08:歪められた逸話
背筋が凍るとはこの事だろうか。
それと目を合わせてしまった瞬間、私は指先一つ動かす事ができなくなってしまっていた。
同じオカルトで言うならば、これこそが金縛りとでも言った所か。
桜の舞い散る公園の中、白い着物の一部を血で染め上げ、その手に真っ赤なナニカを持ちながら狂笑を浮かべる人影。
それは正しく、話に聞いていた『ひきこさん』そのものであった。
「バカな……晴れの日に、昼間から現れる筈が……」
誰かに聞かせようとした訳では無い、呆然とした呟き―――それは、普段冷静な嶋谷が、それだけ動揺している事を示していた。
つまり、これは異常事態なのだ。ありえない事が起こっている。
『ひきこさん』の逸話に、こんな場面は存在していないのだ。
雨の日にしか現れないと言われている存在が、何故今こんな場所にいるのか。
理由など分からない。唯一つ、考えられるとするならば―――先ほど、私自身が考え付いてしまった一つのフレーズだけだ。
「桜の、雨……」
まるで雨のように、周囲の桜は舞い散っている。
桜雨舞うこの場所を、雨が降っていると判断しているのであれば。
相手は噂によって構成された存在……噂次第で、姿を変えてしまう。
「……なあ、賢司。それって、アリなのか?」
「知るかよ……だが、相手は小学生しか襲わない筈―――」
「ッ……! 皆、横に跳んで!」
瞬間―――ヒメの上げた叫び声に、私達は反射的に従っていた。
ヒメの言葉を疑うような理由は無いし、それにあまりにも切羽詰ったその声は、無条件で従ってしまう重みを持っていたのだ。
私達は疑問を感じる間もなく横に跳び―――その横を、物凄い速さで駆け抜けてきたナニカが掠めていった。
「な……っ!?」
一瞬理解できず、しかしその正体がたった一つしかない事にも気付きながら、私は呆然としつつも生存本能に従って距離を開ける。
ひきこさん―――彼女は、凄まじい速さで飛び出し、その腕を思い切り突き出してきていたのだ。
間一髪、私達は横に跳んだ事でそれを回避し、ひきこさんの一撃は私達の背後にあったパネルへと激突した。
一体どれほどの膂力でその一撃は繰り出されたのか、引き摺られていた赤黒い物体はその一撃で砕け散り、彼女の腕は金属製のパネルを紙か何かのように貫いてしまっている。
砕け散った物体は……最早、疑いようも無い。ボロボロに擦り剥けた手足、飛び散る血、それが何なのか理解したくもないグチャグチャした物体―――ひきこさんによって引き摺り殺された、人間の身体だ。
「う、ぐ……!」
思わず湧き上がる吐き気を、私は傍に感じるヒメの気配で押さえ込む。
ここで錯乱してしまえば、逃げる事なんで出来なくなってしまう。
歯を食いしばり、腕を引き抜こうとしているひきこさんを睨み据え―――ふと、私の前に人影が割り込んだ。
「ヒ、ヒメ!?」
「皆は私が護る……お兄ちゃん、杏奈ちゃんを連れて逃げて!」
「バカ、お前も一緒に逃げるんだよ!」
立っていたのは、近くで拾ったちょっと太めの樹の枝を手に構えるヒメ。
凛とした佇まいはいづなさんと修行している時と同じ、堂に入ったものでった。
皆を護ると決めたときの精神力は、相変わらず凄い……けど、ここで誰か一人が囮になるような、そんな展開は認められない!
「嶋谷!」
「ヒメ、行くぞッ!」
「っ……賢司君!?」
私の言葉と同時、嶋谷はヒメの手を取って走り出す。
私とトモもそれに続きながら、前を走る嶋谷に向けて大声で叫んでいた。
「何か作戦は!?」
「ひきこさんは身体が歪んでいて、横向きにしか走れない! 積極的に角を曲がりながら逃げれば攻撃は躱せる!」
作戦というほどの作戦でもなく、私達の注意力と能力依存―――だけど、不可能じゃない!
嶋谷は既にヒメの手を離し、ヒメを一人で走らせている。
それでいい。正直、運動神経ではともかく、体力では嶋谷が一番低い。
そして、私達の中で最も身体能力が高いのはヒメだ。だからこそ、嶋谷は遠慮なくヒメに仕事をさせる。
「ヒメ、向こうの動きを読んでくれ!」
「分かった! 賢司君、誘導お願い!」
後ろを振り向きながら逃げる余裕のあるヒメに、ひきこさんの監視を任せる。
その手にはいまだ樹の棒が握られていて、一応ながら攻撃する準備はあるようだった。
正直、あんなバケモノに木の枝如きでダメージを与えられるとは到底思えなかったけど。
「って言うか、鏡使わないのかよ!?」
「この状態で、小さい手鏡を相手の顔が見えるように向けられるか!?」
「じゃあ、あの何とか言う奴!」
「ッ……『引っ張るぞ! 引っ張るぞ!』」
嶋谷が、声を張り上げてその言葉を口にする。
それは確かに、ひきこさんが苦手にしていると言う言葉―――しかし。
「だめ、ひきこさん腕を引っこ抜こうとしてるよ!」
「やっぱ無理か!」
自分で聞いといてトモは……でも、やっぱり鏡じゃないと無理なのか。晴れの日に出てきてる時点で既に逸話無視だけど!
それにこの状況だと、無理に鏡を取り出そうとしたら、バランスを崩して転んでしまいかねない。
そうなれば、その時こそ万事休すだ。起き上がっている時間など与えてもらえないだろう。
今は、とにかく逃げなければ。
「皆、ひきこさんが腕を引っこ抜いた! 来るよ!」
「よし、止まれ! ギリギリまで引き付ける!」
追いかけられている状況で立ち止まるのは危険だとは思うけれど、全員が反論も無く嶋谷の指示に従う。
私達が今いるのは、正面に生垣と広い池の見えるT字路。
突き当りの部分に差しかかり、私達は足を止めてひきこさんを待ち構えた。
振り返り、その姿を見据える。ひきこさんは横向きに、まるで蟹走りのような状態で……しかし、そうであるにもかかわらず、物凄い勢いで私達の方へと駆け抜けて来ている。
普通に考えればシュール極まりないんだけど、今の状況では紛れもなくホラーだ。
「キモッ!? つうか怖ッ!?」
「騒いでる暇は無いぞ、トモ。合図で走る……三、二、一、今だ!」
嶋谷の言葉に合わせて身構え、合図と同時に走り出す。
そんな私達の後ろを、ひきこさんは物凄い勢いで通り過ぎ、生垣に盛大に足を引っ掛け、物凄い勢いで池の方へとすっ飛んでいった。
大きな水音と、ヒメが思わず『うわぁ』と呟いているのが聞こえるが、それはとりあえず置いておく。
今の内に距離を開けておかないと、いつまでも時間稼ぎが出来る訳ではない。
桜の花びらが散っている場所は、未だに危険地帯なのだ。
「次はどうするの!?」
「相手の出方次第だ。回避優先、無理に距離を稼ごうとするなよ!」
言っている嶋谷が一番息が切れてるけど……いや、今はいい。
とにかく、逃げないと。いつひきこさんが復活してくるか―――
「っ、来たよ皆! 水から上がってきた!」
どうやら、早速来たらしい。
けど、あの格好だ。水を被れば、ある程度は機動力も落ちるはず……焼け石に水かもしれないけど、無いよりはマシだ。
公園の出口はそう遠くない。それに、嶋谷が誘導しているのは桜並木の無い道の方だ。
曲がり角も多く、例え桜の領域から外れて追って来る事が出来たとしても、逃げ回る事は難しくない。
この状況でそこまで冷静に判断出来ているのは、流石としか言いようがない。
「くそ、このタイミングか……」
小さく、嶋谷が毒づくのが聞こえてくる。
出口まで直線の場所……ここで真っ直ぐ来られたら、たとえ避けても前に回り込まれてしまう。
道を帰るか、それとも強行突破するか……選択時間は非常に短い。
私は嶋谷の指示に従うつもりだけど、どうする気―――
「賢司君、任せて!」
「っ! ……ああ、頼む!」
―――通じ合っちゃってまあ!
思わず苦笑し、私は走る速度を速めた。
先ほどの話もある、ヒメが取る方法は囮の足止めでは無い。
だからこそ、後は全力でここから離脱するだけだ。
「うおっはあああああああぁっ!?」
「トモ、うっさい!」
後ろから迫ってくる気配に対し、トモが妙な叫び声を上げる。
こいつはこれだからホラーに向かないのだ。けど、今はそれがある意味ありがたい。
ヒメの狙いが間違いなく成功するように、その緊張を解いてやらないと。
「―――」
木の棒を片手に、ヒメは意識を集中させる。
それだけで周囲は凍りついたかのように、空気がぴんと張り詰めた。
そんな中、忙しなく手足を動かして追って来るひきこさんの存在は異物のようで、私でもその気配を鮮明に感じ取れるほどに目立っていた。
私でも可能ならば、いづなさんとの修行を行っているヒメにとっては呼吸する事に等しい容易さだろう。
気配は触れるほどに近付き―――瞬間、ヒメが動いた。
「そこッ!」
「―――ッ!?」
この張り詰めた空気の中だからこそ、私もヒメが何をやったのかを理解できる。
ヒメは、その手に持っていた木の棒を、自分自身へと手を伸ばそうとして来ていたひきこさんの足の間に突っ込んだのだ。
凄まじい力を持つひきこさんは足の動きだけで棒をへし折ってしまったが、それでもバランスを崩させるには十分。
盛大にすっ転び、私達の横を通り抜けながら地面を転がってゆく。
「ナイスだヒメ! 全員、急げ!」
「応よッ!」
ひきこさんが転んでいるうちに、私達は桜のある公園から急いで抜け出してゆく。
とにかく、急いでこの場から離れなくては。いつ起き上がってくるかも分からないのだから―――そう思っていた、瞬間。
「ッ、わっ!?」
唐突に何かに足を取られ、私はバランスを保つ間もなく転倒していた。
そしてそれと同時に、思わず背筋が凍るような感覚を覚える。
何かに足を取られた? そんなモノ、考えるまでも無く一つしかないに決まっている!
「ひ、ひひひ……」
「ッ……!」
転倒の痛みに堪えながら足の方を見れば、そこに転んだまま手を伸ばして私の足首を掴んでいるひきこさんの姿がある。
拙い、と思わず言葉を失う。このままひきこさんが起き上がれば、先ほど砕け散った小学生らしき存在と同じように引き摺られてしまうのか。
先ほどから見せていた、あの速さは凄まじい。あんなスピードで引き摺られたらひとたまりも無い。
けれど振り払おうにも、彼女の膂力は金属で出来たプレートを容易く貫くほどに強いのだ。
とてもじゃないが、力で引き剥がそうとしても無理。どうすれば―――
「―――杏奈ッ!!」
―――響き渡った、嶋谷の叫び声。
瞬間、私の顔をじっと見つめていたひきこさんの目が見開かれたのが分かった。
目も裂け、口も裂け、髪で隠されていなければ到底直視できなかったであろう人相は、驚愕に彩られている。
そしてそれと同時に、私の足を掴む腕も緩んでいた。
何? この反応は、どういう事?
「杏奈ちゃんを放して!」
「ぎ……ッ!?」
私が疑問を抱いたのとほぼ同時―――ヒメの振るう脇差ほどの長さになった折れた木の棒が、ひきこさんの手首を容赦なく打ち据えた。
いっそ鮮やかと言えるほどに鋭い剣閃は、ひきこさんの手を私の足首から引き剥がし、大きく跳ね除けさせる。
振りぬいた腕は横に向き、それはそちら側―――即ち出口の方に重心が移動した事を示す。
「杏奈ちゃん!」
「っ……サンキューヒメ!」
ヒメの体が傾く。それはバランスを崩した訳ではなく、ヒメの習っているいづなさんの剣術独自の歩法だ。
剣を振るった動作の中に、次なる移動のための最初の動作を含める。
ヒメのそれはまだ完全とは言いがたいけれど、無駄なく走り出す動作に移行する事には成功していた。
そしてヒメは咄嗟に立ち上がった私の手を取り、起き上がらせると同時に出口の方へと駆け出す。
振り返る事も無く、真っ直ぐ出口―――桜の木の無い住宅街の方へ。
―――次に振り返ったとき、ひきこさんの姿は既に存在していなかった。
「ッ……は、ぁ」
それを確認して、憔悴した様子でヒメはその場に座り込む。
今まで抑えていた恐怖が湧き上がってきたのか、或いは先ほどひきこさんの犠牲になったと思われるあの遺体の事を思っているのか。
どちらにしろ、私としてもかなり疲れてしまっていた。
ヒメにかける言葉どころか、私自身も疲れ果て、近くの壁を背にずるずると腰を下ろす。
「疲れた……ハードね、この部活」
「いや、だから……こんな都市伝説は俺も初めてだって」
膝に手を当てて荒い息を吐き出している嶋谷は、汗を拭いながらそう口にする。
無駄に元気そうなのは、体力バカであるトモぐらいなものだ。
まあ、そのトモとて、今この状況で無駄口を叩くほど空気が読めない訳ではないようだけど。
と、何とか息を整えた嶋谷が顔を挙げ―――私達の姿に対し、きょとんと目を見開いて見せた。
「あれ……?」
「……何よ、嶋谷。今は冗談は受け付けて無いわよ」
「ああ、いや。あの時は切迫してて気付いてなかったが……誰も返り血を浴びていないのか?」
「え? あ―――」
言われて、私は自分の姿を見下ろす。
茶色っぽいブレザーを始め、その下のワイシャツも、チェック柄のスカートも……どこにも、先ほど砕け散った遺体から飛び出たであろう血はかかっていない。
それは私だけでなく、ヒメやトモ、嶋谷も同じだった。
「どういう事……?」
「……仮説になるが、多分あの死体もひきこさんの都市伝説の一部だったんだろう。ひきこさんはお気に入りの死体を引き摺って出かけるらしいからな」
「あ……そ、そうなんだ」
「つまり、俺達の事をそのお気に入り以上に気に入ったって事か」
何か、トモが上手い事言ったみたいな感じのドヤ顔をしてるけど……正直洒落になってない。
けどまあ、ヒメもさっきのが本物の犠牲者ではなかったと知って、ほっとしているようだった。
……思い出したら気持ち悪くなる事に変わりは無いけど。
「けど……嶋谷、これって拙いんじゃないの?」
「そうだな。これで、ひきこさんが晴れの日でも出没するなんて噂になってしまったら、それこそ手がつけられない」
「でも賢司君、これからどうするの?」
「とりあえず、先輩と相談だろう」
一度大きく息を吐き、嶋谷は身体を起こす。
これからどうなるのかは分からない……けど、最早引き返せない所まで足を踏み入れてしまった事は、何となく理解できてしまっていた。