87:思いの源泉
(随分、遠くに来たものだなぁ)
一人きりの部屋の中、天井を見上げながらテリアは胸中でそう呟く。
寝転んだベッドの横にある小さなサイドテーブルの上に載っているのは、写真立てに収まった一枚の写真。
幼き日の自分の姿を映したそれに――セピア色の酷く古ぼけた写真に、小さく苦笑を零していた。
(こんな事になるなんて、思ってもみなかった)
テリア・スリュースは、かつて市ヶ谷浩介に救われた。
それは、紛れも無い事実であったのだ。
彼がいなければ、今自分はここにはいない――テリアの中に常に存在しているのはそんな意識だ。
浩介に対してあるのは感謝と、そして淡い感情と。
ゆっくりと天井へ向けて手を伸ばし、テリアはぼんやりと声を上げる。
「コースケは、歩くのが速すぎる」
テリアは、かつて自分の手を引いてくれていた大きな手を思い出す。
デリカシーが無くて、鈍感で――けれど、常に人の事を考えている。
小さく苦笑して、テリアは皮肉気に口元を歪める。
今の言葉を彼に聞かせれば、『あれでも速すぎたのか?』と狼狽する事だろう。
彼は十分に、かつてにテリアに歩幅を合わせてくれていた。
――テリアが思うのは、そういう事ではないのだ。
「でもさ、ようやく……ようやく、背中が見えてきたんだ。だから、まだ踏み外さないで」
浩介の背中は、テリアにとってはあまりにも眩しい物で。
他者を心配させないために誰にも追いつけない速度で進んで行く彼の背中を、テリアは恨めしくすら感じていた。
僅かな時間すら、この一分一秒すら惜しく感じてしまうほどに、テリアの焦りは深い。
――彼には、時間がないのだ。
「時間、か……」
いっそ、彼をあの場所に閉じ込めてしまえればいいのに――そんな益体も無い妄想に、テリアは小さく苦笑する。
――テリア・スリュースは、チェンジリングであった。
ヨーロッパにある伝承、取替え児。それもまた一つの怪異として形を成していた現象であった。
けれど、テリアの体験したそれは、実際の伝承とは違うものとなっていた。
チェンジリングとは、生後間もない子供が妖精やトロールによって攫われ、その妖精などの子と取り替えられると言う逸話である。
元を辿れば、畸形児や知的障害の子供を自分の子供と認められず、妖精によって取り替えられたのだと喚き虐待する親が元となった話だろう。
しかし、テリアの体験したそれは逸話と大きく異なっている。
彼女のそれは言うなれば――浦島太郎であった。
(マヨヒガか……まあ何であれ、何らかの異界だったんだろうけど)
テリアがその場所に迷い込んだのは、12歳の頃。
ある日、山の方へ木の実を探しに出かけた彼女は、いつの間にか広い花畑の中に迷い込んでいたのだ。
そこには小さな妖精たちの姿があり、陽気な彼らの姿に、テリアは時を忘れて共に遊んでいた。
だがしばらくして、その花畑に一人の男が姿を現した。
ベージュのコートを纏った青年はテリアの姿を見つけると、すぐさまその手を掴んで走り出したのだ。
一体彼は誰なのか、何故焦った様子なのか。それを理解できぬまま呆然と手を引かれるままに進み、そして森を抜けた瞬間――テリアの視界には、見た事もない光景が広がっていた。
テリアが山に入った日――その日から、数十年の時が経過していたのだ。
(神隠し、か……杏奈ちゃんと姫乃ちゃんがワタシみたいにならなくて、本当によかった)
妖怪にはそれ程詳しくは無かったため、杏奈から話を聞いて調べた時には本当に血の気が引いたものだと、テリアは小さく苦笑する。
人が姿を消す怪異というのは、世界中に存在しているのだ。
マリー・セレスト号、バミューダ・トライアングル、各地の逸話にも残るそれ。
テリアが体験したのはそれらの内の一つであり、そして異界と外の世界の時間の流れが極端に違う怪異であったのだろう――それが、事件を調べた浩介の言葉であった。
時間の流れが曖昧ではあったものの、テリアの意識では数時間程度遊んでいるだけだったのだ。
だと言うのに、それだけの時間が流れていた。浩介自身、危険を冒して異界へと足を踏み入れていたのだ。
(ま、後になって知った事だけどさ)
無論、当時のテリアにはそんな事を気にしている余裕など無かったのだが。
ただ、あまりにも長い時が過ぎてしまった事に呆然とし、自分の家族が一人も残っていなかった事に絶望した。
そしてその特殊すぎる経歴ゆえに施設に入る事も躊躇われ、結局浩介に付いて行く事になったのだ。
世界の全てが遠い存在になってしまっていたテリアにとって、浩介だけが唯一頼れる存在だった。
(ワタシにとって、コースケは全てだった。コースケがいなかったら、今の生活はありえない)
日本の国籍を手に入れるために、長い時間とリスクを犯してまで非合法な手段に手を出したのも。
あらゆる手を尽くしてくれた彼に対し、テリアが感謝しないはずが無かったのだ。
だからこそ今、テリアは必死で浩介を救おうと手段を模索している。
希望を持つ事が出来たのは――
(杏奈ちゃん、だね。中心にいるのは)
自分が唯一過去から持ってきていた写真を眺めながら、テリアは胸中で小さく呟く。
あの四人の中で、司令塔となっているのは間違いなく賢司であろう。
しかし、彼が中心にいるかと聞かれれば、テリアはそれに否と返す。
彼らの中心にいるのは、実際には杏奈であろうと思うのだ。
無論、本人にそう言えば彼女は否と返すであろうが。
(杏奈ちゃんは自分を過小評価するきらいがあるからねぇ)
人々を引っ張ってゆく人物に必要とされるのは、ただ冷静である事だけではない。
本当に必要となるのは行動力だ――そう、テリアは考える。
そして、杏奈はそれを備えているとテリアは信じていた。
「……ねえ、杏奈ちゃん。ワタシが今希望を持つ事が出来ているのは、誰のおかげだと思う?」
テリアは、孤独だった。
過去を失い、ただ立ち止まる事も出来ずに歩み続けて、けれど共に歩んでくれる人すら失いかけて――掛け替えの無いたった一人を失う恐怖に怯え続けた。
テリアが抱いている浩介を救おうと願うその想いは、賢司が持っているそれよりも遥かに強い。
例え今、いくつもの大切なものを手に入れる事が出来ていたとしても――テリアはその始まりを、握ってくれた手を忘れる事はできないから。
「新年度が始まったとき、ワタシはもう諦めかけていた。君が逃げ出さず立ち向かってくれたから……ワタシは、頑張れたんだ」
杏奈が怪異から逃げ出していれば、姫乃を怪異から少しでも引き離すような選択をしていれば、テリアは今こうして希望を抱く事は出来ていない。
それほどまでに危うい均衡を繋ぎ止めてくれた杏奈に、テリアは強く感謝していたのだ。
「最後まで諦めない、戦い抜く。それだけが……ワタシに出来る、全てだから」
状況が改善された訳ではない。
有力な情報が手に入った訳ではない。
それでも、諦めずに最後まで戦い抜けると確信する事が出来るから――
「……頑張るよ、杏奈ちゃん」
ありがとうはまだ言わない。
テリアは静かにそう決意して――直後、鳴り響いた携帯の音に身体を起こした。
* * * * *
夜眠りづらい、そう思ったのはいつ以来だろうか。
怪異の件の最中でも、別に寝る時まで怖いと思う事は無かったのだけど……まあ、今回は怖いとかそういう事ではないからか。
今私が寝づらいと思っているのは、日記の杏奈には私を起こす手段が無い為だ。
「……いくら見えたり聞こえたりするようになったとは言え、何かに触れるようになる訳じゃないからねぇ」
『杏奈が眠ってる間に何かが起こると、流石にどうしようもないよ』
継続している市ヶ谷さんの監視。
しかし、私が寝ている間に市ヶ谷さんに異変が起こってしまっては、それに気付く手段が無いのだ。
まあ、あの人が何らかの行動を起こすと言うのであれば、あの人が寝るまで我慢していればいい話なのだけど。
「ふぁ……はふ。やっぱり眠いわ……」
『あんまり根を詰めすぎてもだめだよ、杏奈』
「分かってるんだけどね……」
けれど、これは恩返しなのだ。
今まで私達の事を助け続けてくれた先輩への恩返し。
賢司については……まあ、最近はこっちから世話をしてやった感じなので恩返しではないけれど、それでも親友の願いならば叶えない訳には行かないだろう。
それに、あの人に何かあれば、悲しむ人が沢山いる。市ヶ谷さんがいなくなるなんて、そんな事を認める訳にはいかない。
「ウツロの方は大丈夫なの?」
『うん。葵ちゃんはもう寝ちゃったから、捕まる事も無いと思うよ』
懸念の一つではあったけど、大丈夫だと言うならまあいいだろう。
一応、あの後ウツロに対しては、賢司の方からよく言い含めて貰っていた。
あの猫も何だかんだで結構世話焼きなところがあるから、こうやって釘を刺しておいた以上はしっかり仕事を果たしてくれるだろう。
まあ、別に寝るなとかそんな無茶な事を言う訳じゃないんだけど。
と、そんな事をぼんやりと考えていた時、日記帳に呼びかける声が浮かび上がっていた事に気がついた。
『ねえ、杏奈ってば』
「っと、ごめんごめん、ボーっとしてたわ。それで、どうかしたの?」
『うん、疑問だったんだけど……どうして市ヶ谷さんは、あんな風に頑張れるのかな?』
「あんな風にって言うと?」
『誰かのために、って言う事』
その言葉に、私はわずかに目を細める。
日記の杏奈――森杏奈は、生前『誰かの為に何かをする』なんて事は殆ど無かったのだろう。
ひきこさんの逸話と同じような経験をしていると言うのであれば、ただ他人から傷つけられるばかりの日々だったはずだ。
それがこんな純粋な人格を残しているのは少々意外なところだけれど、それは日記帳だからと言う事なのかもしれない。
本当なら日記のほうに悪意が集中してそうな所だけど、ああいう怪異となった為か、持ち合わせていた悪意はあの本体の方に集中していたように感じられる。
恐らくだけど、この日記帳は苛められる前から使っていたのだろう。
その頃にあった杏奈と言う純粋な女の子の人格がベースになっている……そんなところだろうか。
とにかく、それ故にこの子には他者に対する献身というものが理解できないのかもしれない。
いや……市ヶ谷さんのは献身とは違うか。
あれは、きっと――
「私の周りには変な性格の人がいっぱいいるから、何となく分かるんだけど……あれは、そういう価値観なんだと思う」
『価値観?』
疑問符を浮かべる杏奈に、私は小さく苦笑する。
まあ、無理もないことだろう。あれは理解できる事ではないのだ。
私だって、言葉の上では分かっていても、それがどういう事なのかと言う事をしっかり理解できている訳ではない。
ただ――ほんの僅かに、共感できるだけだ。
「そうね……簡単に言うと、あの人は自分が『正義の味方』である事にしか価値が無いと思ってるのよ」
『えっと、人に手を差し伸べられなきゃ駄目、とか?』
「ちょっと違う、のかな。正直私も上手く説明できないんだけどね。自分がそう在る事にしか価値を見出せない、そしてそれだけがあれば満たされている……確か、いづなさんはそう言ってたわ」
そしてそれが、あの特殊な才能を持つ人々が強く成長するための要素であると。
もしも市ヶ谷さんが同じ力を持っていたら、いづなさんたちと同様に高い力をえる事が出来ていたのかもしれない。
揺らぐ事のない絶対の価値観。進むべき道を定めて、それ以外の全てを捨て去ってでも邁進する強い意志。
市ヶ谷さんは、きっとそれを持ち合わせているのだ。
「だからあの人は他人に手を差し伸べるのよ。例え何があっても、それだけが大切だと思ってるから」
『……そんな人を、止められるの?』
「分からない。言葉じゃきっと無理でしょうね。だから、あの人の命を削っている原因を取り除かないと駄目なはずよ」
例え何があっても、あの人は人を救おうとするのを止めないはずだから。
だから、何とかするにはそれしかないだろう。
その為にも、何が何でも情報を探らないといけない。
そう思って、日記帳を覗き込んだ――その瞬間だった。
『杏奈っ!』
「ッ!? 何、どうしたの!?」
『市ヶ谷さんが動き出したの! どこかへ出かけるみたい!』
「こんな時間に?」
『荷物もしっかり纏めてるし、あのラジオも――』
――その言葉を読み取った瞬間、私は即座に立ち上がって携帯を取り出していた。
そして、外へと走りながら皆へとメールを飛ばす。
どうやら……思った以上に時間が無かったようだ。




