――」
私の質問に対し、煉さんは答えるような素振りを見せ――しかし、それを中断して背後へと振り返った。
はぐらかしたという様子ではない。一体何があったというのか。
そう思って彼の視線を追った瞬間、私は思わず目を剥いていた。
「え……お兄ちゃん!?」
「もうちょっと持たせてくれると思ったんだが……流石に本気を出せない状況じゃ分が悪かったか」
「あれも本気ではなかったようだがな。銃声を止める程度の余裕はあった」
そこに立っていたのは他でもない、私のお兄ちゃんだった。
お兄ちゃんはあの長大な刀を背負い、それに手を掛けたまま、厳しい表情で煉さんの事を睨んでいる。
対し、今までずっと力を抜いていた様子だった煉さんも、油断のない様子で構えている。
一触即発のその状況に、私は思わず息を飲む。
「答えろ……煉。お前は一体、何を企んでいる」
「人聞きが悪いな、誠人。俺の……俺たちの考えている事は、いつだって同じの筈だが?」
「ああそうだろうな、お前がそれを違える事はない。それは分かっているさ……オレが聞きたいのは、そういう事ではない」
「ったく……過保護極まりないな、お前は」
その内ウザがられるぞ、などと殆ど挑発のような呟きを発しながら、煉さんは嘆息を零す。
そんな煉さんの言葉にピクリと眉を跳ねさせながらも、お兄ちゃんは変わらず冷静な調子で声を上げた。
二人とも、凄まじい威圧感を発していると言うのに、露ほどにも感じていないようだ。
「俺の目的は、俺に対してあからさまに敵意を放っていた超越者の排除だ。まあ、『俺』の事を認識出来ていたのかどうかは知らんけどな」
「ならば、何故自分の手を下さない。お前の力なら容易いだろう」
「ああそうだろうな。容易くこの町ごと消し飛ばすだろうよ」
「な……!?」
最後の驚愕の呻き声を上げたのは私だ。
洒落になってないとかいうレベルの話ではない。悪い冗談だと思いたかったが、煉さんの口調はどこまでも本気だ。
理解してしまう。この人には、それを成すだけの力があるのだと。
しかし、それを誇るでもなく、彼は淡々と変わらぬ調子で声を上げる。
「加減が利かないんだよ。姿を隠しているものを無理矢理見つけ出して、その上でぶっ潰す? そんな事をすりゃ、唯じゃ済まないのは分りきってるだろうが」
「だから、杏奈を巻き込んだと?」
「正確に言えば、事のほぼ中心部にこいつがいたというだけの話だ。俺が狙ったわけじゃない。あえて言うなら偶然だろうよ」
偶然――本当にその言葉だけで片付けていいのかは疑問だったけれど、偶然以外に言いようが無いのは事実だろう。
あらゆる要素が私たちの周りにあった。私の家族、ヒメの力、そして市ヶ谷さんの追ってきた事。
ここまで来ると運命的なものも感じずにはいられないけれど、生憎とそんな言葉は信じていない。
意味があったのだと、そう思いたいのだ。
「たとえ力をまともに使えていないとは言え、相手は超越者だ。油断していい相手じゃない。お前も分ってるだろう、誠人。放置しておけばどうなっていた?」
「……成程、理解した。納得し切れている訳ではないが、とりあえずはいいだろう」
「ま、俺もお前を完全に説得できるとは思ってなかったさ。お前の願いは分ってるつもりだからな」
そこまで口にすると、煉さんはお兄ちゃんから視線を離して皆の方へと向けた。
話の全てを理解できたわけではない……けど、ある程度は分かった。
若干違和感がある事は否めないけれど、今ここで聞かなければならないというほどではないだろう。
本当に尋ねるべきなのは、先ほど聞き逃してしまった話だ。
「お兄ちゃん、煉さん……二人が私達の為に頑張ってくれたのはよく分かりました。けど、一つだけ聞かせてください」
「頑張ったのは俺の為なんだがな……まあ、どっちでもいいか。さっき聞こうとした事か?」
「はい」
怪異の根本――即ち、市ヶ谷さんの父親だと言う存在の事。
そいつが怪異を引き起こしていた事、ヒメの事を狙っていたという事、そして市ヶ谷さんの命を削っていたという事は理解できた。
とんでもなく腹が立つ存在だし、とにかく許せないと思う……例えどんな理由があったとしても。
だからこそ、聞いておかなければならないだろう。
その存在は一体どうなったのか、と。
私の意識を読み取ったのか、煉さんは口元に小さな笑みを浮かべ、声を上げる。
「奴の力自体は既に理解しているな?」
「はい。噂を具現化するとか、そんな感じですよね?」
「概ね間違いではない。まあ、その意志の一部を全ての怪異に影響させている部分もあったみたいだがな。
おまけに、時間軸を無視している……奴の創り上げた異界は時間の概念が存在しないのか、狂っているのか……ともあれ、過去の怪異にまで影響を及ぼしている」
そんな煉さんの言葉に、思い浮かべたのは日記の杏奈の事だ。
あの子が生まれたのはもう随分と昔の話だが、あの事故が起こったのは七年前……なるほど確かに、時間軸がおかしくなっている。
となると、その異界の中とやらは一体どうなってしまっているというのか。
まあ入りたいとは思わないけれども。
「面倒なのは範囲が非常に広い事と、それら全てに意識が遍在している事。今まで本体の位置が分らなかったのは、これが原因であると言ってもいい」
「……なるほど、他の怪異の反応に誤魔化されていた訳か」
「面倒な事この上なかったって訳だ。だからこそ、市ヶ谷浩介に協力していたわけだが……どちらにしろ、随分と時間がかかっちまった」
確かに、結構長い時間をかけた事になるだろう。
正面からぶつかれば、この人の方が圧倒的に強い……それは間違いないはずだ。
ただ、今回の相手は特殊すぎた。だからこそ、回りくどい方法を取る事になってしまったのだろう。
けど、煉さんはついにその尻尾を掴んだのだ。
先ほどの銃声は、そういうことなのだろう。
だからこそ――
「……けど、これで終わったんですよね」
「――いや、違うぞ?」
――そんな煉さんの言葉に、私は目を剥いていた。
違う……? まだ、終わっていない?
「それは、どういう……ッ!?」
「甚だ不本意ではあるが、あの野郎は手しか出してこなかった。全体が出てくれば致命傷も与えられただろうが、流石にそれだけじゃあな」
「なら、まだ来るかもしれないって事じゃないですか!」
「逃がしたのか、煉」
「まあ、逃がしたと言えば逃がした事になるだろうが……だが、ただで行かせた訳じゃない。大幅に力は削いだし、マーキングもした」
そう口にし、煉さんは口元を歪める。
溢れ出した狂気と狂喜と凶気が、大気を震わせて――
「どう出るかは知らないが、今度こそ逃がしはしない。確実に潰す」
「全く……まあいい、それならばオレも――」
煉さんに同調するように、お兄ちゃんも声を上げて……瞬間、言葉が止まった。
お兄ちゃんは、驚愕に目を見開き周囲へと視線を走らせている。
何? 一体何が――湧き上がる嫌な予感に、私もあちこちへと視線を向ける。
声が響き渡ったのは、そんな瞬間だった。
「コースケ!?」
「な、何っ!?」
とっさに、私は皆の方へと視線を向ける。
何があったのか。嫌な予感は尽きぬままに目を凝らせば、ありえない光景が目に映った。
皆に囲まれた市ヶ谷さんの亡骸……その肉体の部分だけが、ゆっくりと薄れて消えてゆこうとしていたのだ。
遠目からでは分りづらいけれど、その身体は確かに透き通ってきてしまっている。
「杏奈ちゃん! 市ヶ谷さんの情報が、向こうの方に流れて――!」
「っ……煉さん、これはどういう事ですか!?」
「チッ……勝負に出たって事か」
先ほどまで笑みを浮かべていた煉さんの表情が、苦々しく歪んでいる。
少なくともそれだけで、拙い状況だという事が理解できた。
「勝負って!?」
「逃げるか戦うか。奴は戦う方を選んだって事だ。こっちは力を使い辛いってのに……」
「だ、大丈夫なんですか?」
「俺達はな」
その言葉のニュアンスに、現在がどういう状況なのかを理解してしまう。
ならば、出来る限り早く逃げなければ――そうは思うけれど、市ヶ谷さんが消えてしまって呆然としている皆をすぐに動かすのは不可能だろう。
何となく、分ってしまうのだ。もう、アレが溢れ出そうとしているという事が。
「煉! これは――」
「分ってる! だが、流石にこれは予想外だったからな……神代杏奈、これから俺が言う事を決して忘れるな」
「な、何ですか!?」
徐々に溢れてくる異常な気配。
どろどろとした汚泥のような、暗く澱んだ何か。
それが、恐怖に震えるようにしながら世界を――私達を覆ってゆく。
私が私じゃなくなるような不快感に、思わず歯を食いしばる。
そんな私の耳に唯一鮮烈に届くのは、目の前にいる煉さんの声だけだった。
「俺達はこれが必要以上広がらないように抑える。それまでは必ず持ち堪えろ……己の意志を強く持て。お前には誰にも譲りたくない願いがあるだろう……それを決して、一瞬たりとも忘れるな」
「ッ――――――!」
答える余裕などありはしない。
けれど、何故か私には、煉さんの口元は少しだけ笑っているように見えていた。
そして――漆黒の汚泥が、全てを埋め尽くした。




