88:忌まわしき道
夜の並木道、普段学校に行く時に賢司が待ち合わせ場所として利用している所。
そこに立ち、私は所在無く周囲をきょろきょろと見回していた。
私の手の中にあるのは杏奈の日記帳……そこでは、ひたすら市ヶ谷さんの行動がナビゲートされていた。
「意外な特技って言うか……この町の地図なんて見せた事あったっけ?」
『ううん、見た事はないよ。ただ、周囲の景色を把握してその道筋だけ記録してるんだ』
「普通、それだけだったらこんなに上手く地図は描けないわよ」
日記帳に写し出されているのは、間違いなくこの町の地図であった。
とは言え、全部が全部と言う訳ではない。
ずっと続いている部分は、恐らく市ヶ谷さんが進んでいっている道なのだろう。大層な方向感覚だ。
全て繋がっている一本の道は、今も少しずつ増え続けている。
「けど、今は感謝しないとね。この地図なら、私でも何とか場所が分かるわ」
別に、積極的に街中を歩いていると言うわけではない。
ただ、神社の関係で挨拶をしに行ったりする事は多々あるから、いろいろな場所を練り歩かなければならない事は多いのだ。
今回市ヶ谷さんはどうやら普通の道から外れてどこかに向かっていっているようだけれど、そこまで行くともう分かれ道も少ない殆ど一本道となっている道路だ。
そこまで辿り着きさえすれば、もう迷う事はないだろう。
ただし、結構遠い。市ヶ谷さんは何らかの乗り物を利用してそこまで行っているようだ。
「一応乗り物を用意してとは言ったけど……」
流石に私たちでは車を運転する事はできない。
タクシーを呼ぼうにも、人数は先輩を含めて五人。一台で入るには少々きつい。
それに高いし……とは言え、この状況では背に腹は変えられないのだけれども。
と――そんな事を考えながら道筋を間違えぬよう暗記していた私の元に、二人分の声が届いた。
「杏奈ちゃん!」
「もう来てたのか!」
「そりゃ、私が一番最初に気付いた訳だしね」
凄まじいスピードで掛けてきたヒメと、その後ろを付いて来たトモ。
正直ヒメの走りについてこれるだけでコイツも凄まじい事この上ないのだけれど、今は気にしない事にしておこう。
ひょっとしたら、一度うちに寄っていたりしたのかもしれない。
「杏奈ちゃん、市ヶ谷さんに何かあったって聞いたけど……」
「監視してたんだし、動いたのは確かなんだろ? けど、本当にやばい事になってんのか?」
「そりゃ、コンビニに行く程度の用事だったら私も騒ぎはしなかったんだけどね」
慌てるには少々急ぎすぎなのではないか――確かに、そう思われてしまっても仕方ないかもしれない。
けれど、これを私が異常事態と判断したのには、それなりの理由があるのだ。
今回市ヶ谷さんが出て行く時に手にしていた物、それが何よりの問題だった。
「市ヶ谷さん、あのラジオを持って出て行ったのよ」
「っ……!」
「ラジオって、あの時話してたあれか?」
私の言葉に対し、ヒメは息を飲んでトモは訝しげに眉根を寄せる。
まあ、トモはあのラジオがどういうものなのかいまいち理解できていないのだろう。それに関しては仕方ない。
私だって、あれに関してはなかなか理解する事ができなかった。ヒメがすぐに受け入れられたのは、その素直さ故か、或いは持ち合わせている力故だったのか。
まあどちらにしろ、話の深刻さを理解できているのであれば十分だ。
「トモ、あの道具は怪異に対して使用する道具なのよ? 市ヶ谷さんがそれを持ち出したってことは、少なくとも怪異に対する備えが必要だってことなんじゃないの?」
「……つまりあの人は、怪異と戦いに行ったって事か?」
「断定までは出来ないけど、その可能性は高いと思うわ」
そんな情報をどこで仕入れてきたのか、この近辺に怪異が存在しているのか……まあヒメの事を考えれば何ら不思議ではないし、この間だって私の家の近所に現れたのだから、怪異出現の可能性は否定は出来ないだろう。
そんな事を考えつつ、私は日記帳に視線を落とす。
そこでは相変わらず、杏奈が市ヶ谷さんの進む道をナビゲートし続けていた。
私に対して話しかけてこないあたり、結構集中しているのかもしれない。
「とにかく、少なくとも何かが起きてる。それに、あの人には出来る限り無理をさせちゃいけない。あの人の身体、ただでさえギリギリなんだから」
これ以上無茶すれば、それこそ命を失うような事になりかねない。
それだけは避けなければ……先輩と葵ちゃんの為にも、あの人を死なせる訳には行かない。
そんな言葉と共に脳裏に浮かぶのは、あの人に対する憤りだった。
どうして大切な人がいるのに、己の身を蔑ろにするのか。
どうして、掛け替えの無い日常から足を踏み外そうとするのか――私には、理解できない。
あの人には、大切なものがある筈なのに。あの人は、大切なものを悲しませたり出来ない筈なのに。
どうして、自ら手を離してしまうのか――
「杏奈ちゃん?」
「……なんでもない。とにかく、後は賢司と先輩か……急がないといけないのに、何してるのよ」
きょとんとした表情で私の顔を覗き込んでくるヒメから視線を逸らし、私は賢司の家の方へと視線を向ける。
あまり時間は無いのだ。これ以上ゆっくりしている暇など無い。
じれてきた感覚に辟易しながらもじっとその先を見つめて――その先から、ヘッドライトの輝きが現れた。
「あれは……」
遅い時間とは言え、車の通りが皆無と言う訳ではない。
が、あのワゴン車には一応見覚えがあった。
あの車は――
「――乗れ、三人とも!」
「賢司君っ、秋穂さんまで……!」
「浩介君の事だったら、私もただ待っている訳には行かないの。足は提供するから、私も連れて行って」
止まった車の助手席から声をかけてきた賢司に、私は思わず眉根を寄せる。
秋穂さんはあの事故以来しばらく車に対してトラウマを持っていたけれど、それはもう現在ではほぼ完治している。
精々、あの時乗っていた場所――後部座席には乗れないと言う程度だ。
日記に広がる地図が増えてゆく速さを見るに、市ヶ谷さんも車を使っている……歩いて行っては間に合わない可能性もある。
けれど、それでも怪異を全く知らない秋穂さんを連れてゆくのはやはり躊躇われた。
それでも――
「分かった! 行くわよ、ヒメ、トモ! 秋穂さんはしっかり護りなさい!」
「っ……うん!」
「当たり前だ!」
こう言っておけば、篠澤家二人組は何が何でも秋穂さんの事を護ろうとするだろう。
無論、無茶をして欲しい訳ではないけれども、怪異に慣れていない秋穂さんに関しては用心しておくに越した事はない。
そう思いつつ後部座席のスライドドアを開ければ、そこには葵ちゃんを膝の上に乗せたテリア先輩の姿があった。
「先輩、その子も……」
「コースケを踏み止まらせる為には、やれるだけの事をやっとこうと思ってね」
葵ちゃんを市ヶ谷さんの説得に当たらせようと言う訳か。
しかしまた、ここまでなりふり構っていない先輩を見るのも初めてだ。
それだけ、先輩も追い詰められていると言う事なのだろう。
ともあれ、時間が惜しい。私は二列になっている後部座席の後ろ側に入り込み、ヒメもそれに続く。
トモは先輩の隣……これが普段だったら無駄に騒いで喜んでいたところだろうけれど、流石に今は真面目にやっているようだ。
この間の件以来、テンションの戻し方に失敗しているような気がするけれど、まあ五月蝿くない分には助かるからいいとしよう。
「賢司、これでナビゲーションして!」
「ん……これはまた、凄い事になってるな。だが、助かる」
日記帳を開いた賢司はそれを見て驚いた顔をしながらも、頷いて正面を向く。
そして、そのまま運転する秋穂さんに道順の指示を飛ばし始めた。
動き始める車内――しかし、会話らしい会話は無いままに車は進んでゆく。
……話す内容が思いつかないのだ。
葵ちゃんですら身じろぎ一つせず不安そうな表情を浮かべている中、一体どんな内容を口にしろというのか。
下手な事を言って不安を煽る訳にもいかないし、何も分かっていない現状では作戦会議も難しい。
どうしようかと考えながら手持ち無沙汰に窓の外へと視線を向けてボーっとしていた私は、ふとある違和感を感じた。
「……え?」
見覚えが、無かったのだ。
いや、訳の分らない場所に放り出されたという訳ではない。
周囲にあるのはいつも通り、私たちが暮らしている三上町だ。
けれど――何度も乗っている筈のこの車の中から、この光景を見た事が無い。
あるはずなのに、このアングルだけは一度も見た事が無いのだ。
何故なら――
「この、道って……まさか、賢司!」
「っ……あの、場所か……」
賢司の声は、小さく震えていた。
私ですら違和感に気付いたのだ、無理はないだろう。だってこの道は、秋穂さんが今まで意識して避けてきた道なのだから。
町の外に出る道としては最もポピュラーなもので、普通に車に乗っていれば何度も通るであろう場所。
それでも秋穂さんが頑なにここを通ろうとしなかった理由は単純だ。
「ここ、七年前の事故があった場所に向かう道……?」
「そうみたいね……秋穂さん、大丈夫ですか?」
「え、え。本当は思い出したくも無い場所だけれど、今はそんな事言っていられないから」
向かう方向は山の方を通って隣の県へと向かう道。
七年前の事故は、その山道から車がガードレールを乗り越えて落下してしまったと言うものだった。
そんな忌まわしい思い出のある場所なのだ。嶋谷家の二人からしてみれば、普段なら死んでも通りたくない場所だっただろう。
それでも、今は行かなくてはならない。賢司も秋穂さんも、その重いから恐怖を押し殺して道を進んでいる。
無茶はして欲しくないけれど、今はそれが必要な場面という事なのだろう。
それにしても、市ヶ谷さんはそんな場所で一体何をしようとしているのか。
県外に出るためにここを通っていると考えられなくも無いけれど、私の直感はそうではないと囁いていた。
根拠も無いただの想像でしかないのだけれども、私の勘は何故かよく当たる。
「賢司、市ヶ谷さんは?」
「……あの場所で、止まった」
あの場所がどこかなど、最早聞く必要も無い。
本来の道から少しだけ外れた場所――きっと、ただ近道をしようとしただけだったのだろう。
そんな他愛も無い選択を後悔する人は、最早この世にはいない。
二人の記憶に刻み込まれているであろうその場所は、ここから続く分かれ道を右に行った場所にあった。
「秋穂さん……」
「ありがとう、心配してくれて。でも、行かないと」
葵ちゃんの不安そうな声に、秋穂さんは僅かに声を震わせながらも気丈な笑顔でそう答える。
ああ、そうだ。行かなくてはならない。怖いからといって立ち止まっている訳にはいかない。
ただ市ヶ谷さんを救いたい、その想いだけを胸に、秋穂さんはかつてのトラウマの場所へと足を踏み入れてゆく。
そうして、分かれ道に入った瞬間――ライトに照らされた前方に、一人の人影が見えた。
「なっ!?」
暗い闇の中に浮かび上がるのは、恐らく女性であろう長い髪の姿。
けれど、その詳しい姿を確認するほどの時間も無く、秋穂さんは全力でブレーキを掛ける。
しかし、焦れて若干スピード違反気味だった車は簡単には止まらず――否。
「な――」
止まった。身体がつんのめるような衝撃も無く、急激なブレーキ音すらなく、ただ最初から止まっていたとでも言うかのように。
まるで、車と中にいた私たち全てが慣性の法則から除外されてしまったかのような――そんな、無茶苦茶な静止。
ありえない。あれだけのスピードで走っていたのに、こんな風な止まり方をする事なんてある筈が無い。
けれど――そんなありえないという言葉自体がナンセンスだと、今の私達は知ってしまっていた。
「なん、で」
闇の中、ライトの向こうに浮かび上がるのは一人の人影。
腰の後ろにまで伸ばした長い黒髪、すらっとした細身の体格。
満月の下、その月の光を浴びながら不敵に微笑む一人の女性――
「残念だけど、しばらく止まってもらうわよ。貴方たちはもうしばらく待ってなさい」
「蓮花、さん……どうしてここに、こんな時にっ!」
水淵蓮花。
お兄ちゃんの仲間の一人であり、私が唯一絶対に仲良くなれないと感じた人。
そんな彼女が私達の方へと掌を向けながら、立ち塞がっていたのだ。




