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78:心の奥底で












 漂ってくる若干甘みを含んだ匂いは、私にとっては馴染みの深いものであるともいえた。

数年前までは、一日に一度は嗅いでいた匂い。

あの頃は不良だったトモが、どこからか手に入れて吸っていた煙草の匂いだった。

その匂いが漂ってくる方向へと視線を向ければ――あまり労せず、その姿を見つける事に成功する。

木の後ろから僅かながらに覗いている肩と、漂う煙。特に隠れる木もなかったのだろう、トモは私が声をかけるとすぐにそこから姿を現した。



「まあ、たまにはな」



 どこか苦笑するような色を交えた、その声音。

それは、昔のトモと同じ……普段とは違う、至って真面目なものだった。

別に、トモの普段の態度が偽りだというわけではないのだろう。

トモは本心から笑って、本心から楽しんでる。けれど、その一部が道化じみたものである事は、私たち全員が気付いていた。

全てはヒメを護るため――不良になったのも、いつも馬鹿らしい事をしてるのも、こいつはヒメのために頑張ってるのだ。

だからヒメも、必死にそれに応えようとする。必要以上に心配を掛けずに済むように、ただ強くなろうと。


 そして、私は――



「それで、どういう風の吹き回し? 今更、そんな昔みたいに気取っちゃって」

「ひでぇ言い草だな。ま、それもお前らしいけどよ」



 トモの口調は、すっかり以前通りだ。

正直私としてはこっちの方が疲れないのは確かなんだけど、今となってはどうにも調子が狂ってしまう。

すっかり、あの馬鹿らしい態度に慣れてしまったという事だろう。


 トモはゆっくりと私のほうに歩み寄り、互いに逆の方向を見るような形で隣に並ぶ。

近くなった煙草の匂いに私が顔をしかめた事に気付いたか、トモは胸ポケットから携帯灰皿を取り出すと、そこに銜えていた煙草を押し込んだ。


 ――しばし、沈黙が流れる。


 会話はなかったけれど、決して嫌いな空気と言う訳ではなかった。

流れている穏やかな空気に虚空を見上げ、息を吐き出し――そこで、トモの声が響いた。



「俺はよ、杏奈。お前に、感謝してるんだぜ?」

「何よ、改まって?」

「分かってるだろ、ヒメの事だよ」



 分かっていた、トモがそう口にする事は。

けれど、私の肩はそれでも、ピクリと反応してしまっていた。

そんな自分が、どうにも悔しい。けれどそれをあえて見ない振りをしながら、トモは話を続けてきた。



「ヒメがあの事に気づけたのはお前のおかげだ。賢司の奴がそれを口にする訳には行かなかったし、俺もそんな事は教えてやれなかった。お前だからこそ、なんだ」

「ッ……そう、かもしれないけど。でも、それだってミナさんにお尻叩いてもらわなかったら、きっと踏み込めなかったわ」

「けど、お前は放置したままにはしようとしなかっただろ?」

「そりゃ、ね」



 私も、決着を着けたかった。

それなのにいつまでもうじうじと悩んでいたから、無駄に時間がかかってしまったのだ。

ミナさんがああしてくれた事……私は感謝している。きっと、私にとって必要な事だったと思うから。

思わず、小さく苦笑を零してしまう。



「けど、アンタとしてはあれでいいの? 大事な妹、取られちゃうわよ?」

「今更何を言ってんだよ。そんな事、賢司が入院してた頃から分かってたっつーの」

「まあ、ねぇ。兄離れ姉離れしたのはあの時が最初だったかしら」

「お前が姉ってのもどうかと思うが、まあそんな所だ」



 時には、ヒメは私たちを置いてでも嶋谷の所へと向かっていた。

あんな姿を見てしまえば、それを覚悟する事だって当然と言えば当然だろう。

そう、最初からこうなる事なんて、とっくの昔に覚悟していた事なのだ。

踏み込めなかったのは、私が臆病だっただけ。



「――なあ、杏奈。お前に謝るのは筋違いだし、お前に対して失礼な事だってのも分かってる。けど、一言謝らせてくれねぇか」

「……何よ? 一体、どういう事?」

「賢司が退院する日……お前らが来る前、俺はあいつに言ってたんだよ。『ヒメが自分で気付くまで、待っていてくれねぇか』ってな」



 その言葉に――私は、思わず息を飲んでいた。

いろいろな事が衝撃的過ぎて、言葉を失ってしまっていたのだ。

トモの奴がしっかり私の内心に気付いていたのもそうだし、そんな約束をしていた事だって気づかなかった。

ああ、なるほど、それで私に対して失礼だって事か。



「……アンタが謝るのなんて、筋違いじゃない」

「ああ、そうだな。こいつは単なる自己満足だ……悪いとは思ってる。けど、あの時俺は『何に』とも言わなかったが……賢司の視野を狭めちまったのは、紛れも無く俺なんだからよ」



 自己嫌悪でも感じているのか――深い溜息を吐き出しながら、トモはゆっくりと虚空を見上げる。

そんな反応をされては、こちらも答えづらいと言うのに。



「トモじゃなかったらぶん殴ってるわよ」

「普段だったら遠慮なくやってるだろ?」

「ええ。だから卑怯だって言ってんのよ……ホント、ずるいわよ」



 こういう時に限って、昔のように振舞って。

それがこいつなりの誠意だって事も分かってるから、余計に口が出せないのだ。

本当に、ずるい。ずるいけど――こいつの気持ちは、痛いほどによく分かるから。



「ま、ここまで言ったんだ……最後まではっきり行くさ」



 そう口にして、トモは私に対して向き直る。

浮かべている表情は、ここ何年か見なかったほどに真面目なもので――だから、私も正面からその視線を受け止めた。

軽い気持ちで、この言葉を受け止めるわけには行かない。

私たちは、友達だから。だからこそ、その言葉を軽視したりする事はない。

どれだけ残酷な事を、口にしたとしても。



「俺が最も優先するのはヒメだ。お前とヒメを天秤に掛けたら、俺は迷わずヒメを選ぶ。俺はあいつの兄貴だ……それだけは、どうしても違える訳には行かない」

「ええ、分かってる。分かってるわよ。あんたが私を応援できない事なんて、ずっと前から分かってた」



 だからこそ、口は出さなかったんだろう。

私に対してもヒメに対しても、絶対に口出しする事はなかった。

ヒメをひいきするならもっと出来ただろう、そうすれば、もっと単純に終わっていたかもしれない。

けれどトモは静観する方を選んだのだ。それが私を苦しませる事を理解していても、私に後悔させないために。

本当に不器用で、けれどもこいつなりに私たちの友情を大切に思ってくれていたのだ。

ヒメを優先して、それでも私の事を蔑ろにしない――それが、トモの結論だったのだろう。



「それに、さ――」



 少しだけ、声が震える。

それを必死に押さえ込みながら、私はそれでもトモの真っ直ぐな視線から目を離さなかった。



「ここで横から入っていくなんて、それこそ馬鹿みたいじゃない」



 こいつの前では偽れない。

この視線の前では、私も取り繕う事なんて出来ない。


 だから――私は、必死に被ってきた仮面を外した



「確かに、私は賢司・・が好きだよ。お兄ちゃんがいなくなった時、私を支えてくれたあの時から惹かれてた」



 私は日常を何より大切だと思っているから。

私の日常の一部分であるお兄ちゃんがいなくなった時、本当に強いショックを受けてしまった。

そんなとき、私を助けてくれたのは仲間の皆で――



『――あの人は必ず帰ってくる。穴埋めになんかならないのは分かってるけど、俺たちが誠人さんの分までお前を助けるから』



 ――私の事を理解してくれているあの言葉が、私にとっては何よりも嬉しいものだった。

けれど、同時に気付いてしまったのだ。護られるという立場になったその瞬間、ヒメの気持ちと、あの時ヒメに護られていた賢司の気持ちが。

思いを抱いたその瞬間に、私は敗北を悟ってしまったのだ。



「あの二人、本当に不器用で……特にヒメの方、なんか……壊滅的だし。もしかしたら奪えるんじゃないかとか、考えもした」



 少しだけ、言葉が詰まる。

嗚咽にも似たその言葉を、どこか他人事のように思いながらも、私は言葉を止めようとは思わなかった。



「でも、それでも出来なかった……やりたく、なかった……!」



 想いを抱いたのが遅すぎた。それはきっと、単なる言い訳だろう。

私の本心なんて、とっくの昔から分かっていた。


 ――大好きなのだ。



「私はっ、ヒメの事も、賢司の事も……ッ、同じぐらい、好きだったから……ッ!」



 ヒメも、賢司も、トモだってそうだ。私にとって大切な日常の一部。

私が何よりも愛する大切な一瞬、それを私にくれる大切な仲間。

そんな皆に、私は順位を着けるような事はしたくなかった。賢司だけを特別だと、そう思いたくなかった。

私は全部が大切で、全部が捨てきれなくて、今の日常が崩れ去ってしまうのが怖くて――酷く、臆病だった。

これが私の本質。変化を恐れる臆病な子供。そんな自分をただ必死に隠して、今までこうしてやってきた。

けど、今はそんな自分の思いも無視できず――感情が、溢れる。



「あの子の気持ち、は……ずっと、昔からあったのにっ! 私が臆病だったから!」



 ヒメを空回りさせ続けたのも、賢司をずっと待たせ続けたのも、トモを悩ませ続けたのも――全部、私なんだ。

そんな自分が嫌で、情けなくて、私はただ泣き叫ぶ。

もっと早く諦める事ができていれば、こんな事にはならなかったのに――



「私は――」

「――もういい」



 ただ、意味も無く喚こうと顔を上げて――私の視界は、大きな手のひらによって覆い隠された。

トモのかざした右手、それが私の視界をすべて覆い尽くしていたのだ。

それによって額を押さえられた私は視覚も頭の動きも抑えられ、思わず呆然と硬直する。

そんな私の耳には、ただ低く抑えられたトモの声が届いていた。



「もう、いいんだ。杏奈、もういいんだよ」

「私、私は……ッ」



 言葉にならない嗚咽がこぼれる。

私は今、情けない顔をしている事だろう。

臆病で、取捨選択も出来なくて、今この瞬間ですら自分にけじめをつけられていない。

そんな自分が、何よりも許せないから。



「誰が悪いとか、そういう話じゃねぇんだ。俺は、お前を犠牲にしてどうこうしようとかは全く思えないんだよ」

「でも……ッ!」

「誰かの責任なんて、問いたくねぇんだよ。これまでの事に目ぇ向けて後悔したって、仕方ねぇだろうが」



 視界は依然塞がれたまま。私には、トモがどんな表情を浮かべているのかが分からない。

どうすれば、いいのだろう。思考はぐちゃぐちゃとして纏まらない。

唯一つだけ強迫観念としてあるのは、自分に決着を着けなければならないという意志だ。


 そう――まだ、終わりではない。


 ヒメの背中を押した。先に進むべき場所を示した。けど、それで終わりじゃないんだ。

私自身が、私の気持ちとの決着を着けないと――私だけが、取り残されてしまう。

前に進めない、それだけは嫌だ。だから――



「前に、進まないと……」

「やれるのか、杏奈?」

「ぐす……やるわ、やるわよ。やるしかないんだから」



 このまま賢司への思いを抱え続けていたら、私はヒメの親友でいられなくなってしまう。

ずっとずっと、あの二人が近づくほどに傷ついて、自分からこの大切な日常に背を向ける事になってしまう。

それだけは、絶対に嫌だから。



「私なりに……決着を着ける。だから、見ていて」

「ああ……分かった。見てるさ、目を離さない。だから、頑張れ」



 私の顔から、手が離れる。

ようやく開けた視界の中、トモは私に向けて淡い笑みを浮かべていた。

それはとても優しく、慈しむような視線で、少しだけ居心地の悪さを感じてしまう。

けれど、その優しさは私にとっても嬉しいものだった。



「……ねえ、トモ」

「なんだよ、杏奈? 俺に惚れたか?」

「そこで茶化すからモテないのよアンタは……言いたいのはありがとう、よ。アンタが私の友達で、本当によかった」



 そう告げて、私は小さく笑う。

戦う勇気だけあればいい。後はそれを実行する機会だけだ。

まあ、それぐらいは何とかしよう。それぐらい、自分で何とか出来なくてはならないのだ。

私は、前に進まないといけないのだから。



「さて、覚悟を決めないとね――」



 強い思いとともに、自分に言い聞かせるように、私はそう口にしていたのだった。





















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