61:分断された者たち
――笹原梓は、目の前の光景に思わず己の目を疑っていた。
木刀の包みを背負ったまま網から飛び降りた姫乃と、そこに必死で駆け込んで行った杏奈。
その二人が衝突するかと思われた瞬間、欠片も残さず二人の姿は消え去っていたのだ。
それが一体どういう事なのか、この場で理解できるものは梓を除いて他に存在しなかった。
「まさか、もう来るなんて……!」
杏奈から話を聞いていた以上、怪異が現れる可能性が高い事は分かっていた。
その怪異が現れたとき、そのままこの世界で相手をする事になるのか、それとも異界に引きずり込まれる事になるのか、そこまでは分かっていなかったが。
けれどどちらのパターンに関しても予測はつけて、ある程度の対策を練っていたつもりだったのだ。
しかし、それでも覚悟が決まっているかどうかと聞かれれば梓にとっては別問題であり――
「杏奈、ヒメちゃん!?」
「何だ、二人はどこへ……!?」
そして訳を知らない者たちへの説明も、梓にとっては荷が重いものだったのだ。
杏奈が想定していたのは、この場にいる全員が怪異に巻き込まれてしまった場合のパターン。
それならば実例が目の前に存在するためある程度説明しやすいだろうと踏んでいたのだ。
けれど、こうして杏奈と姫乃のみが怪異に巻き込まれた場合のパターンは想定していなかった。
そんな余裕が存在しなかった、と言うのが正直な所であろうが。
が、どちらにしろ、残された梓からすれば堪ったものではない。
(ど、どうしよう……)
動揺に、梓は視線を右往左往させる。
幸いその姿は杏奈と姫乃の二人の姿を探しているようにも見え、他から見ていても違和感を覚えるようなものではなかったが。
そして無論の事ながら、周囲にその二人の姿は存在しない。
異界に取り込まれてしまった以上、そう簡単に外へと出てくる事は叶わないだろう。
その事だけは、かつて異界に囚われた経験のある梓にもしっかりと理解できていた。
そして、中にいる二人が無事であるかどうか――それは、誰にも分からない。
「どう、すれば――」
「おい、梓っ!」
――瞬間、梓は響き渡った声に思わず息を飲んでいた。
動揺に伏せていた視線を上げれば、そこにいたのはまっすぐに視線を向けてくる相場省吾の姿。
彼はこの状況にもかかわらず真っ直ぐに梓へと視線を向けると、そのままつかつかと彼女の方へ近づいた。
彼の話し声が残る二人に聞こえない程度に絞られていたのは、梓にとっては多少意外であったが。
「これって、アレじゃないのか? この間俺たちが巻き込まれたような……」
「う、うん。そうだけど……でも、私には何も出来なくて……」
「落ち着け、そんなのはここにいる誰だって同じだ。お前が多少知ってるからって、何でも出来るとは思ってねぇよ」
その言葉に、梓は思わず目を見開いていた。
彼の思いがけぬ冷静さに関してもそうだが、その言葉に一つだけ閃く物があった為だ。
そう、この場にいる誰もが、怪異に関しては知識が足りていない。
ならばどうすればいいか――そんなものは自明の理だ。
「分かる人に、相談しないと……」
「ああ。あの二人への説明は俺の方でやっとくから、心当たりがあるならお前はそっちを当たってくれ」
「う、うん!」
思わず昔のような調子で返事をしつつも、梓はすぐさま携帯を取り出していた。
まずこの事に関して知識を持っていそうな人間――それに関して思いつくのはたった一人だけだ。
杏奈曰く専門家の人が近くに来てはいるらしいが、現状電話番号を知っている人間は彼女しかいない。
電話帳のページめくりすらもどかしく感じながらも、梓はその電話番号を呼び出し、コールを始める。
数にして3コール。携帯電話としては比較的早い方であろう呼び出し音も、今の梓にとっては永遠のように長く感じるものであった。
しかし、それの後に、求めていた返答は確かに発せられる。
『はいはーい。珍しいお相手から電話が来たね。こちら怪異調査部部長、テリアさんだよー』
「あ、あの、先輩っ! 二人が、その、異界に……!」
『――落ち着いて、梓ちゃん』
梓の言葉を聞いた瞬間、電話の向こう側にいるテリアの声は、瞬時に低いトーンへと変化していた。
その声音に、梓は思わず息を飲む。背筋が寒くなるほどの冷酷な感情がこめられたそれには、梓に冷静さを取り戻させるだけの響きを持っていたのだ。
そしてそんな声音のまま、テリアは梓に対して問いかける。
『まず、状況は? 君が電話できているって事は、君は異界に巻き込まれていないんだよね?』
「は、はい。たぶん、巻き込まれたのは杏奈ちゃんとヒメちゃんだけです。目の前で消えちゃったから、確かな事は言えませんけど……」
『ふむ。まあほぼ確定だと見ていいだろう。それで、他に気づいた事はない?』
「ほ、他に? えっと……その、二人が消える一瞬前に、人影が見えた気が……」
『人影か……その姿はお婆さんだった?』
「え? ええと……そう言われると、そんな気もします。細かったし、小柄だったし……」
それだけの特徴では子供と言う可能性も否めない。が、この状況で言えば、それは老婆で間違いないだろう。
梓は自身の発言に確信を持てずにいながらも、僅かながらにそう考えていた。
一応ながら、今回の怪異に関しては杏奈から多少話を聞いていたのだ。
今回の怪異は、老婆の姿をした神隠しの妖怪である、と。
そしてその話を聞き、テリアはしばし沈黙した後に声を上げた。
『……了解した。おそらくワタシの想像は殆ど間違っていないんだろう。どうにしても厄介な事態だけどね』
「あの、大丈夫でしょうか……」
『何とかするよ。それしかない……といっても、今こっちにいるワタシが何か出来るわけじゃないけど。でも、今そっちには怪異の専門家がいる。これは不幸中の幸いだよ』
「あ、確か……市ヶ谷さん、でしたっけ?」
『そうだよ。こちらからコースケに緊急事態だって連絡を入れとく。君たちは、その場を動かないで待っていて。そして、彼の指示に従うように。ワタシから言える事はそれぐらいだ』
普段とあまり変わらぬ声音に戻し、テリアは梓にそう伝える。
けれどその内側には、隠しきれぬ苛立ちのようなものが渦を巻いていた。
それを僅かながらに感じ取り、梓は思わず息を飲む。
それは、無力感とも呼ぶべきものだろうか。遠く離れた場所にいるために力になれない、その苛立ちは――梓にも、多少ながら理解できるものであった。
何故なら今この瞬間、梓には杏奈や姫乃を助ける手段が存在していないのだから。
「その、先輩……」
『大丈夫』
けれど、そんな感情を抱きながらも、テリアの声に淀みという物は存在していなかった。
それは言うなれば、信頼と呼ぶべきものだろう。
テリアは、一部の隙すらなく、市ヶ谷浩介の事を信頼していたのだ。
彼ならば必ず二人の事を助けてくれると、絶大なる信頼の下に確信していた。
『コースケなら二人の事を必ず助けてくれる。だから、今はそこで待っていて』
「は、はい……!」
そしてその力強い言葉に、梓もまた幾分か冷静さを取り戻す。
それほどまでに強い確信に満ちた言葉は、それだけの説得力を持つものだったのだ。
『うん。それじゃあ、私はコースケに連絡する。現在位置は?』
「あ、えっと……姫の沢公園の、アスレチックコースの途中です。もしかしたら杏奈ちゃんがもう場所を知らせていたかもしれませんけど……」
『それはそれで好都合だね。もう近くにいるかもしれない。急がせるから、少しだけ待っててね。それじゃ!』
ぷつりと通話が途切れ、梓は思わず詰めていた息を吐き出した。
単純に先輩と相対していた故の緊張とは違う、嫌な感じの緊張感。
今の状況は、決していいとは言えぬ物であったが故に、梓は多少なりとも状況が進展した事に安堵を覚えていたのだ。
自らの力だけで何かが出来る訳ではない。それでも、間接的ながら何かをする事が出来た。
無力感を紛らわせるだけの自己満足だとしても、少しでも何かをしておきたかったのだ。
と――そこに、少々大きな声がかかった。
「梓っ!」
「あ……深琴ちゃん、えっと――」
「杏奈たちが怪異とか言うのに掴まったってホント!?」
その言葉に、梓は思わず目を見開く。
そしてすぐさま視線を省吾の方へと向ければ、彼は悪びれる様子もなく、まっすぐと視線を向けながら声を上げた、
「全部説明した。つっても、俺が覚えてる事は基本ぐらいだけどな」
「相場君、怪異の事をおいそれと人に話しちゃ――」
「普段はそうかもしれないが、今は緊急事態だろ! それに、同じ班の仲間だ。隠したままになんてしておけない」
そう言い放つ省吾の目はひたすらに愚直であり、それ故に梓は思わず言葉を詰まらせてしまっていた。
確かに一理あると、この状況で誤魔化しきれるものではないと、梓もそう思ってしまった為に。
しかしながら、梓にとって見れば、怪異とは恐怖の象徴でしかない存在だ。
杏奈が持つ日記帳のように、危険ではない怪異の存在も知ってはいる。
けれど、その認識を塗りつぶして余りあるほどに、学校の七不思議は危険な存在だったのだ。
故にこそ――
「怪異は……私たちに何とかできるものじゃない。ヒメちゃんみたいに強い人でもなきゃ太刀打ちできないような、危険な存在なんだよ。何も知らないのに首を突っ込ませるなんて、そんな危険な事させられないでしょう!?」
――梓の抱く思いもまた、一つ理にかなった事であった。
弱い人間に出来る事など何もない。いればいるだけ、何か出来る人間の邪魔になる。
今この場で異界の中に足を踏み入れる事が出来たとして、一体自分に何が出来るのか。
「何も出来ない……むざむざ殺されるだけでしょう!? 安易に関わらせるなんて、出来るはずない!」
「お前は俺たちの保護者か! それを決めるのはこの二人だろうが!」
省吾の言葉に、梓は唇を噛む。
分かっている――自分は臆病なだけだ、と。
自分が逃げたい理由を二人に求めているだけなのだと、それを自覚してしまっている。
けれど二人を案じている事もまた事実であり、様々な感情が交じり合った末の葛藤を抱いていたのだ。
それ故にどうしたらよいか分からず、梓は混乱のままに顔を俯かせる。
と――そこに、件の二人の声がかかった。
「梓、あたしたちの事なら大丈夫だから」
「そこまで気に病まないでください、笹原さん」
「え……」
「まあ普段突っ走ってるから信用無いかもしれないけどさ。梓がそこまで心配してるんだもん、だから無茶はしない」
「俺たちには俺たちに出来る事を。まあ、いま少し話を聞いた程度では、出来る事なんて殆ど思いつかないですけど」
顔を上げた梓の視界に映ったのは、どこか苦笑にも似た表情を浮かべる深琴と悠斗。
二人の言葉は――梓にとっては意外なものの――自分たちの力量を鑑みたものであった。
しかしながら、それはある意味当然の事であると言える。
常に競い合っているからこそ、二人は自身と互いの力量と言うものをしっかりと把握しているのだ。
それ故に、無理なものは無理であると判断できる。ある種、二人らしい信頼の仕方であると言えた。
「まあとにかく。現状を一番把握してるのは梓でしょ。梓から見て、私たちは何が出来ると思う?」
「この場合、『何をすべきか』ではなく『何が出来るか』と言う事で。挙げた中からどうするか決めましょう」
「え……っと」
二人の予想外の言葉に若干混乱しながらも、梓は己の中で考えをまとめる。
完全に落ち着きを取り戻す事に成功した訳ではないが――それでも、いくつかの考えをまとめる事には成功した。
「まず、ここで待つ事。これから怪異に関する専門家の人がここに来てくれるらしいので、その人の力を借りれば……」
「へぇ。けど、それってこのまま何もしないで待つって事か?」
動かなければ落ち着かないのか、省吾は若干そわそわした様子でそう問いかける。
そんな彼の言葉に対して、梓は小さく頷きながら続けた。
「うん。実際、私たちが怪異に対して出来る事なんて何もないと思う……でも、二人が戻ってきた時の事を考えてフォローしてあげる事ぐらいなら出来ると思うから」
「二人の、フォロー?」
「とりあえず、突然いなくなっちゃった事が分からないようにした方がいいと思う。先生に聞かれても誤魔化さないと」
「成程、確かに……例の専門家の人と話したら、人目を避けた場所に行った方がいいでしょう」
「二人とも、集合時間までに戻ってきて欲しいわね、こりゃ」
小さく嘆息と友に深琴が零した言葉に、残る三人は内心で同意していた。
流石に、いなくなった事を追求されても本当の事を話す訳にはいかないのだ。
仮に話したとしても、信用されるとは全く思えない。
と、そこで省吾が小さく笑みを浮かべながら声を上げた。
「ま、そん時ゃ盛大に遅れてやるかね。山の中で迷ってた事にしてさ」
そんな彼の言葉に、深琴と悠斗は揃って言葉を失う。
そして互いに視線を合わせて嘆息すると、深琴は彼に対して小さく笑みを浮かべた。
「あんた、普段からそうしてりゃあ受けもいいでしょうに」
「え? どういう事だ?」
「分かんないでいいわよ。あんたは馬鹿なぐらいがちょうどいいから」
「何でこの流れで馬鹿にされるんだ俺!?」
分かっていない様子の省吾に、今度は三人がまとめて笑みを零す。
そんな空気の中、梓は僅かながらに安堵を抱いていた。
自分にも、少しであろうと出来る事があると言う事に対して。
故に、いつまでも俯いている訳には行かない。そう決心して梓は顔を上げる。
――その視界に、翻るベージュのコートが映っていた。




