85:疑念
「コースケ!」
「おお、葵。帰ってきたぞ」
『コンチェルト』の二階、市ヶ谷さん達が住居として使っているそこに上がった時、真っ先に聞こえてきたのは葵ちゃんの声だった。
今の状況だと誰が入ってきたかとか分からないと思うんだけど、もしかして人が来るたびに市ヶ谷さんが来たと思って声をかけてるんだろうか。
そうだとするならば、もうちょっと頻繁に帰ってきてあげて欲しいと思う所なんだけれども。
この人は……気付いていないのだろうか。
部屋の中から慌てて飛び出してきた葵ちゃんは、市ヶ谷さんの姿を発見して目を輝かせ、そしてすぐさまその表情を消し去った。
いつも通り、どこか不機嫌そうな半眼の視線を作り出し、じっと市ヶ谷さんの事を見つめる。
「……コースケ、遅い」
「ごめんな、葵。どうしてもやらなきゃならない仕事があったんだ」
「あなたはわたしより仕事のほうがだいじなのね」
「……それを教えたの、テリアか?」
「うん」
今度はあれか、修羅場を作り出してる妻の演技か。
あの人は本当に子供に対して何を教えているんだろうか。
っていうか、いがみ合ってるように見えて、何だかんだで先輩と葵ちゃんは仲がいい。
今の状況を見ていると、市ヶ谷さんに対する不満と言う点で通じ合っている点があるのかもしれない。
まあ、境遇が似ているからと言う可能性もあるけれど。
「ったく、あいつはまた変な事を……」
「コースケがいそがしいの、知ってる。けど、帰ってくる前にれんらくぐらいして」
「う……」
「子供にここまで言わせちゃ負けだろ、浩介兄さん」
「ああ……ごめんな、葵」
感情のままに喚き散らすならともかく、葵ちゃんはあくまでも市ヶ谷さんの非を突く。
たぶんそこら辺もテリア先輩の入れ知恵なんだろうけれども、これは流石に市ヶ谷さんに対しても効果的だった。
この人、自分の非はしっかりと認めてしまう人だから。子供相手に誤魔化すような真似はしないのだ。
まあ、いい事ではあると思うんだけど、その所為で結構損している気がしてならない。
「分かった、心配掛けちゃったからな。今日はずっと葵と一緒にいるよ」
「ん……」
ぐりぐりと市ヶ谷さんが頭を撫でれば、葵ちゃんは心地よさそうに目を瞑る。
その様子は本当の親子のようで、賢司とヒメに負けないぐらいに幸せそうな様子だった。
そんな暖かな光景は――しかし、私の心を急激に冷やしてゆく。
もしも、私の予想が正しいのなら……そう思い、ちらりと賢司の方へ視線を向ける。
「……」
賢司は、ただ無表情で二人の姿を見つめていた。
けれど、私には分かる。長い付き合いなのだ、表情ぐらい簡単に読めてしまう。
この賢司の表情は、内心を必死に押し殺している時のそれだった。
それはヒサルキに関する詳細を、先輩たちに伝えた時と同じ表情で――
――どうすれば、よいのだろう。
直接聞く事も憚られ、けれど何も知らなければ何もする事はできない。
このままでいいのだろうか――そんな思いは、焦りとなって少しずつ私の心の中に蓄積されてゆく。
私は、何も知らない。けれど、もうこれ以上、無知である事の地位に甘えている訳には行かないのではないか。
最初は、軽い気持ちだった。
ヒメの問題を解決してあげようと、手頃な部活に所属しただけの話だったのだ。
それが偶然賢司の部活で、皆で所属する事に成って――緩く楽しめればいいと、そう思っていた。
けれど私達は、怪異と言う存在を知った。
その危険性を、その悲しさを、私達は思い知らされる事になった。
そして――ヒメが危険に晒されていると言う事を、知らされてしまったのだ。
だから、私は戦った。あの手この手を尽くして、色々な人の手を借りながら。
そうして知ったのは怪異と言う存在の真実、そしてヒメに宿っている不思議な力。
私たちが今どんな立場にあるのか――それを、正確に知る事となった。
だけど――
「まだ、知らない」
小さく、呟く。
私はまだ知らないのだ、本当の始まりを。
賢司が、テリア先輩が、怪異と言う危険な領域に足を踏み入れる事となった、その始まりを。
その原因になったであろう人は目の前にいて、そしてその身に何があるのかを少しだけ想像してしまう。
それは勝手なイメージでしかない。きっと的外れなものなのだ……なんて、そんな風に思い込んだとしても、それはきっと逃避でしかないのだから。
ならば――
私は、顔を上げる。
いつまでも踏み込む事を躊躇っていたとして、それで何かが手遅れになってしまったとしたら、私は一生後悔するだろう。
私は一つだけ、煉さんの言葉に同調したいと思ったことがある。
『絶対に後悔しないで生きる』……とにかく変わり者のあの人の言葉の中で、頷く事のできた数少ないもの。
私は、後悔したくない。
きっと私は、まだ怪異を恐れているのだろう。
いや、きっとではなく間違いなくか。怪異は怖い。だから、そこにより深く踏み込んでしまうであろう二人の理由には、あまり触れたいと思っていなかった。
けれど、いつまでも臆病ではいられない。
多くを知って多くを感じて、多くの人と触れ合って。それを大切だと思うから――踏み込まなければ、いけないだろう。
賢司とヒメの件を経て、少しだけ勇気を持つ事が出来た私なら、きっとそれが出来ると思うから。
――行こう、まずは話し合いだ。
* * * * *
「それでワタシの所に来るとは……いざとなると直情って言うのは本当だね、杏奈ちゃん」
「そりゃまあ、あんまり時間置いてる訳にも行かないと思いましたから、真っ向勝負です」
「……ふむ」
真っ直ぐと、目を見つめながら言い放った言葉に、先輩は小さく呟いて口を噤む。
しかし、私は視線を外すような事はなく――ほどなくして、先輩は深々と嘆息を零していた。
「まあ、言い訳にしかならないんだけど……問われれば、答えるつもりだったんだよ」
「え……?」
「ただ、こちらからは言う勇気がなかった。ワタシはね、杏奈ちゃん。君たちに、本当に感謝しているんだ」
普段では聞けないような素直な言葉に、私は目を白黒させる。
そんな私の様子すらも楽しむように、先輩は小さく笑みを浮かべながら声を上げた。
「部が無くなってしまえば、怪異の調査の進みは悪くなる。ワタシはそれを恐れていた……だから、真実を語って、君たちが離れてしまわないかと思うと……怖かったんだ」
バイト明けの直後、まだウェイトレスの服も脱がぬままに行った先輩の言葉は――聞いた事もないほど、弱々しいものだった。
いつも超然とした態度をしているか、或いは怪異を前にして本気の表情を見せているか……私は、それぐらいしかこの人の姿を見た事がなかったのだ。
同時に、理解してしまう。これがこの人の根本の部分なのだと。
どうしても譲れないものがあったから、私たちを半ば騙すような行動をしてでも、戦い続けようとしていた。
「……話してください、先輩」
「うん……君たちには聞く権利がある。でも、一つだけ……厚かましいとは分かっているけれど、賢司君の事を誤解しないであげて欲しいんだ。彼は本当に、君たちを巻き込むつもりなんてなかった」
「分かってますよ。あいつ、名前だけ貸してくれればいいって言ってたんですし。それに、もしもヒメが狙われるような事が無かったら、あいつは無理矢理にでも私たちを怪異から遠ざけていたでしょうし」
「ふふ、信頼してるねぇ。うん、ありがとう……それじゃあ、どこから話そうか」
先輩は息を吐き、そして虚空を見上げてしばし沈黙する。
私も口を開かぬままにそれを待ち――視線を戻した先輩の表情は、覚悟を決めたかのようなそれとなっていた。
「まず、だけど……本当の始まりは、賢司君のほうだった」
「賢司の? でも……」
「まあワタシの方が詳しいのは確かだけど、それはワタシが情報収集能力に優れていたからってだけだよ。賢司君は、ワタシが来る前から活動していた……まあ、足がかりが無いから殆ど進んでなかったけど」
つまり賢司は、ずっと昔から怪異のことを知っていたのだろう。
私の予想が正しいのなら、恐らく――事故の直後から。
そしてそんな私の予想は、すぐさま証明される事となった。
「杏奈ちゃんなら知ってるね、賢司君が昔遭った事故の事」
「はい……賢司の両親も、市ヶ谷さんの両親も亡くなったと」
「唯一まともに動き回れる程度だったのは秋穂さんだけ……賢司君は、体の傷以上に心の傷の方が重傷だったみたいだけど」
そう、そして――その時の車には、市ヶ谷さんも乗っていた筈なのだ。
事故は、本当に酷い状況だった。だとするなら、その時市ヶ谷さんは。
「……市ヶ谷さんの怪我は、どんなものだったんですか?」
「っ……生きている事が、不思議なぐらいだったらしいよ。今、立って歩いている事すらも奇跡だ。死んでいなきゃおかしい傷だったんだよ、コースケのあれは」
やはり、と――そう小さく呟く。
市ヶ谷さんがヒサルキの事に詳しかった理由。そして、熱海から帰る時に感じた僅かな違和感。
あの人はやっぱり、ヒサルキの力を借りて身体を癒そうとしていたんだ。
それもたぶん、初めてではない。市ヶ谷さんとヒサルキは、ずいぶんと長い間付き合いがあったように感じられた。
つまり、ヒサルキの力ですら治し切れないような傷があるという事だろう。
「実際、コースケはいつ死んでもおかしくない身体だ。そんな身体の癖に日本どころか世界の各地を回って、困った人を見かけては無茶をしている。
ワタシの贔屓目ですら、コースケが今生きている事が不思議なぐらいだったけど……ヒサルキの事を聞いた時には納得したよ」
「やっぱり、そうだったんですか……」
世界の各地を回っていた――となれば、先輩が葵ちゃんと同じような形で拾われたのは事実なのだろう。
だからこそ、怪異と相対する時の先輩の態度は、これ以上ないほどに真面目なものだったのだ。
怪異に対する恐怖も、理解もある。けれどそれ以上に、助けたい人がいたから。
先輩は、そして賢司は……心の底から市ヶ谷さんの事を助けたいと思っているのだ。
「事故が……例の事故が起こったのは、やっぱり怪異の仕業だったんですか」
「いや、それは違う……と、思う」
その言葉は、私にとっては少々意外なものだった。
賢司たちが怪異を探す理由は、復讐に近いものなのだと思っていたから。
若干歯切れは悪いけれど、どうやら先輩は、事故の原因は怪異だとは思っていないらしい。
可能性がある、と言う程度に留めている……感情を抑えているわけではなく純粋にそう思っているようだ。
となると、少なくとも復讐と言う理由ではないのだろう。
「あった可能性を否定は出来ないけれど、賢司君の記憶にある限りでは怪異である可能性は低い」
「なら、二人はどうして怪異を? ただ市ヶ谷さんの真似をしてって言う訳ではないんですよね?」
「うん、それはそうだ。けど……分からないんだ」
「分からない?」
その言葉に、私は首を傾げる。
何が分からないと言うのだろう。二人の中で、怪異を追う理由ははっきりしているはずだ。
ならば、分からないとは一体なんだと言うのか。
そんな疑問と共に先輩の顔を覗き込み――ぎょっとする。
思いつめたような表情の先輩の目には、僅かながらに涙が浮かんでいたのだ。
「分からないんだ……コースケの身体は、怪異の力を利用して保たせているのにどんどん弱ってきている。説明がつかないんだよ。ただの怪我だけだったら、ヒサルキの力があれば治っていたっておかしくないんだ」
「それは――」
私自身、少しだけ疑問に思っていた事だった。
車に轢かれて死に掛けていた柿本恵の体を、医者による処置もないままに癒しきってしまったヒサルキの力。
あれだけの力があっても癒しきれない傷とは、一体なんだと言うのか。
もしも、それがただの怪我ではないのだとしたら――
「何らかの怪異の干渉がある事は間違いないと思う。けど、それが何なのかが見つからない! ワタシは、ワタシを助けてくれたコースケを助けたいのに……ッ!」
「先輩……」
先輩の、心の底からの叫び。
その強い思いに共感して、けれど掛ける言葉を見つける事が出来ない。
それ程に――先輩は、追い詰められていたのだろう。
だから、私に出来る事は、これぐらいだ。
「先輩……私は、何をすればいいですか?」
「え……?」
「市ヶ谷さんを助けるために出来る事、教えてください」
「……ワタシは、杏奈ちゃんたちの事を利用していたんだよ?」
「そうだとしても、先輩はヒメの事を助けてくれました。先輩がいなかったら、私もヒメも無事じゃなかった……その恩を忘れるほど恩知らずな人間じゃないです」
例えヒメと市ヶ谷さんの件が別件であったとしても、私たちが助かったのは間違いなく先輩のおかげだ。
私が今生きているのは、先輩のおかげであるといっても過言ではない。
だから、返せるものなら返したいのだ。どんな方法だっていい。先輩は、それだけの事を私たちにしてくれたのだから。
「先輩は、私たちにとって正義の味方です。だから、今度は……私達を、先輩にとっての味方にしてください」
「――――っ!」
先輩は、市ヶ谷さんに憧れて、市ヶ谷さんを志して頑張ってきたのだ。
それが無駄だったなどとは、私だって認められない。
もう、先輩を、そして賢司をたった二人きりで戦わせてなるものか。
「だから、教えてください、先輩。私は、何をすればいいですか?」
そう言って――私は初めて、巻き込まれるような形ではなく自らの意志で怪異の世界へと足を踏み入れていったのだった。




