55:釣り所にて
私は、ひたすら何かに集中することが得意だ。
いや、これは集中と呼ぶべきなのかどうなのかはよく分からないけど、とにかく雑念を払い、一心に一つの事へと意識を向ける事が得意なのだ。
巫女神楽を舞う時なんかがこれに当たる。ただ無心で、己が舞と魂を神へと奉げる……その時には余計な事を考える意識など存在しない。
お兄ちゃんが言うには、俗に言うトランス状態なのではないか、という事だった。
まあつまり、何が言いたいかというと――
「んっ、と。よし、五匹目」
「わぁ……杏奈ちゃんすごいね、私まだ一匹しか釣れてないのに」
私の隣で釣り糸を垂らすヒメが歓声を上げる。
要するに、私は釣りとの相性が非常に良かったという事だ。
餌を付け、釣り糸を投げ込み、そして魚が食いつく瞬間にただひたすら集中する。
後は、魚が引っかかった瞬間に糸を引いてやるだけだ。
まあ、引っかかるまでに多少動かしたり、引く時の力加減の云々もあったりするけれど、その辺は臨機応変にやって何とかなっている。
本職の人には遠く及ばないだろうけれど、それなりに上達してきている自負はあった。
「くっそぉ、何であんなに釣れてるんだよ!?」
「あんまり騒ぐと魚が逃げるよ……相場君、ちょっと餌付けるのやって」
「お、おう」
梓の方は、何だかんだで仲良くやっているようだった。
まあ実際のところ、この間の事は若干のしこりとして残ってはいるようだけれど、結局仲が悪いという訳じゃない。
以前の時よりも梓が強くなった、ただそれだけの事なのだろうか。
相場にとっては、完全に見限られなくて良かった、と言った所だろう。
同じ班の中でギスギスされても困るし、仲良くしてくれる分にはいいのだけれど。
そして、残る二人はというと。
「よっし、三匹目!」
「くっ、そんな小さいのを釣り上げてどうするんだ! リリースだろリリース、釣りのマナーを知らんのか!」
「ふふーん、いいわよー、きっちりと釣った記録には残るんだからねー」
「くっ、勝ち誇るにはまだ早いぞ! 精々一匹差、すぐに追いつく……いや、追い越してみせる」
「あはははっ、なら差を広げてやろうじゃないの!」
何と言うかまあ、いつも通りだった。
一応公共の場だし、周囲に他の人たちもいるからか、声は多少絞られてはいるんだけれども。
まあそれでも、いつヒートアップして声が大きくなるかは分かったものじゃない。
下手をすれば素潜りして魚を捕まえてくるとかアホな事を言い出しかねないから、きちんと見張っておかないと。
「……いや、流石にそれは無いか」
「ん? 杏奈ちゃん、どうかしたの?」
「いや、何でもないわよ」
小さく苦笑を零して、私は再び釣竿に集中する。
実際の所ここまで集中する必要は無いんだろうけど、何となく癖のようなものになっていた。
何かにひたすら打ち込む事でしか、自分を誤魔化せなかったあの頃――その名残のようで、少しだけ嫌な感じではあったけれど。
「――ふぅ」
小さく息を吐き出し、意識を切り替える。
周囲の事を認識し始めると、途端に雑念が増えてしまうのは仕方ない事だろう。
けれど、釣りは考え事をするのにもそれなりに適しているようだ。
だから今は、もう一つの事にも意識を向ける。
そう――先輩からもたらされた、あの情報に。
「この近辺での失踪者、かぁ」
先輩から送られてきた写真に写っていたのは、二十代前半ほどであると思われるスーツを着た女性だった。
相変わらず、どこからそんなものを仕入れてきたのかと子一時間問い詰めたい所ではあったけれど、それよりも今は情報の方が重要である。
失踪した女性の名は、柿本恵。
経歴にはなんら不審な点は無い、普通のOLさんだった。
それがどうして突然失踪したのか、その辺りの事は全く判明していない。
怪異が関わっているのであれば、それも当然だとは思うけれど。
もしもこれにヒサルキが関わっているのであれば、非常に厄介な事態だろう。
しかし、ヒサルキの存在はもうほぼ確定していると言っても過言ではない。
条件が揃い過ぎている……お膳立てされていたのではないかと疑ってしまうほどに。
けれど、私としては、積極的にこれに関わるつもりは無い。
必要なのは、事件を解決する事ではなく、極力関わらない事だ。
もしも命に関わる怪異だったら多少は悩んだかもしれないけれど、ヒサルキは人の命を奪う事はない……と、思う。
怪異の事だから確信を持って言える訳ではないけれど、それでも怪異は噂話を逸脱した行動は取らない筈だ。
(確信を持って言えないのは、仕方ないといえば仕方ないんだけど)
一番最初のひきこさんの事もあり、あまり断言できないのが困りものだが。
あの時の事は、未だに恐怖として残っている。まあ、正直な所怖くなかった怪異なんて黒猫の時ぐらいしかないのだけれど。
怪異って言うのは、本当に多種多様だ。日記帳や黒猫みたいに害が無いどころか愛嬌まであるものから、学校の七不思議なんて凶悪極まりないものまで存在している。
今回の怪異が一体どんなものなのか、それは実際に相対しなければ分からないだろう。
正直な所、分からないままでも全く構わないのだけど。
「さてと……ヒメ、終了時間まで後どれくらい?」
「んー……もうちょっとだね。後一匹ぐらいは釣りたいなぁ」
「そっか。まあ、時間になったら先生の号令が来るでしょ」
ヒメも集中力という点じゃ私に負けていないとは思う。
けれど、ヒメの場合はちょっと敏感すぎるのだ。
釣具をまるで刀を握るように持ち、そして浮きが少しでも反応した瞬間に持ち上げてしまう。
本来ならもっと食いつくまで待つものなんだろうし、ヒメもそれを分かってはいるようだったけど、最早反射的な行動らしい。
しっかり修行できているようで何よりというべきなのか、それとも不器用になってしまっている事を注意すべきなのか。
まあ、本人はやる気みたいだし、それに何だかんだで楽しんでいるようだから、別に口を挟む必要も無いか。
そう思いながら小さく息を吐き出し、私はふと後方へと視線を向けた。
「……ん?」
そこに見えたのは、この釣り班を引率している先生の姿だ。
一瞬、撤収を告げるためにやってきたのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。
先生は、携帯で何やら話をしているようだった。
何だか酷く困惑している様子で、何があったのかと私は思わず首を傾げる。
もしかしたら、何かあったのだろうか?
「……やめとこ、縁起でもない」
小さく嘆息して、私は視線を再び浮きの方へと戻す。
状況の判断も出来ない内から悪い方向にばかり考えていても仕方ないだろう。
確か、この後の予定は釣った魚をみんなで食べた後、歴史資料館に行って、それからフィールドワーク的な感じで班のみんなで色々な所を回るんだったか。
ヒサルキの事は気になるけれど、どっちかといえば原因が分からない山の方の失踪事件も注意しなくては。
まあ、あっちの方に行く事はないから大丈夫だとは思うけど。
「杏奈ちゃん、引いてるよ?」
「わ、っと……」
考え事をしていた所に隣から声をかけられて、私は思わず釣り竿を思いっきり引っ張ってしまう。
しかしどうやらまだ魚は完全に食いついていたわけではなかったのか、今回は逃がしてしまった。
思わず、嘆息を零してしまう。
「ヒメ、あんたの判断はやっぱり早いわ」
「うう、そうなのかなぁ……でも、今のは杏奈ちゃんだってボーっとしてたよね? あのままだときっと逃がしちゃってたよ?」
「それに関しちゃノーコメント」
「あ、ずるいよ杏奈ちゃん!?」
殆ど釣れてないヒメにそこまで言われるのも癪だったので、ちょっとした意趣返しをしてから私はリールを巻いてゆく。
さすがに、今からセットをして再び投げ込んだとしても、魚が引っかかるほどの時間は取れないだろう。
最後の一投がこれというのもちょっと悔しいけれど、こういう時はすっぱり諦めるのが一番だ。
あんまりこだわってもいい事はないし、それにこの後はお楽しみの昼食だ。
どんな料理になってくるのか、楽しみで仕方ない。
「ほら、ヒメも早めに諦めたほうがいいんじゃないの~?」
「杏奈ちゃん、そこまでお昼ご飯楽しみにしなくても……それに、私も負けっぱなしという訳には行かないのです」
「いや、負けっぱなしって言うか、数じゃどうあがいても無理でしょうに」
一回入れたら複数釣れるタイプの釣具じゃないし、一回で四匹釣り上げるのは流石に無理だ。
それにそもそも、ヒメはそういうタイプのものを使ったとしても、一匹かかった程度で引っ張り上げてしまいそうだ。
そんな事を考えながら半眼を向けるけれど、ヒメはそれにムッと口を引き結んで答える。
どうやら、私の評価はご不満だったらしい。
「いいの! 私の気持ち的な問題なの!」
「はいはい。まあ、いつまでも粘ってるんだったら、私がヒメの分のお昼も食べてあげるから問題ないわ」
「ずるいっ! 杏奈ちゃん意地悪!」
「私は昔からこうよ」
昔からヒメに対する態度を変えた事はない。
私はいつも通りというものが大好きだから。変わらない日常というものが好きだから。
だから、私からヒメに対するスタンスを変えるような事はそうそう無いだろう。
いつだってこうして、気楽に付き合えるような私であり続けたい。
だから――
「ほらほら、頑張ってみなさいな」
「うう、本当に意地悪……もう、こうなったら大物を釣り上げて見せるからね!」
「あはは、期待しないで待ってるわよ」
――私は、この日々を脅かすものが来ない事を、必死に祈っていたのだった。
* * * * *
海岸の砂浜を歩く一人の男性。
もう夏場も近いというのに、暑がる様子もなくベージュのコートを纏うのは他でもない、市ヶ谷浩介その人だった。
彼は遠方に視線を向けたまま、ただ無言で波に触れるか触れないかの距離を歩く。
と――ふとそこで、彼は誰もいないはずの虚空へと向けて声を上げた。
「……こんな所まで付いて来ているのか。大概暇人だな、そっちも」
『いやいや、約束なんだから仕方ないだろう。あんたの願いは叶えてやらなきゃならないからな』
その場には誰の姿もない。
けれど、そこには彼の言葉に返答する声が存在していた。
どこから響いているのかも定かではないその声に、浩介は小さく苦笑を零す。
「案外律儀なんだな、そっちも」
『まあ、あんたが心変わりしてくれるのを期待していない訳じゃないからな。あんたは中々面白い人間だし』
「冗談を言うなよ。俺みたいな奴があんたたちと同じようになっちまったら、どれだけ変な事になるか分かったもんじゃない」
『ま、それは確かに言えてるかもな……俺達が人の事を言えたもんじゃないが』
交わす言葉に重苦しい響きはなく、もしもこの場に二つの声を聞く者がいたならば、あくまでも友好的な会話のように聞こえただろう。
だが、浩介の声の中には僅かながらに、隠し切れない警戒心が潜んでいる。
彼は、この声の相手に対して、完全には消しきれないほどの警戒をしていたのだ。
しかしながら、若干の信頼の色が存在する事も否めない。
(この中途半端さが、何とも俺らしいかな)
胸中でそう呟き、浩介は苦笑する。
どうしようもなく、人を信じてしまう性質なのだ。人を助け、人を救い、己のような人間を生み出したくないと歩み続ける。
そのような性質を持つからこそ、この声のような存在を引き寄せてしまった訳なのだが――
「善ではないが、悪でもない……か」
『俺の事か?』
「いや、他の全てかもな」
完全なる善性や完全なる悪性は存在しない。
それは当然であり、この声の主はその最たる例であるといえるだろう。
ただ自分の目的の為に浩介に目を付け、利用しようとしている。
そこに他者の意思など関係がない、単なる自己満足であると――この声の主はそう主張するのだから。
『まあ、あんたみたいな『善人』の方が珍しいのは確かだろうな』
「嘆かわしい事にな」
『本気でそんな事なんて思ってないだろ?』
図星を突かれ、浩介は再び苦笑する。
――ああ全く、嘆かわしいなどとは露ほども思っていない。自分のような人間は、自分ひとりで十分なのだ。
そんな思いを抱きながら、浩介はただ淡々と歩を進める。
「期待してもらってる所悪いが、俺はずっとこのままだ。無意味に戦って、無意味に死ぬ。ただそれだけが俺だ……だから、精々願いを叶えてくれよ」
『ああ、約束は違えないさ。精々足掻いてくれ』
愚かだとも、惜しいとも言わない。
声の主はその結末になど興味が無いと言うように、ただ淡々と沿う口にしていた。
それを受けて、浩介は僅かながらに笑みの形を変える。
苦笑から、どこか自嘲じみたものへと。
「ああ、足掻くよ。足掻き続けるさ。それが人間だ……たとえ無駄な引き伸ばしであったとしても、な」
浩介は、そう呟いて顔を上げる。
その視線の先にあるのは、埠頭となっている海岸線。
広い海を一望できるその場所には、一人――海を眺め続ける女性の姿があったのだった。




