43:墜落
「―――はぁ」
窓に無理矢理引き寄せられてゆくような力が霧散し、それと同時に『窓の外の少年』の姿も消え去る。
ここまで来て、私はようやく一息ついていた。
ミスの許されない綱渡りばかり……私の役目の部分は、特に失敗の出来ない場所だった。
私とヒメ、二人がミスしていれば、私達は窓の外に放り出されていたのかもしれないのだから。
そう思うと、今更ながら身体に震えが走る。
「……意外と、何とかなるものね」
床に落ちた刃を拾い上げ、私は小さく嘆息する。
これで血でも付いていたらどうしたものかと思ったけど、どうやらそういったものは何も付着していないようだ。
とりあえず、これで内容が伝えられている六つの七不思議は攻略できた。
七つ目が話として存在していない以上、これで全部の筈だけど―――
「お疲れ、杏奈ちゃん」
「あ……はい、先輩も」
ぽんと肩を叩かれ、びくりと身体が跳ねる。
そんな自分に過剰反応だろうと苦笑しつつ、私は先輩の方へと視線を向けた。
未だふざけた様子の無い、真面目な態度の先輩は、そんな私の言葉に小さく微笑みながら頷いてくれる。
どうやら、本気で私の事を労わってくれているようだった。
まあ、私は怪我も無いし―――
「ってそうだ、嶋谷!」
「ちょっと呆然とし過ぎだって、杏奈ちゃん。ほら、見てみ?」
「え……あ」
先ほど嶋谷が怪我をしていたかもしれない事を思い出し、そちらの方を向けば、既にヒメがあいつの所に駆け寄っている所だった。
戦い慣れているためか、ヒメは相手を倒しても特に感慨に耽る事も無く、嶋谷の事を優先させたらしい。
出遅れてしまって若干ばつが悪く、眉根を寄せながら私は嶋谷の方へと歩み寄った。
そちらでは、既に傷の手当ての方法に慣れているトモや笹原さんが、嶋谷の様子を見ている所だった。
「お疲れ、嶋谷。どんな様子なの?」
「ああ。軽く腕を切っただけだ。制服の上からだしな、それほど深い傷にはなってない。むしろ、制服を破っちまった事の方が心苦しいよ」
「それこそ、自分からこういう事に首突っ込んでるんだから、自業自得でしょ」
「違いない」
私の言葉に、嶋谷は肩を竦める。
コイツは、破れた制服やら血の付いたワイシャツを見せて、秋穂さんが心配する事を懸念しているんだろう。
まあ、まず間違いなく秋穂さんは気にする。嶋谷が何をしているのか、ある程度は知っているのかもしれないけれど、だからと言って危険を許容できると言う訳ではないだろうから。
そういう心配をされてでも活動しているのは嶋谷なのだから、その辺は自分で何とかしろ……コイツも、それぐらいは分かっている。
「……それで、笹原さん。大丈夫なの?」
「はい、傷自体はそこまで深くないんですけど……でもやっぱり、傷を押さえる何かが欲しいです。雛織さんの帯とか、貸して貰えるといいんですけど……」
「ああ、あれ。多分予備があるから、貸してくれると思うわよ」
桜さんの黒い帯も、少々特殊な物だ。
まあ、それでも桜さんならあっさり貸してくれそうだし、それほど気にしなくても大丈夫だろう。
あれ、結構便利なものだし。
「とりあえず、大丈夫なんだよね?」
「はい。出血量もそれほどではありませんし、傷口を押さえる程度でも大丈夫です。まあ、ここから出たらちゃんと手当てしないといけませんけど、応急処置程度でもしばらくは大丈夫でしょう」
「良かった……もう、心配したんだからね?」
「あ、ああ。悪い……って言うか、心配してるのはこっちもだからな?」
「どっちもどっちでしょ。トモも含め、全員無茶しがちなんだから」
『そっちも人の事言えない』
と、私の苦言に対しては三人同時に反論が帰ってくる。
まあ、それに関しては私としても反論のしようが無いので、黙っておく事にするけれど。
さて、七不思議の内、話のある六つを攻略したとは言え、全てが終わったわけではない。
これから、例の屋上に行かなければならないのだ。
何があるかも分からない場所だし、警戒するに越した事は無い。
とりあえず、嶋谷の怪我はちゃんと応急処置ぐらいはしないとダメだろう。
「桜さんを呼んでこないと……私達の事心配してるだろうし」
あの人なら幽霊使って私達の様子を見ている事ぐらいは出来るだろうけど、それでも心配は心配だろう。
桜さんからすれば、私達なんて小さい子供も同然なのだから。
そう思って廊下の向こうの方へと振り返り―――私は、目を見開いていた。
窓の手すりに手を掛けながら、桜さんがこちらの方へと歩いてきていたのだ。
右足が使えない振りをしながら不便そうに歩いてくる桜さんは、私達の様子にどこかほっとした表情を浮かべている。
どうやら、随分と心配をかけてしまったらしい。
「良かった……皆、大丈夫みたいだね」
「桜さん!」
怪我をしている振りをするのに辟易しているようではあったけど、その表情は明るい。
少しは安心できたようだ。この刃を貸してくれたお礼もしないといけないし、肩を貸しながらでも―――
―――そう思った、瞬間だった。
「―――ッ!?」
「え―――」
窓ガラスが爆ぜ割れ、その向こうから青白い手が桜さんへと向けて伸びる。
それは確かに、先ほど消滅したはずの子供の手で―――その手には、あの黒い『根っこ』が巻き付いていた。
「ッ……怪異の、癖に!?」
死んだ振りをしていたのか―――そんな言葉を飲み込み、私は駆ける。
ああそうだ、さっき『窓の外の少年』を倒したとき、あの『根っこ』の姿は無かった。
そこまではずっと、怪異が破壊されれば『根っこ』も壊されていたから油断していたのだ。
座り込んでいるヒメや嶋谷、笹原さんでは間に合わない。距離の開いているトモや先輩でも無理だ。
私が、何とかしないと―――
「くッ!」
飛んだガラスに気を取られ、桜さんもその手を回避する事が出来ず捕らえられる。
その細い腕は桜さんの首に絡みつくように回され―――その黒い『根っこ』も同時に巻きつきながら、桜さんの身体を無理矢理に窓の外へと放り出す。
桜さんは咄嗟に刃のうちのもう片方を引き抜き、それで『窓の外の少年』と『根っこ』、二つの怪異を突き刺す……桜さんが使った場合、やはり私と違うのか、二つの怪異は悲鳴を上げながら霧散し、消滅する。
けれど、その時にはもう、桜さんの身体は私が手を伸ばしても到底届かない所まで離れてしまっていた。
「桜さんッ!」
光景がスローモーションに流れてゆく。
相当強い力で引っ張られたのか、桜さんの身体は未だ滞空している状態にあった。
殆ど無意識に、私は身を乗り出して桜さんへと手を伸ばす―――けれど、到底そこへは届かなかった。
そして、桜さんは地面へと向けて墜落してゆく。
思考が絶望に凍り付こうとする、その刹那。
「ふっ!」
桜さんが、私の方へと向けて右手を振るう。
それと共に上着の袖口から飛び出してきた黒い帯が私の横―――窓の手すりの部分に巻き付き、固定された。
ある程度の余裕を持っていたそれは一瞬でビン、と張り詰め、桜さんをそれ以上の落下から防ぐ。
若干壁に叩きつけられそうな軌道になったけれど、そこはしっかりと壁に着地して勢いを殺していた。
「桜さん、大丈夫ですか!?」
「……うん、何とかね。ゴメンね、心配かけてしまって……」
「いえ、こっちこそ……ちゃんと倒せていなかったのに油断してしまって……」
「怪異が隠れようと思ったら、普通の人間に見つける事は難しいから……あの怪異は、私の排除を優先させたんだね」
小さく嘆息しながら、桜さんはそう口にする。
どうやら、『窓の外の少年』……或いは、この異界を創り上げている怪異そのものの狙いは、桜さんを排除する事だったらしい。
とは言っても、それは最終的な目標ではないと思うけれど……これまでの戦いから、怪異が桜さんを危険視していてもおかしくはないと思う。
それでも、桜さんはそう簡単にやられるほど弱くはないけれど。
「杏奈ちゃん、あのお姉さんは!?」
「何とか大丈夫です!」
私の後に駆け寄ってきた先輩が、私の隣に並びながら下を見下ろす。
そして、帯によって空中に留まっている桜さんの姿を認め、頬を引きつらせていた。
「……さっきも思ったけど、大概だね」
「これでも人間レベルに抑えてるんですが……けれど、流石にここから昇るのは難しいです」
袖口から伸びている帯を掴み、周囲を見渡している桜さんは、自分の現状に対してそう判断を下していた。
流石に、取っ掛かりの無い校舎の壁を登るのは面倒らしい。
それに、位置的にはもう地面の方が近いと思われる場所にいるし。
と、そこでようやく、嶋谷の手当てをしていた連中がこっちに近寄ってきた。
私と先輩のやり取りを見ていたためか、流石に慌てているような様子はなかったけれど。
「桜さーん、大丈夫ですか!?」
「うん……心配かけてゴメンね、姫乃ちゃん」
「ふむ……とりあえず、一旦下に降りて、そこから校舎内に戻ってくるのでどうでしょうか?」
「そう、だね。その方がいいと思う」
嶋谷の言葉に頷き、桜さんは帯を少しずつ伸ばしてするすると地面に降りてゆく。
器用なもので、桜さんは殆ど腕の力だけで地面へと下りていってしまった。
って言うか、仕組みを知らない人にはあの帯がどれだけ長いのか疑問視しそうな気がするんだけど。
とりあえず、足を怪我している事になってるんだし、誰かが迎えに行かないとダメだろう。
あの怪我でひょいひょい階段を上ってこられたら不自然すぎる。
……まあ、今更と言えば今更だと思うけど。
「桜さん、待っててください! 今迎えに行きます!」
「うん……入り口の所までは行くから、お願いね」
「無理しちゃダメっすよ!」
腕を振るって帯を器用に外した桜さんは、降ってきたヒメとトモの言葉に頷くと、足を引き摺る振りをしながら校舎の入り口の方へと歩いてゆく。
その姿を心配そうに見下ろして、ヒメたちはすぐさま身を翻し、桜さんを迎えに行こうと走り出す。
―――そして、次の瞬間。
「ッ!?」
「何、地震!?」
突如として響き渡った鳴動に、走り出していた三人のうち、脅威的なバランス感覚を持つヒメ以外は耐え切れずに転倒してしまっていた。
窓際に残っていた私や嶋谷も、咄嗟に手すりに捕まってバランスを取る。
この世界で、地震なんてありえるのか……いや、さっきもこれはあった筈だ。
そう、最初の怪異、『引きずり込む手』を倒した時と同じ―――
「怪異が、怒ってる……?」
この場における怪異とは即ち、この世界そのもの。
それが、怒りを露にしている―――私には、そう感じられた。
同時に走り抜けるのは、どうしようもないほどに強い戦慄……この世界には、最早安全な場所などどこにも無いと、そう直感してしまうほどの敵意が周囲を満たしていた。
思わず、縋るように下を、桜さんの方へと視線を向ける。
彼女は転ぶ事無く、視線を周囲に走らせて警戒しているようだった。
そんな頼もしい姿に僅かながら安堵の吐息を零し―――
「―――え?」
―――唐突に、桜さんの足元の地面が、ガラスが割れるように砕け散った。
否、そこだけじゃない……そこを中心として、中庭がどんどん崩れ去ってゆく。
崩れた穴から見えるのは何も無い、ただ漆黒の虚無。
「桜さんッ!!」
「杏奈ちゃ―――」
足掛かりになる物なんて何も無い。
桜さんは目を見開いて、私の方に手を伸ばし―――そのまま、底の見えぬ黒い穴の中へと落下していった。
まるで、黒い腕に捕まれて底なし沼に引きずり込まれるかのように。
「う、そ」
目の前の情景が信じられず、私は言葉を失ってしまう。
あの人が負けるはずが無いと……私達が怪我をしたとしても、あの人だけは絶対に大丈夫だと、そう確信していたのに。
なのに桜さんは、あの虚無の中に落下したまま、姿を見せない。
それがどうしても信じられなくて―――
「―――杏奈ッ!!」
咄嗟に感じた強い振動に、私は思わず目を見開いていた。
気がつけば、嶋谷の顔が目の前にあって……現状を理解出来ず、私は目を瞬かせる。
しかし嶋谷はそんな私の様子などお構いなしに、叩きつけるように言葉を投げかけてきた。
「崩壊が校舎まで及び始めてきている。すぐに上に上がるぞ!」
「でも、桜さんは……」
「俺達に今彼女を助ける術は無い!」
「そんな、言い方―――」
「杏奈!」
嶋谷の言葉に激昂しそうになり―――けれど、その強い言葉に息を飲む。
嶋谷は……その顔に、とても悔しそうな表情を浮かべていた。
「俺達じゃ、無理なんだ……分かってくれ、頼む」
嶋谷は―――可能な事と不可能な事を理解して、皆にとっての最善を果たそうとしている。
ああ、そうだ。コイツだって、桜さんには感謝していたのだ。
助けられないのは、助けに向かえないのはとても悔しいだろう。
けれど、今私達がすべき事は、もう誰も欠けないようにこの場所から脱出する事なのだ。
「ッ……分かっ、た」
「……すまない」
私の肩を離し、嶋谷は先輩に声をかけて全員に指示を飛ばし始める。
その背中を見つめながら……私は、強く拳を握り締めていたのだった。




