89:魔女の足止め
水淵蓮花がどういう人か。
そう問われれば、私は一言こう答えるだろう――『あまり関わりたくない人』、と。
一見するだけならば、この人はただの気さくなお姉さんだ。
明るくて面倒見がよく、魅力的な笑顔を浮かべている人。
外側から見えている部分は凄くいい人で、初めの内は私もそういう人なんだと思っていた。
けれど、この人の内側はそんな生易しいものではない。
それを目の当たりにしたのは、私たちの家に幾度目かに来た時だった。
その時、この人は煉さんと一緒に訪れていて、最初から何か様子がおかしかった。
とても嬉しそうで、それでいてどこか緊迫しているような空気。
その奇妙な圧迫感を理解できず、私はずっと首を傾げていた。
まるで何か牽制し合っているような、そんな雰囲気に。
――それが表面化したのは、その日の夕食の時だった。
以前から疑問ではあったのだけれど、煉さんと蓮花さんの分の食事は、いつも別の更に最初から取り分けられている。
そしてそれはその日も変わらなかったけれど――その時、誠也が蓮花さんのおかずを掠め取ってしまったのだ。
誠也も、恐らく冗談のつもりだったのだろう。メインのおかずと言うわけではなかったし、怒られたら謝って自分の分を差し出すつもりであったはずだ。
けれど――それは、あの人にとっては冗談とならなかった。
その瞬間の事を、私は今もよく覚えている。
突如として蓮花さんの纏う空気が変わったと思った瞬間、私達は身動き一つ取れなくなってしまったのだ。
恐怖で硬直したとか、威圧感に圧倒されたとか、そういう事ではない。
文字通り、指先一つ動かす事ができなくなるような硬直。
それはまるで、私の周囲の空気が丸ごと硬化して、私の体をぴったりとその場に固定してしまったかのようだった。
そんな中、蓮花さんは無表情に……或いは虫けらでも見るような目で手を伸ばし――その腕を、煉さんに掴み取られた。
それと同時に蓮花さんははっと目を見開き、同時に私たちの体の硬直が解き放たれる。
誠也は持っていたおかずを取り落とし、煉さんが自分の皿を伸ばしてそれをキャッチする……そんな光景を呆然と見つめたまま、私は理解していた。
――この人たちは、恐ろしい存在なのだ、と。
後から聞いた所によれば、その日は満月の夜で、煉さんと蓮花さんは毎月満月の夜にはある用事を入れていると言う事だったらしい。
そんな大体月に一度ぐらいしかない日だから蓮花さんは気が高ぶっていて、つい本気で怒ってしまったそうだ。
お兄ちゃんが言う所によれば、煉さんと蓮花さんは自分のものに手を出される事を極端に嫌っている。
誠也がやってしまったのは、あの人達にとっては逆鱗に触れると言うような行為だったのだろう。
それに関してはこちらが悪い。誠也がやったのは確かにいけない事だ。
けれど、思ってしまう。もしもあの時、煉さんが止めていなければ……誠也は、殺されていたのではないか、と。
私の中には、あの時の恐怖が今もこびり付いている。蓮花さんと煉さん、理解しがたい嗜好を持つこの二人への恐怖が。
そして、その恐怖の象徴が、今目の前にいる。
「どうして、貴方が……!」
「煉からの指示よ、彼からの頼み事なんて珍しいけど」
蓮花さんは、笑いながらそう口にする。
私の体は、今はあの時のように硬直しているわけではない。
けれど、乗っている車はうんともすんとも言わなかった。
扉を開けようにも溶接されたかのように動かず、押しても引いても動かない。
分っている、無駄な事だ。蓮花さんの力はそういうものだから。
「まあ、しばらくしたら解放してあげるわよ。それまでは大人しくしてなさいって」
「そんな事、出来るわけないだろうッ!」
叫び声をあげたのは先輩だ。
ガチャガチャと扉を無理矢理開かせようとしながらも、外にいる蓮花さんへと向けて声を張り上げる。
「ゆっくりしてる暇なんて無いんだ! 早く行かないと、コースケが……!」
「ああ、彼? ここのところ煉が入れ込んでると思ったけど、彼を助けたいの?」
その言葉に、私は思わず目を見開く。
煉さんが入れ込んでいる、煉さんが気に入っていると言う事か。
「彼も奇特よねぇ。ま、アタシが言えた話じゃないけど。わざわざ死にに行くようなものなのに」
「ッ……だから、どけって言ってるだろう!」
「んー……行ってどうするの? 説得して止めるつもり?」
「方法なんて何だっていい! これ以上、コースケに無茶なんてさせられない!」
「そう、です。蓮花さん、行かせてください」
私は、そう口にする。
正直な話、この人を相手に強行突破なんて無理だ。
蓮花さんもいづなさんと同じく、ヒメが持っているような特殊な才能を持っている人間。
それも、ミナさんが言うところの『全能』……自分ではなくそれ以外に影響を及ぼす力。
蓮花さんの力は、物体の動きを強制的に静止させてしまう力なのだ。
その力に囚われれば、力ずくで抜け出す事など叶わない。この人に力を解いて貰わない限り、不可能なのだ。
「私達は、あの人を助けたい。あの人は先輩に、葵ちゃんに……それに、皆に必要な人なんです」
だからこそ、説得するしかない。
唯一抵抗できる可能性があるとしたらヒメだけだけれども、最低限の力しか使えないヒメでは到底届かないだろう。
力押しでは、この人の呪縛を逃れる事などできない。
「お願いします、蓮花さん。ここを通してください!」
「……まぁ、アタシとしてはどっちでもいい話なんだけどね。けどねぇ、杏奈? 貴方、本当に行く意味があると思ってる?」
説得のために言葉を重ねようとした所で返ってきたその台詞に、私は思わず言葉を詰まらせる。
意味が分らなかったからではない、圧倒されたからという訳でもない。
その言葉の意味を――直感的に、理解してしまったから。
蓮花さんは、どこか呆れたような表情を浮かべながら続ける。それが、誰に対するものなのかは分らないけれど。
「超越者という存在を知っていて、そしてあなた自身アタシたちに近い考え方をしている。流石は誠人の妹って所だろうけど……だからこそ、分ってるでしょ? アタシたちは、己の願いに関する事であれば絶対に意志を曲げない」
ああそうだ、知っている。分っているとも。
私が日常を大切にするように、ヒメが仲間を護ろうとするように、彼らには譲る事の出来ない絶対の価値観が存在している。
そしてそれは、市ヶ谷さんも同じなのだろう。だとするならば、あの人は絶対に言葉では止まらない。
この場所に来た事があの人の願いに関連していると言うのであれば、いくら声をかけても届く事はない。
分っている、分っているんだ。でも――
「それ、でも!」
身を乗り出し、叫ぶ。
じっと前を見つめる先輩と、その腕の中でなきそうな表情のまま蓮花さんを睨みつけている葵ちゃん。
このまま終わらせてしまっては――
「皆が後悔するような結末なんて、私は絶対に嫌だ!」
何かが出来たかもしれないと後悔する姿なんて、絶対に見たくなかったのだ。
だから、そこを通して欲しいと――そう叫ぶ私の言葉に、蓮花さんは小さく笑みを浮かべていた。
その表情を見て、思い出す。『後悔しない結末を選ぶ』という言葉は、煉さんが口にしていた言葉であったと。
「成程ね。ま、いいと思うわよ。強い思いが全て報われる訳じゃないのは分ってると思うけど……それでも行こうって言うんなら止めはしないわ」
「……不吉な事、言わないでください」
「それはごめんなさいね」
肩を竦め、蓮花さんはそう口にする。
発せられた言葉は謝罪――けれど、そこに訂正の言葉は存在していなかった。
自分は間違った事は言っていないと、そう言いたいんだろう。
そして実際、それは事実だ。
この人たちは、それでも諦めきれないと思い続けたからこそ、人の枠を外れた力を手に入れているのだから。
どれだけ願っても願っても届かない、だからこそ焦がれる。それが、原動力となっているのだ。
蓮花さんは、私達の方へと向けていた右手をそっと下ろす。
それと共に、私たちの周囲に満ちて痛いような気配は消え去り、同時に静止していた車のエンジン音が響き始めた。
そんな中、蓮花さんはゆっくりと車の前から退いて行く。
「行って来なさい。精々、後悔しないように」
そう口にすると同時、蓮花さんの姿は夜の闇の中に紛れて消えた。
彼女の背中を見送り、私はようやくほっと息を吐き出す。
思わぬ苦しさを自覚して、ようやく息を無意識に止めてしまっていた事に気がついた。
「……杏奈、今の人は?」
「お兄ちゃんの友達よ。って言うか、どうしたのよ、ずっと黙ってたけど」
私は、首を傾げながらそう口にする。
先ほどの蓮花さんとの会話では、口を開いていたのは私と先輩だけだった。
他の皆は、不自然なほどに口を噤んでいたのだ。
そんな私の疑問に、賢司は深々と息を吐き出しながら声を上げる。
「……殺されるかと思った、それぐらいの威圧感だったんだよ。正直、指一本動かせなかった」
「わ、私も……」
どうやら、ヒメまでもが蓮花さんの力の餌食となっていたようだった。
私にはそんな不自然な力がかかった感覚はしなかったのだけれども……まあ、いい。
それよりも、今は急がなくては。
「秋穂さん、大丈夫ですか?」
「え、ええ……大丈夫、急ぎましょう」
秋穂さんもだいぶあの威圧感に参っていたようだけれども、それで折れる程度ならば今ここには来ていない。
あの力に関しては後ほど説明しないといけないとは思うけれど、今は市ヶ谷さんが優先だ。
とにかく、無事でいて欲しい――そんな思いが胸中に浮かぶと共に、車は再び発進していったのだった。
* * * * *
闇に紛れるように黒い髪を躍らせながら、水淵蓮花は小さく息を吐き出す。
その口元に浮かんでいるのは、小さな愉悦の笑みであった。
(まさか、何の力も持たない人間が、アタシの力を跳ね除けて見せるなんてねぇ)
くすくすと、楽しそうに蓮花は笑う。
蓮花は先ほど、あの車内にいる人間の内、杏奈以外の人間の動きを止めていたのだ。
――否、正確に言えば杏奈の動きも止めようとしていたのだが、一瞬で無効化されてしまっていた。
それに関しては判断ミスだったと嘆息し、蓮花は空を見上げる。
(出力としては最も弱い……それこそ、金縛りみたいなものだった。ただの人間だって、ちゃんと破れるもの)
無論、口で言うほど簡単な事ではない。
蓮花たちの持つ超常の力は、その強靭な意志の下に操られている。
つまり、込められた意志を超えるだけの意志が無くては、その力を跳ね除ける事など不可能なのだ。
元よりあまりやる気は無く、それ故に力を持たぬ人間でも可能な程度の圧であったのだが――
「ただの人間が、自分の意志であれを乗り越える、か……よかったじゃない、煉。お眼鏡に叶う人材がいて」
この場にはいない――市ヶ谷浩介という男と共にいる相手に対し、蓮花は小さくそう呟く。
届くはずも無い言葉ではあったが、それでも彼には聞こえているだろうと確信し、蓮花は視線を先ほど車が去っていった方向へと戻す。
先ほどの彼女たちの前に立ちふさがったのは、足止めと同時にテストでもあったのだ。
あの先に行かせて、それを乗り越えられるだけの強さを持っているのかどうか、それを見極める為に。
――そして一人だけ、それを成し得た存在がいた。
動きを止めようとする圧力を撥ね退け、車から飛び出してでも先へ向かおうとしていた少女。
その姿を思い浮かべ、蓮花は小さく笑みを浮かべる。
「試験は合格。後は……また、面倒な仕事が残ってるわねぇ」
そう呟くと共に、蓮花は己がジャケットの中へと手を入れた。
その中から取り出したのは、二挺の黒いリボルバー。重厚なその二つの拳銃を手に、蓮花は先ほど車が来た方向へと振り返る。
その先から近づいてきている、強大な気配へと。
「まあ、あの子に力を掛けちゃったのはアタシのミスかもしれないけど、煉は最初から来る事予想してたみたいね」
神代杏奈が蓮花の力を跳ね除けることが出来た理由――それは何も、彼女が強い意志を持っているからという理由だけではない。
彼女は護られているのだ。非常に強力な存在に。
杏奈の持つ強運も、鋭い直感も、全てはそこに起因する。
加護とでも言うべき、与えられた祝福。それは、ある一人の男によって齎された物だった。
「シスコンここに極まれりってか。さて、それじゃあしばらく足止めさせてもらうとしましょうかね……今度は、全力で」
空気が凍る。
あらゆる物の動きを止める蓮花の力が漏れ出し、森のざわめきすらも消し去ってゆく。
しかし、その先で――僅かにすら動きを鈍らせること無く、強大な気配が駆け抜けてきていた。
「アンタとの喧嘩は初めてだけど……楽しませてよね、誠人」
「蓮花……! そこを、退け!」
凍りついた世界すら粉砕しようと唸る怒りを纏い、刃を構える一人の男。
神代誠人が、そこにいた。




