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神代杏奈の怪異調査FILE  作者: Allen
逸話の王/天秤の剣/斬神の巫女
90/108

90:全ての始まり












 車から降り、市ヶ谷浩介は空を見上げる。

浮かんでいるのは満月。吸い込まれそうなほどに輝くそれは、暗い山道を僅かに照らしていた。

それを全身に感じながらも、浩介は左記にある細い道をゆっくりと下ってゆく。

記憶の奥底にある、忌まわしき場所へと。



「……七年、か」



 浩介は、そう小さく呟く。

あの事故――自分と嶋谷姉弟の運命を大きく変えてしまったあの日から、それ程の年月が経ってしまった。

あの瞬間の恐怖は、今でも浩介の中に残っている。

強い衝撃と、背筋の凍るような浮遊感。その中で考える事ができたのは、秋穂と賢司を護らなくては、と言う強い思いだった。

ただそれだけを胸に二人を庇い――気がついた時には、全てが終わっていた。

残ったものはいつ終わるかも分らない命のみ。何もかもを失って、それでも浩介の中にあったのは一つの思いだった。


 ――二人を、支援しなくては。


 強いショックを受けて廃人同然となっていた賢司、そして賢司を支える事に必死で自分の事すらも見えなくなってしまっていた秋穂。

浩介が抱くことが出来たのは、この二人を助けなくてはという思いだけ。

自分の事すらどうでもいいと、ただ幼き日に抱いた夢のままに、常に大切な人を救う事ができる存在でありたかった。

浩介は、ただそれだけの為の己の道を歩き始めたのだ。



「……はは」



 成程、確かに――と、浩介は苦笑を零す。

改めて見てみれば、ずいぶんと歪んだ考え方だと。

振り返らなくてはそれに気づけなくなってしまった自分にも苦笑しながら、浩介は見えてきた目的地へと視線を向ける。



「楽しかった、な」



 最初は、ただ二人を助ける為だけだった。

二人が自立できるように金を稼がなくてはならないと、そう思いながら始めた探偵業。

怪異に関する知識と言うアドバンテージはあったが、それでも最初は何もままならなかった。

しかし、積極的に人を救おうとする姿勢はいつしか評価され、徐々に声を掛けられるようになっていった。

それが嬉しくて、自分のあり方が間違いではなかったと確信する事が出来て――浩介は初めて充足感を得る事が出来た。



「それに、満足できた」



 自分には人を救える力があるのだと、信じる事が出来たのだ。

力不足を嘆いていたから。二人を助ける事が出来たとしても、最も救わなければならない人を救う手立てが見つからなかったから。

僅かながらに心を慰める、そんな行為であったとしても、浩介は満足感を得る事が出来ていた。

自分が無力ではない事を、信じる事が出来たのだ。


 そして――



「テリアに、出会えた」



 時間の流れが大きく異なる異界の中で出会った少女。

浩介があの場所にいたのは僅か数分の話であったというのに、外では数日が過ぎてしまっていた。

そんな場所に長くいすぎたために、全てを失ってしまっていた子供――浩介は、その姿に自分を重ねていた。

彼女の事を助けたいと、本心からそう思ったのだ。



「本当に、楽しかったんだ」



 彼女の為に、無茶を減らした。

どうすれば人が喜ぶのかなど、考えた事もないことを考え始めた。

彼女を拾った責任を果たすにはどうすればよいかと、それをひたすらに悩んだ。

浩介にとっての重荷であった彼女は、それゆえに彼の命を繋ぎ止める者としての立場を得ていたのだ。

彼女の存在が無かったならば、自分は今ここにはいない。その確信があるからこそ、浩介は歩みを止めない。

テリアが与えてくれた時間を、無駄にしない為に。



「――俺が言う事でもないが、大概な価値観だな」



 ふと、声が響く。

暗闇の中でなお強烈な存在感を放つ少年――九条煉と名乗った、強大な力を持つ存在。

テリアの存在がなければ、浩介は彼と出会う事もなかっただろう。

この少年の事は決して信用する事は出来ない。けれど、浩介は彼に対して感謝していた。

最初に抱いた願い――本来ならば触れることすら出来なかったはずの願いへと手を伸ばす手段を与えてくれたのだから。

煉は、口元に小さく笑みを浮かべ、どこか面白がるような口調で声を上げる。



「準備は出来たのか?」

「ああ……これで十分だ」



 可能な限りの装備を考え、けれど、全てが無駄であるという結論に達した。

相手にするのは目の前の少年と同じ、人を超越した存在だ。

力押しで何とかできるようなものではなく、彼らと同じ力を持たない以上抗うすべなど無い。

だからこそ、頼るものはたった一つ。相手が、自分の事を認識してくれるかもしれないという淡い期待のみ。

故に、持ち込んだものは相手が存在する場所へと辿り着くために使用するラジオのみであった。



「随分時間がかかってしまったけど……それでも、挑む事ができるんだ。あんたには感謝してるよ」

「ま、最初に約束したとおりだからな。あんたは俺の差し伸べた手を取らなかった。この場所で歩み続ける事を決めたんだ……俺の期待していた通りにな」

「……俺がもう片方を選んでいたらどうするつもりだったんだ?」

「それはそれで、だよ。俺があんたの信念を読み違えていただけの話だ。ま、放任にはしていただろうけどな」



 くつくつと、煉は笑う。

要するに見透かされていたのだと告げられて、浩介は思わず眉根を寄せる。

けれど、それも無意味な事だ。浩介にはそちらを選ぶ理由など存在しない。

IFもしもの話など、今は意味が無いのだ。



「俺は、こっちを選ぶよ。いつだって、何度だって」

「ああ、そうだろうな。そうでなくちゃならないだろうさ」



 今は、ただ目の前の道に集中する。例えその果てが断崖であると分っていたとしても。

疲弊した訳でも、諦観を抱いた訳でもない。ただ当然であると言うかのごとく、浩介は前へと進んでゆく。

それだけが、信じた道であるが故に。


 と――ふと、煉が視線を上方へと向けた。

その唐突な動作に、浩介は思わず首を傾げる。



「どうかしたのか?」

「ああ……いや、あんたは随分と愛されてるなぁと思ってな」



 口の端を釣り上げながら言い放った煉の言葉に、浩介は眉根にしわを寄せる。

一体何を言っているのか、理解する事ができなかったのだ。

己に向けられている感情をあまり理解できていない、そんな彼に対し――煉は、小さく嘆息を零す。



「……あんたの家族だよ。どうやら、付いて来たみたいだな」

「な……!」

「どうする、止めるのか? ここで引き返せば、少なくとも後数ヶ月程度なら一緒にいられるぞ?」



 そんな煉の言葉に、浩介は微塵も揺らがなかったと言えば嘘になるだろう。

それだけの時間を、彼女たちと家族として重ねてきたのだ。

――けれど。



「行くよ、俺は行く。それだけがずっと、俺の願いだったから」



 定められてしまった道から逸れる事はできない。

今踏み出さねば、もう二度と踏み出すことは出来ないと――そう、浩介は感じていたから。

元より定められた一方通行、足を止めてしまえばそのまま流されてしまうだけだ。

果てが断崖だと言うのならば、後は流されるままに墜落するか、それとも自らの意志で断崖の果てを目指し飛び込むか。

浩介が選んだのは、後者であった。



「あの人を……俺の目の前から消えてしまった父さんを救いたい。俺の願いはただそれだけだ。人を救うのだって、そこから始まった思いに過ぎない」

「他人を救っていたのは代償行為だと?」

「そうは言わない。ただ、人を救いたいって思いの元となったのが父さんだってだけだ。そして……この思いは、俺で終わりでいい」



 ここにはいない誰かに言い聞かせるように、浩介はそう口にする。

その視線を僅かに後方へと――自分がやってきた道へと向けて。

瞳中に残っているのは、僅かな未練のようなものだったのだろう。後ろ髪を引かれる思いに、浩介は一瞬だけ立ち止まる。

目を閉じ、大きく息を吐き出して――改めて開かれた瞳には、決意の色が浮かんでいた。



「……後は、頼んだ」



 敬愛する父を救う為、怪異を追う少女と家族を救う為、そして何より小さな少女を救う為。

大切な人々の命が失われぬ事を願う、市ヶ谷浩介と言う男の形。

悲しませてしまう、泣かせてしまう、それを理解していたとしても止まる事の出来ない理由がある。

その姿を見つめ――煉は、僅かに口元を緩ませる。



(ああ……本当に、美しいな)



 強い人の思い。超越者たちの主たるこの少年を引き寄せたのは、浩介のこの思いであった。

本当に強く、何よりも強く、大切な人々が平穏に暮らして欲しいと浩介は願う。

それが本当に尊いものであると、誰よりもこの少年が知っていた。

それ故に、果てまで駆け抜けようとしているこの男の事を惜しいと思っている。けれど――



(これを留める訳にはいかない、か)



 ――九条煉にもまた、願いと目的がある。

他の手段によって代用できない訳ではないが、それには高いリスクが伴ってしまうのだ。

故に、煉が浩介を止める事は無い。ただ、その行く末を見守るだけだ。


 浩介は、ゆっくりと歩いてゆく。

かつて事故が起き、落下した車が横たわっていたその場所へ。

――全てを失ったと思い、狂気のままに人の領域を超越してしまった父の許へと。

時間と言う概念すらも破壊した異界を展開している理へと、足を踏み入れる。



「……救いとは、救う側と救われる側、双方が手を伸ばさねば成し得ない奇跡なのだ」



 煉は、そう小さく呟く。

けれどその声は、夜の静寂の中に響き渡っていた。

当然、その言葉は浩介の背中にも届いただろう。けれど、彼が歩みを止める事は無い。

その姿を見つめ、煉は小さく笑みを浮かべていた。



「敬意を表しよう、市ヶ谷浩介。それを知っていて尚手を差し伸べ続けるアンタは……本当に、正義の味方だよ」



 そんな煉の言葉に、浩介は僅かながらに口元を綻ばせ――そして、手に持っていたラジオを掲げた。

そこにあるのは、あらゆる怪異の情報。この世界に存在している怪異と言う理の全て。

それはつまり、それを展開している存在そのものと等しい情報量であると言えた。



「父さん、これが、あんたの全てだ。これを聞け、そして俺を見てくれ。俺は死んでなんかいない、俺はここにいる。恨む必要も無いものを恨んで、他人を犠牲にするような事をしないでくれ……そんなものは、俺の憧れた父さんじゃない!」



 浩介は、その言葉と共にスイッチを入れる。

同時に流れ始めるのは無数の音声が折り重なったノイズ。

以前の状態ですら言語の様相を成していなかったそれは、完全に音の塊へと変化していた。

最早、それだけで怪異に致命的なダメージを与えかねないほどの情報の塊。

けれど、その音の中に含まれているのは、相手を滅ぼそうと言う敵意に満ちた想いではなく、ただ自分に気付いて欲しいと言う子供のような願い。


 ――人を救いたいという願いは、酷く危ういものだ。


 そう胸中で呟き、煉は目を細める。

それ自体が間違いと言うわけではない。むしろ、それは美しい願いであろう。

けれど、もしもその願いの対象が失われてしまったとしたら。



(行き場を失った、そして失ってはならないものを失ってしまった感情は暴走する。その思いが、強ければ強いほど)



 そんな思いのままに形成された異界は、酷く歪なものとなる。

それは、市ヶ谷浩介の父――市ヶ谷英一えいいちもまた、それと同様であった。

恨む相手も思いつかず、憎しみが向くのは自分自身、それでも晴れぬ強烈な渇望はその現実自体を認められぬと天に牙を剥く。

その行く果てが――



『――――――モドレ』

「ぐ、う……ッ!?」



 発せられた圧力に、浩介が呻く。

景色は変わらない。けれど、確かに何かが変わっていた。

広がる腐臭、森となり漆黒の闇が広がっていた筈のその奥から、更なる深淵が顔を覗かせる。

それを形容するならば、汚泥の塊。黒く濁った無数の情報の塊が、視覚化して鎌首を擡げる。



『モトニ、モドレ。ウシナワレルナ、ナオレ――――』

「ぅ、あ……」

「……成程、失われた物を情報を元に作り直そうって訳か。市ヶ谷浩介の命が削られていたのは、その作り直そうとしているモノに吸収されていた為だな」



 彼の身に起こっていた全てを理解し、煉は嘆息する。

そして彼は、その右手を彼らの方へと向けた。

その手に握られているのは、銀色の大型拳銃。それを、浩介へと伸びてゆく汚泥の腕へと向ける。

命を貪られ、倒れてゆくその身体が汚泥へと包まれる――その、刹那。



「――ようやく尻尾を見せてくれたな、塵屑が」



 ――雷と聞き紛わんばかりの轟音が、夜の闇を切り裂いた。





















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