91:受け継がれるものは
暗い闇夜の道の中、轟くような銃声が響き渡った時――私は、心臓が止まるような思いを感じていた。
それが後方ではなく前方……即ち、私たちが向かう先であった事もそれに拍車を掛ける。
これを撃ったのは蓮花さんじゃない。この先にいるとしたら、それは間違いなく煉さんだ。
なら、彼は何を撃った? 現れた怪異? それとも――
「ッ……浩介君っ!」
「コースケ……ッ!」
「姉さん、部長!」
賢司が引き止める暇すらなく、秋穂さんと先輩が駆け出して行く。
ライトを持っているのは先輩で、必然的に私達もそれを追って駆け出す事となっていた。
幸い、葵ちゃんを連れている二人はそれ程早く走る事も出来ず、追いかける事にはそれ程苦労しなかったけれど。
賢司も、恐らく気が気ではないだろう。けれど、先輩たち三人はきっとそれ以上だ。
秋穂さんも、先輩も、葵ちゃんも……あの人の事を家族だと思っていたから。
少しだけ距離があった賢司よりも、深く心配しているのだろう。
「杏奈ちゃん……」
「ヒメ? どうかしたの?」
隣を走っているヒメの声を聞き、私は思わず首を傾げる。
その声音が、酷く怯えたような色を持っていたからだ。
今のヒメは、誰かを護りたいと思い戦う意志をしっかりと持っている状態だ。
事実、その背にはいづなさんから貰った黒い木刀が背負われている。
そうだというのに、ヒメが怯える理由――それが、分からなかった。
今のヒメは、例え何があったとしても折れぬほどの強い意志を持っている筈だと言うのに。
「ヒメ……?」
「今までと、違う感覚がするの……今までの怪異と似てるけど、凄く澱んでてドロドロしてるような……そんな、感じが」
「何か、やばそうな感じね……」
「でも、行かないと。誰かの為とか、何かの為とか、そんなのじゃなくて……行かなきゃいけないって、そんな感じがするの」
その感覚は、私にはさっぱり理解できないものであった。
けれど、ヒメには特殊な感覚がある。もしもそんな感覚が何かをキャッチしているのだとしたら。
ヒメは一体、何の気配を読み取ったと言うのだろうか。煉さん? それとも――
「おしゃべりは終わりだ。そろそろ――」
「ん、分ってる」
トモが掛けてきた言葉に、私は口を噤む。
普段ならば賢司が掛けてくる言葉だろうけれども、どうやら流石の賢司も今は余裕がないようだった。
トモはその辺りをよく見ているらしい。そんな観察眼に胸中で感謝し、進む事に集中する。
元々暗い夜道だ。おまけに足場も悪いし、そうそう速く進む事なんて出来ないのだけれども、注意するに越した事はない。
こんな所で怪我をしてしまってもつまらないし。
ともあれ、下に着くまではもうそれ程かからないだろう。
車が落ちても全員が死なない程度の高さだったのだ。
実際のところ、高さはそう極端に高いと言う訳ではない。
急勾配だった道も徐々になだらかになってきているし、もうすぐだろう――そう思った、瞬間だった。
「浩介君ッ!?」
響き渡った絶叫に、私は思わず足を止める。
広場のようになっている森の一角、暗闇に慣れた目が映し出したのは、その中にいる二人の人影だった。
木の幹を背にして座り込む市ヶ谷さんと……銀色の拳銃を手に佇む、見知った姿。
「煉、さん……」
「ん、誠人の妹か。蓮花の奴もいいタイミングで解放してくれたみたいだな」
倒れる市ヶ谷さんに視線を向けていた煉さんは、私に反応するとちらりとこちらに視線を向ける。
その顔には全く表情が浮かんでおらず、いつもどこか楽しげに、或いは皮肉気に笑みを浮かべていたこの人にはあまり似合わない表情だった。
一体、何があったというのか。
「コースケ、コースケ!」
「何を……一体コースケに何をしたッ!」
市ヶ谷さんに縋り付く葵ちゃんと、彼の身体を支えるようにしながら煉さんに厳しい視線を向ける先輩。
そんな怒りと悲しみに満ちた視線を向けられ、しかし煉さんは僅かすらも怯む事無く、肩を竦めながら言い放った。
「何をと言われても困るが……まあ、無意味に勘違いさせるのも趣味じゃないからな。俺は、その男の行動を支援していただけだ。
確かに俺自身に思惑があったのは否定しないが、そいつの行動自体を制限した事はない。
状況が状況だし勘違いしても仕方ないとは思うが、別に俺はそいつを撃った訳じゃないぞ。銃創なんて無いだろうが」
ひらひらと銀色の拳銃を振る煉さんに、皆が改めて市ヶ谷さんの方へと視線を向ける。
市ヶ谷さんの身体には確かに傷など存在せず、衣服自体も全く乱れていなかった。
丸っきりの無傷だし、そもそも煉さんには市ヶ谷さんを撃つような理由なんて無いだろう。
けれど、そうだとするならば、先ほどの銃声は一体何だったと言うのか。
それを問い詰めようとした瞬間、市ヶ谷さんに駆け寄っていた賢司が声を上げた。
「脈は……ある! まだ生きてる! 浩介兄さんッ!」
「浩介君! 聞こえてる、目を覚まして!」
その言葉が聞こえた瞬間、ヒメとトモが賢司を追うように市ヶ谷さんの元へと駆け出した。
二人は家が道場をやっているため、応急手当などの心得はしっかりと持っている。
私が二人を追って市ヶ谷さんの元にたどり着いた頃には、彼は地面に寝かされて二人に状況を確認されているところだった。
「傷はない、呼吸もちゃんとしてる……ただ、気を失ってるだけか?」
「でも、油断しちゃ駄目だと思う。早く救急車を呼ばないと」
「ワタシが呼ぶ! 二人はコースケの様子を――」
「止めとけ、時間の無駄だ」
降って来た声に、私達は顔を上げる。
いつの間にか私たちの傍に歩み寄ってきた煉さんは、蒼く染まった瞳で市ヶ谷さんの事を見下ろしながら声を上げた。
「起きろ、市ヶ谷浩介。折角最高のタイミングで来てくれたんだ、そのまま何も告げずに終わるつもりか」
「何を……無駄って、何のつもりなんだ!」
「俺が何を言っても信じないだろうからな。本人に説明してもらう。このまま時間を無為にしていたら、それすら出来なくなるからな」
私達の方には目も向けず、市ヶ谷さんをじっと見つめ、煉さんはそう言い放つ。
そしてそれとともに、強烈な圧迫感が周囲へと向けて放たれた。
「ッ……!?」
「な、に……これ……?」
けれど、それを感じ取る事ができたのは私の他にヒメと……どうやら、葵ちゃんだけだったらしい。
あまりにも巨大すぎて全貌が掴めない。恐怖心を抱くことすら出来ず、ただ見上げる事しか出来ない圧倒的な存在感。
迫ってくる巨大な竜巻を見たとして、それに抗おうなどという思いが生まれるだろうか。
逆らうと言う発想そのものが出てこない、そんな存在に対して、私達は圧倒されていたのだ。
けれど、その存在感は……気を失っている市ヶ谷さんにとって、気付けの役割を果たしていたらしい。
硬く閉ざされていた筈の瞼が、僅かに震える。
「ぅ……」
「コースケ!?」
「目がさめたか、市ヶ谷浩介。それなら、今やれる事をさっさとしておけ」
「アンタ、は……ああ、悪い、な……やる事、あるのに」
「俺の心配をするなんて百億年は早い。いいから、アンタはアンタのやるべき事をやっておけ」
それだけ言い放ち、煉さんは私達の傍から離れていく。
やはりそこからは何の感情も読み取る事は出来ず、私はそれに対して強い違和感を覚えていた。
何だろう……何故かは分らないけれど、凄く嫌な予感がする。
何の根拠も無い直感だけれど、そう思えて仕方なかった。
眉根にしわを寄せながらも、私は市ヶ谷さんの方へと視線を戻す。
彼は――ひどく弱々しい様子のまま、声を上げた。
「来て……しまったん、だな」
「これ以上、コースケの無茶を認める訳にはいかなかったんだ。今だって無茶してる!」
「浩介君、救急車を呼ぶから……だから安静に――」
「いや……今じゃ、ないと。今じゃないと、駄目なんだ」
先輩や秋穂さんの案ずる声を聞きながらも、市ヶ谷さんはその言葉を遮ってしまう。
何だろう、何かがおかしい。彼の様子がって言う事じゃなく、何かが。
最近やけに鋭敏な直感が、私に囁いて来る。そう――何かが、決定的に足りないと。
「ねぇ、コースケ」
と、その瞬間声が響く。
それを発したのは、いつも通り子供らしからぬ無表情の葵ちゃんだった。
けれどその表情は、普段とは少しだけ違っているように感じられる。
表情に乏しいのではなく、表情を浮かべられないとでも言うかのように。
「何で……何でそんなに、空っぽなの?」
葵ちゃんが、呟くように口にした言葉。それを聞いた瞬間、ヒメはびくりと体を硬直させていた。
ヒメの顔に浮かぶのは愕然とした表情。蒼白な顔色で唇を震わせながら、ヒメはただ信じられないとでも言うかのように市ヶ谷さんの事を見つめていた。
そして、市ヶ谷さんは――力なく、苦笑を浮かべる。
「分っちゃうか……さすが、父さんと同じ力を持つだけあるな……」
「コースケ? 何を……」
「俺が追っていたのは……怪異の根本。怪異を引き起こす原因……正確に言うなら、それに同化した存在だ」
先輩の言葉を遮るように、市ヶ谷さんは声を上げた。
怪異の根本と言う話を聞いた時から、何となくそうなのではないかと思っていた事だ。
その言葉自体は、決して意外性のあるものではない。
けれど私は、この人が先ほど葵ちゃんに対して言っていた言葉が気にかかっていた。
「情報を操る力で、人の領域を超えてしまった者……あの事故の日、俺や母さんが死んでしまったと思い込み、こんな物は認めたくないと強く願って、超越者と呼ばれる存在へと成り果ててしまったモノ……それが、俺の父さんだ」
「コースケの、父親が……怪異の、根本?」
「そう、そして……ずっと、俺の命を削り続けていたものだ」
そうだ、足りない。
この人の中には、命と呼ぶべき何かが決定的に足りていない。
まるで、何かに搾り取られてしまったかのように。
そして、同時に理解してしまう。最早、手の施しようがないと。
市ヶ谷さんは……僅かながらに、苦笑する。
「俺が生きていると、気付いてくれれば……もしかしたら、これも止まるんじゃないかと思ったけど……そんなに、都合良くは行かないか」
「なん、で……何で、そんな無茶な事をしたの!? ただでさえ、あなたの身体は――!」
「だからこそ、だよ。秋穂……俺は誰よりも、救われない父さんを救いたかった」
それが、この人の想いの源泉。
あらゆる人を救えるような正義の味方なら、きっと苦しむ父親を救う事が出来ると信じる、子供のような夢想。
この人は、ただそれを貫いたのだ――ふざけないで欲しい。
「どうして、あなた達は……いつもいつも、脇目も振らず走っていくのよ!? 置いて行かれる人間の事、どうして考えないのよ!?」
「杏奈、ちゃん……?」
お兄ちゃん達も、この人も……自分の願いばかりで、他を省みない。
ああ、いつか桜さんが言っていた。超越者は最悪の人格破綻者だと。
この人もそれと同じなのだ、あの人たちと同じように一つの事を信じて、それにしか価値がないと思い込んでいる。
――私と、同じように。
「皆……強くなったから。秋穂も一人で立ち、賢司も己の意志で歩み、テリアも君達のような心強い友人を得る事が出来た。葵は少しだけ心配だったけれど……テリアが、きっと支えてくれる」
「ふざけないでッ! 自分が責任を放棄する事の言い訳を、私達に押し付けてるんじゃないわよ!」
分っている。この人がやろうとした事は、怪異の根本と言う危険な存在を取り除こうと言う重大な仕事だ。
それは怪異に挑む先輩や賢司、そして何より怪異に狙われるヒメを……私の予想が正しいなら、葵ちゃんも含め、皆の身に降りかかっている危険を消し去ろうと言う偉業だ。
この人は、それを分っていてこんな行動に出たのだ。分っている、分っているけど――
「こんなの、救われなさ過ぎるじゃない!」
「……優しいな、君は」
何も出来ない苛立ちに歯を食いしばり、私は吐き出されそうになる罵声を抑える。
この耐え難い無力感をどうすればいいのか。俯き、声を無くしていた私は――視界の端で動いた影に、はっと顔を上げた。
「コースケ」
「……何だい?」
「コー、スケ」
「どうしたんだ、葵?」
「コースケ……ッ」
ふらふらと市ヶ谷さんに歩み寄った葵ちゃんはその手を伸ばし、ぎゅっと彼のコートを掴む。
その小さな手は……喪失の痛みに、震えていた。
そして葵ちゃんの顔に浮かんでいるのは、決して今までのような無表情ではなく――悲嘆に満ちた、泣き顔。
「わたしを……っ、置いて、行かないで!」
「葵……」
「やだっ、やだやだやだっ! 一緒にいたい、ずっと一緒がいい! わたしは、コースケとずっと一緒にいたいの!」
泣き叫ぶ声に、胸が詰まる。
私は、何も言えなくて。ただ無力なまま、市ヶ谷さんの表情が困ったように笑うのを見つめていた。
「ごめん、な。やっぱり、辛いよな」
「コースケッ! やだ、行っちゃやだ! いろんなところに行きたいの! 公園だってまだあんまり行ってない、遊園地に連れて行ってもらってない、やだよ……コースケ、コースケコースケコースケ!」
「そうだな……約束できないのが辛いなんて思ったのは、あの時が初めてだったな……出会ってから、ここに来るまで色んな所を歩いたけど……もっと、連れて行ってやりたかった」
「浩介君……酷い人ね、貴方は」
そっと、手が伸びる。
青ざめた市ヶ谷さんの頬に触れるのは、秋穂さんの細い指だった。
泣き笑いのような表情で、その手の震えを必死に押さえ込みながら――
「この時のために、葵ちゃんを私の所に連れてきたのね」
「怒ってる……かな」
「ええ、当然です。本当に、無責任よ」
「参った、な……秋穂が本気で怒ると、怖いから」
胸にすがり付いて泣き喚く葵ちゃんの頭をそっと撫でながら、市ヶ谷さんはそんな言葉を口にする。
何でそんな言葉も否定してやれないんだと、そう言ってやりたかった。
けど、ここで私が無駄な時間を使うべきではない。
本当に話したい人は、他にいるのだから。
「コースケ」
「テリア……お前には――」
「言わないで。お願い。時間が無いのは分ってる。でも、少しだけでいいから」
身を切られる痛みに耐えるような表情で、そんな言葉を口にしながら。
先輩はそっと、市ヶ谷さんの頭を抱え込むようにして抱き締めていた。
「ワタシの全てだった……あの怪異で全部を失ったワタシにとって、コースケが世界の全てだった。でも――」
そう言って、先輩は周囲を見渡す。
私達を……先輩が手に入れることが出来た、日常を。
「ワタシは、またワタシの時間を手にする事が出来た。コースケは、ワタシが幸せになる為の全てをくれた」
先輩の目に、涙は無い。少なくとも、今はまだ。
幸せになれたのだと――市ヶ谷さんに、そう見せ付けるかのように。
「コースケが中心なのは変わらない。諦めたくないのは、ずっと同じ……だけど、だけど。言っておかないと、いけないから」
先輩は、そっと身体を離す。
市ヶ谷さんの顔を、真っ直ぐに覗き込むようにしながら。
「ワタシは、コースケのことが好きだった。一人の女の子として、市ヶ谷浩介という男性のことが。届かないって分ってたけど、それでも……好きだったんだよ、コースケ」
「……テリア」
「何も、言わないで。届かないけど、それでも違う形で、ワタシはあなたを愛しているから」
本当に、本当に、幸せそうな笑顔で――――
「今まで、ありがとう。大好きだよ、おとうさん」
――――そんな言葉を、口にしていた。
「ああ……」
僅かな吐息が、零れる。
市ヶ谷さんは、胸の中に残った全てを吐き出すようにしながら、満面の笑みを浮かべていた。
「秋穂……随分、心配掛けちゃったな。恭子を見習ってさ、これからはもっと楽に生きてくれ」
最後の炎が、勢いよく燃え上がるように――
「葵……一緒にいてやれなくて、ごめんな。でも、俺はきっと傍にいる。それだけは、約束するよ」
言葉を詰まらせる事無く、心の内側を曝け出して――
「テリア……ありがとう。お前は俺の希望だった。お前がいたから、俺はここまで歩いてこられたんだ」
秋穂さんに手を握られ、葵ちゃんに抱きつかれ、テリア先輩に頭をそっと抱かれながら――
「これからも、ずっと幸せに、な――――」
――降り注ぐ月明かりの下、静かな風と大切な人々の温もりに包まれて、市ヶ谷さんは眠るように息を引き取っていた。




