67:最奥
真っ直ぐ正面、その視線の先にある姿に、姫乃は思わず息を飲む。
青と黒の着物を纏った、白髪交じりの女性。黒い髪は未だ残っているものの、その身の細さは完全に老婆のものだ。
しかしながら、その細身から放たれる圧迫感は、今まで姫乃が出会ってきた怪異とも引けを取らぬほどの密度であった。
思わず後ずさりしそうになる足を叱咤し、怪異の姿から目を離さないように身構える。
『やれやれ……余計な鼠の多い事多い事。そこな娘一人を狙った筈が、斯様に面倒な事になろうとはのぅ』
「……!」
自分一人が狙われていた――その事実に、姫乃は驚愕を覚えると共に安堵していた。
自分が狙われているのであれば、杏奈が狙われる事は少なくなる。
反射的に働いた思考は、ただそんな感想のみを叩き出していたのだ。
そして冷静に動いた部分は、相手が理性的な言葉を発した事に対して警戒心を抱く。
老獪な存在、そういった印象をまず与えてきた怪異、『隠れ婆』。その佇まいは、姫乃に強い警戒を抱かせるに足る存在だったのだ。
「……理性は、あるんだね」
『おや、出会った化生は皆畜生の類であったか。それと混同しているようではあまり長くも持たぬか』
「ここに来るまで一度として触れる事すら出来なかったくせにか。よく言うものだな、隠れ婆」
『そういうお主は、そこな娘の力が無ければ辿り着く事すら危うかったであろうに……よく吠えるものじゃのぅ』
「さあ、どうだろうな。あんたがそう思っているのならそうかもしれないが」
隠れ婆の侮蔑とも挑発とも取れる言葉に対し、しかし浩介は薄い笑みを浮かべながらそう答える。
少なくとも、その言葉が事実であるか虚勢であるかの判別が付けられないほどには力強く。
そんな浩介の姿に対し、隠れ婆は眉根を寄せる。
気に入らない――まるで、そう言うかのように。
『ひひひ……鼠の分際で粋がりおる』
「窮鼠猫を噛む、って言葉を知らないみたいだな。まあこんな山奥に引きこもっているんじゃ、学が無いのも当然か」
「市ヶ谷さん、あまり挑発するのは……」
「いや、大丈夫だ」
浩介は決して、感情に任せて言葉を発しているのではない。
理性がある怪異が相手であれば、ある程度の言葉は通じる。そこから、浩介は相手の攻撃が僅かながらでも己に向く事を期待していたのだ。
理性を持たない本能のみの怪異であれば完全に逸話に縛られたまま行動するが、理性を持つ怪異ならば、ある程度はその意思に従って行動する事ができる。
本来の噂を完全に逸脱する事は出来ないが、その範囲であればある程度の無視や拡大解釈は可能なのだ。
怪異は非常に強力な存在であり、例え姫乃が怪異に対する有効な攻撃手段を持っていたとしても、攻撃を喰らってしまえばそれで終わりだ。
しかも姫乃の攻撃手段は木刀による斬撃であり、相手に接近しない限りは攻撃を当てられない。
接近までにどれほどの危険がある川からない以上、少しでも彼女の負担を減らす事が必要だと浩介は判断したのだ。
『ひひっ……ならば見せてみると良い。その娘は主殿への供物ゆえ……貴様は我が喰ろうてくれようぞ』
「主……? 私を、供物って……?」
「上役のようなものがいるって事だろう……そいつに、君の油を差し出すって訳だ。隠れ婆の性質って事だろう」
訝しげに表情を歪める姫乃に、浩介は相手に聞こえぬよう小声でそう伝える。
とはいえ、後半部分に関しては完全に口からでまかせである。
姫乃のみがあらゆる怪異から狙われているという事実を覆い隠すための言葉。
浩介は下手な発言をする訳にはいかないと辟易しつつも気を引き締め、隠れ婆の事を睨みつけていた。
「主と言ったな。そいつが、お前たちのような存在を生み出している根本か」
『さてのぅ。わしは学が無い故、難しい事は知らんよ。ひひひ』
「……」
先ほどの言葉を逆手に取られた発言に、浩介は思わず舌打ちをする。
それだけの老獪さに、怪異としての力を持つ相手。
厄介極まりない存在ではあるが、ここまで来て退く訳にもいかなかった。
と言うよりも、退いた所で問題は解決などしない。怪異を倒し、異界から抜け出さねば、根本的な解決とはならないのだから。
「主、主か……」
ぎり、と浩介は歯を食いしばる。
揺らめく強い怒りが、まるで形となって現れるかのように。
しかしその瞳に浮かんでいたものは、どこか悲しみにも近い感情であった。
「ふざけるなよ、本当に……っ、何で、そんな風になってるんだよ」
「い、市ヶ谷さん……?」
「篠澤さん、悪いがそっちのフォローは難しい。一人で何とかできるか?」
「は、はい。そちらも大丈夫ですか?」
「ああ、汎用的な品ではあるが、対策はしてある」
「分かりました。それでは――」
行きます、という言葉は置き去りにされ、姫乃の足元が爆ぜた。
直立姿勢から急に体勢を落とし、そのまま一瞬で全力疾走の体勢に移行していたのだ。
その急激な加速に、相手はおろか至近距離にいた浩介までもが、一瞬姫乃の姿を見失う。
『小癪な――』
対し、隠れ婆は目を細める。
そしてそれと同時に、周囲にはざわめくような気配が急速に広がって行った。
それは無数のささやき声のようであり、葉擦れのようにも聞こえる音。
瞬間――周囲から、無数の腕が現れた。一つ一つが簡単に人間を握り潰せる膂力を持つそれらは、一斉に姫乃へと向かってゆく。
「篠澤さんッ!」
『おっと、お主の相手はそちらじゃよ』
「ッ――――!」
姫乃の援護に駆け寄ろうとした浩介は、その言葉に足を止める。
それと同時に身体を屈め――次の瞬間、彼の頭があった場所を、一本の腕が通り過ぎていた。
感じた風圧に舌打ちし、浩介は持っているラジオの音量を最大限に引き上げる。
人の声とも判別できないような無数の情報が放たれた腕を至近距離で直撃する――が、それだけでその腕が消える事はなかった。
(やはり、本体に近い場所では効果が薄いか……!)
浩介は、内心でそう呟いて舌打ちする。
ラジオより放たれる音は確かに効果を及ぼしており、姫乃に襲い掛かっている腕たちもその動きを大きく鈍らせている。
しかし、その力だけで一網打尽にするという訳には行かなくなってしまっていた。
本体に近いが故に、それだけ力の密度が濃くなってしまっているのだ。
「面倒だな……っ!」
しかし、その言葉とは裏腹に、浩介の顔に浮かんでいたのは不敵な笑みであった。
ラジオを左手に持ち替え、右手はコートの中へと突っ込む。
そして、そこから浩介が引き抜いたのは、一本の木の棒。
浩介はそれを、頭上の腕へと躊躇う事無く突き刺した。
刹那――
『ぐ、ぅ……貴様、それは!』
「神社でお祓いしてもらった破魔矢だよ! 妖怪には効くだろう!」
隠れ婆の苦悶の声と共に、腕が消滅する。
それを見届け、浩介は右手に破魔矢を持ったまま身構えた。
怪異は一般大衆の認識によって作り上げられた存在である。
その認識の下に成り立っているが故に、弱点というものは人々の認識の中にあると言っても過言ではない。
そして、今回現れた怪異は妖怪としての認識の上に作り上げられた存在だ。
妖怪には、都市伝説のようにそれぞれに対する対処法や弱点が伝えられている場合が少ない。
しかし、一般に『妖怪』という存在全般に対して、ある弱点が存在すると認識されているのだ。
「東洋でも西洋でも変わらない。妖怪は神の神聖なる力によって祓われる。お前が妖怪である限り、その弱点は変わらない!」
『おのれ、小童が……!』
「そっちばっかり見ていると――」
ぞん、と腕が飛ぶ。
木刀を振るい、障害となる敵を斬り崩したのは姫乃。
地面すれすれを飛んでいるのではないかと勘違いしてしまうほどに前傾姿勢で突っ込んで行く彼女のスピードは、常人では考えられぬほどに速い。
しかしその瞳は、一切ぶれる事無く正面の敵へと向けられていた。
その木刀は既に、得意であり必殺である一撃の型に整えられている。
「無拍――辻祓」
放たれる横薙ぎの一閃。
一瞬の容赦すらなく相手の首を刎ねようと襲い掛かった木刀は――寸前で差し込まれた棒によって受け止められた。
「ッ……!」
『あまり舐めてくれるな!』
純粋な力の勝負では、姫乃には万に一つも可能性など無い。
故に、押し合いなどせずに姫乃は後方へと跳躍した。
そのまま伸びてくる腕を斬り払いつつ、再び油断なく構える。
(受け止められた……まだ、無拍子には届かないの?)
己の剣が未だ仰いだ領域に届かぬ事を歯がゆく思いつつも、姫乃は相手を冷静に観察する。
隠れ婆が持ち出したのは、先端に刃のついた長い木の棒。槍ではなく、薙刀と呼ばれる武器であった。
異界の内部にあったものであればいかなる物でも容赦なく斬り裂いていた己の攻撃が通じなかった事を受け止めながら、しかし迂闊に近寄る事も出来ずに、姫乃は僅かに奥噛みする。
(きっと、現実世界から持ち込まれたものなんだ……怪異なら斬れるけど、現実の物は斬れない……)
それが、姫乃が得ていた結論だった。
彼女も己の力に疑問を持ち、そして幾度か検証した結果、あらゆる物を斬る力は異界の中でのみ効果を発していたのだ。
姫乃は己の力の正体を知らない。けれど、これは現実には影響しないのだと、そう理解していた。
――本当に?
「――ッ!」
『喰らえぃ!』
振り下ろされた薙刀を、姫乃は柄を打ち据える事で逸らし、さらに体重移動を行う事により、姫乃は相手の側面に回り込む。
が、振り回される柄によって近づくことができず、姫乃は更に地を蹴って移動する。
伸ばされる腕を斬り払い、地を削るようにしながら振り返り――再び、声が響く。
――お前はそれを、本当に理解したのか?
炎のように揺らめく声が、何処からか響く。
姫乃はそれに、何故か銀の輝きを幻視した。
銀の炎は、揺らめきながら嗤う――
――あの男が使うより、遥かに高度なそれを?
「あの、男――」
ふと、姫乃は浩介へと視線を向ける。
具体的には、彼が手に持っているラジオへと。
あのラジオの持っていた力は、即ち――
『どこを見ておる!』
「篠澤さんッ!」
――二つの声が重なり、はっと姫乃は目を見開く。
その瞬間には、隠れ婆の薙刀は既に振り下ろされ――
パァン!
――力強い音が、響き渡った。
* * * * *
ヒメが呆然と振り下ろされる薙刀を見上げている姿を見た私は、無我夢中で拍手を打っていた。
力強く音が響き渡り――そして、僅かながらに怪異の動きが硬直する。
私が隠れ婆に対抗するためにヒサルキから聞いたのは、一つの対処法とも呼べるものだった。
一般大衆の認識を利用した攻撃。そして、今回の相手は妖怪だ。ならば――
「掛まくも畏き 伊邪那岐大神――」
音で正気に返ったヒメが、一瞬動きの鈍った怪異の隙を突いて武器を払い、退避する。
それを見届けた私は、携帯に付いている鈴のストラップを鳴らし、言葉を続けた。
妖怪なら――神道のお祓いは、苦手でしょう!
「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓へ給ひし時に成り座せる祓戸の大神等」
りん、りんと鈴が鳴る。
拍手と鈴の音は、澱みを祓う清廉なる波動。
今の世の中、漫画や小説かなんかで、多くの人々が妖怪を穢れたものだと認識しているだろう。
それ故に、祓詞は妖怪にとって毒になる筈だ。
確証は無かったけれど――でも、確かに効いている!
「諸々の禍事 罪 穢有らむをば 祓へ給ひ 清め給へと白す事を――」
『ぐ、がァ……おのれ、小娘ェ……ッ!!』
「おっと、やらせないよクソババア。お前は素直に、ここで消えておけ」
『ふざけるな! 新参の、怪異風情が――』
向かってくる腕は、ヒサルキが防いでくれる。
だから私は、ただ祈りを込めて……神よ聞き届けてくださいと、願いながら詞を発する。
こんな穢れに、私の日常を穢させないで下さいと。
「――聞食せと 恐み恐みも白す!!」
――リィン!
強く、強く、詞と鈴の音が響き渡る。
穢れを許さない、私の日常に触れるな――その強い思いと共に放たれた音は、隠れ婆という妖怪の怪異の身を、確かに薄れさせた。
そして――
「はぁあああああッ!!」
振り下ろされたヒメの木刀が、持っていた薙刀ごと、その怪異の身体を真っ二つに斬り裂いたのだった。




