04:最初の怪異
ずり、ずり、ずり―――
ぺた、ぺた、ぺた―――
暗い夜道に、何かを引き摺るような音が響く。
何か重いものを、地面と擦り合せるように持ち歩いているかのような音。
そして、それと共に響いているのは―――
「あ、ぅああ……」
か細い、最早虫の泣く声ほどに弱々しくなっている声。
しかしそれは、確かに人間の声であった。
街灯もなく、暗闇に包まれた細い道では、それに気付けるような者など存在していなかったが。
そして僅かに響く悲哀と絶望、そして苦痛に塗れたその声も、降り注ぐ雨の音によって掻き消される。
―――流れた涙も、血の痕すらも。
「ひ、ひひっ……ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」
遠くにある街灯が、僅かな光を路地に届ける。
か細く響く悲鳴と、それを掻き消す雨の音―――その中で、壊れたカセットテープのように狂気を撒き散らす声。
そこにあったのは、おおよそ二人分の人影であった。
一人は、白い着物を纏った人影。
着物というだけで既に不自然な出で立ちではあるが、その着物も既にボロボロであり、所々が破け、血に染まっている。
その破けた穴から見える肌は、削り取られたように肉が削げ落ち、だらだらと夥しい血を流し続けていた。
髪は長く顔にかかっており、その容貌は判別しづらい。だが、もしもこの場に人が居たら、彼女自身よりもその手の先にあるものに注目していただろう。
そして、その傷だらけの手が握っているもの。それは―――
「ぅ、ぁ、ぁ……」
―――足を掴まれ地面を引き摺られる、小さな子供だったのだ。
小学生高学年ほどか、まだ幼い子供。しかしその姿は、最早どの程度の年齢であるかすら把握する事は出来なくなっていた。
長い間地面に引き摺られていたのだろう、服はすでにボロボロになり、その下の皮膚も削げ落ち、骨が見えてしまっている。
捕まれた足はよほど強い力によるものだったのか、掴んでいる場所からあらぬ方向に折れ曲がってしまっていた。
が―――地面に擦り合わされていないだけ、その状態はまだマシであったと言えるだろう。
一番酷い状態なのは、足とは反対の方面にある場所―――即ち、顔面であった。
「ぁ……」
既にか細い悲鳴すら消えかけている唇は、頬との境界が無くなるほどに擦り合わされ、原形を留めていない。
それどころか、一部は完全に削げ落ち、下の歯と歯茎が露出してしまっていた。
その傷は頬骨にまで達し、顔の左半分は既に皮膚が存在しないといっても過言では無い。
左目の目蓋は当の昔に削り落とされ、その下にあった眼球も、地面の石にでもぶつかったのか、完全に潰れてしまっている。
鼻も半ばまで削り落とされ、既に人の人相など保ってはいなかった。
しかしそれでも尚、白い着物の少女はその足を離さぬまま、雨の中を傘も差さずに歩き続ける。
「……」
削げ落ちた唇からは、ついに全ての声が消える。
男だったのか女だったのか、それすら分からなくなってしまった肉塊が事切れているのかどうか、それを判断する事が出来る者は―――
「ッ……!」
路地の影、口を手で押さえて息を殺し、未知の恐怖が過ぎ去るのをただひたすら待っている少年ただ一人だけだった。
* * * * *
いつも通りの朝の風景。
いつも通り私は朝の掃除をして、ヒメはいづなさんの修行を受けて……それから、学校へ向かう。
昨日雨が降ったおかげで桜が散ってしまったのは残念だけど、遅咲きの桜はまだ蕾のまま残ってるから、花見をする事は出来なくはないだろう。
そんな通学路で、いつもと違う様子にまず最初に気付いたのは、意外ながらもヒメであった。
「あれ……どうしたんだろう?」
「ん? どうかしたのか、ヒメ?」
ヒメの上げた声にトモが反応する。
かく言う私もヒメに言われるまで気づかなかったんだけど……何だか、通学路をちょっと横に逸れた所で、変な人溜りが出来ていた。
何だろう、警官の人っぽいのも見えるし、何か事件でもあったのかな?
そして、それに関してはどうやらトモも同意見だったらしく、興奮した様子で声を上げた。
「何か事件って奴じゃね!? 俺、あんなの初めて見るぜ!」
「まあ、そりゃしょっちゅう見るものじゃないでしょうけど……」
「あ、姉ちゃん、あれって賢兄じゃないか?」
「え?」
その言葉に私は一度誠也の方に顔を向け、それから誠也が指差していた方向を視線で辿る。
流石に離れているから分かりづらかったけど……確かに、そこには嶋谷の姿があった。
どうやら、いつもの如く好奇心を刺激されて、様子を見に行ってしまったらしい。
全くもって、あいつらしい行動だ。
「もう、遅刻しちゃうよ? 杏奈ちゃん、賢司君を呼びに行こう」
「あー、そうね。私もちょっと気になるし」
警察が封鎖するほどの事件なら、別に聞きに行かなくても噂は耳に入ってくるでしょうけど……それでも、自分の住んでる街なんだから多少は気になる。
変な凶悪犯が周囲をうろついてるとかだったら、私達も気をつけなきゃいけない訳だし。
まあともあれ、テンション高く進んでゆくトモの背中を追いかけ、私達は嶋谷へと声をかけた。
「おーい嶋谷、いつまでもこんな所にいたら遅刻するわよー」
「っと、杏奈……と、皆か。おはよう」
「うん、おはよう賢司君。こんな所で何してるの?」
ヒメの言葉に嶋谷は曖昧に頷き、人だかりの先―――黄色いテープによって封鎖された方向へと視線を向ける。
遠目に見えた警官の姿は本物であったようで、青っぽい制服を着た男達によって、桜を楽しむ事の出来る公園は封鎖されていた。
多くの人の所為で若干見えづらいけど、公園にある林の奥の方でブルーシートが張られ、中に鑑識だか刑事だかが出入りしているのが分かる。
どうも、本当に事件っぽいわね。しかも、これ―――
「殺人事件だそうだ……詳しい情報は入ってこないが、ある程度の事は分かってる。不謹慎だから騒ぐなよ、トモ」
「おい賢司……いくら何でも、こういう場所なら空気読むに決まってるだろ」
嶋谷の言葉にトモは半眼で声を上げる。
一応、コイツも真面目な時は真面目だからね……普段からそうしてろと言いたいけど。
とまあ、それはともかくとして。
「どうせ嶋谷の事だし、辺りの人に何か知ってるかどうか聞いて回ってたんでしょ? 何か分かったの?」
「ああ、まあそうなんだけどな……随分酷い事件らしいぞ、これ」
肩を竦め、嶋谷はもう一度視線を公園の方へと向ける。
睨むようなその表情の中にあるのは憤りか、或いは不安なのか……流石に、私にもそこまでは分からないけれど。
しかしその表情は確かに真面目で、張り詰めたものがあった。
それゆえ、私達も思わず息を飲み、表情を引き締める。
そして私達―――特にヒメの覚悟が出来た事を確認したのか、嶋谷はゆっくりと事件の事を話し始めた。
「被害者になったのは小学生ぐらいの子供……公園で犬の散歩をしていた人が発見したそうだ」
「そんな、まだ子供なのに……」
「詳しい状況は分からないし、俺がやって来た時には既に封鎖されてたからこの目で見れた訳じゃないが……死体は、随分と酷い状態だったらしい。
それこそ、直視できないほどに損壊していたそうだ」
「うわ……」
嶋谷の言葉に、私は思わず顔を顰める。
そんな事する奴の気が知れないというか……相手、子供でしょう?
小さな子供が、そこまで思い恨みを買うとはそうそう思えない。
けど、そこまで酷い状況になるほど痛めつけたって言うのは矛盾してる―――とまあ、嶋谷はそんな事を考えているんだろう。
私が思うのは精々、『そんな酷い事件がこんな近所で起こるなんて』程度の事だ。
いたいけな子供を傷つけるような奴が、私の仲間の前に現れるような事が無いように……ただ、それだけを考える。
「……そんな、酷い事をする人がいるなんて」
「ヒメ、安心しろ。そんな奴、すぐに捕まるさ」
「うん……そうだよね、お兄ちゃん」
やっぱ、ヒメには刺激が強かったかぁ……どっちにしろ耳には入ってたんだろうし、仕方ないか。
私達に出来る事は、犯人がさっさと捕まるのを祈る事だけ。
下手に手を出す事なんてしない。私達はそんなバカじゃない。
まあ……とにかく、変な事態にならないように祈っておこう。
「……そろそろ行こう、嶋谷。あんただって、下手に手を出すほどバカじゃないでしょ?」
「まあ、な。終わった事件ならまだしも、現在進行形の事件に首を突っ込んだりしないさ。俺だって、そんな凶悪犯には会いたくない」
「くれぐれもバカしないように、ってね。じゃ、行きましょ」
「って、おいおい、引っ張るなよ」
嶋谷の袖口を引っ張り、他の皆も引き連れて、私は学校へと向かって歩き出す。
折角部活が決まったのに、今日は部活禁止で早めに帰るよう指示されそうだな、なんて思いながら。
* * * * *
「ってか調査部って、顧問が白峰先生だったのね……」
「ある意味納得じゃないかなぁ。白峰先生、色々適当だから」
「ああ……部の行動の監督なんてしてなさそうね。だから怪異調査部になんかなっちゃってるのか」
昼休み、私は購買で買ったパンを手に、ヒメと一緒に調査部の部室へと向かっていた。
今日はいづなさんしか家に来なかったから、お弁当を作るほどの余裕がなかったのだ。
やろうと思えば朝ごはんついでに作る事は出来たけど、流石に私、誠也、ヒメ、トモと四人分になるので面倒臭い。
と言う訳で、恐らく今日もお弁当を持ってきてるのは嶋谷だけだろう。
あいつ、朝の仕込みついでに秋穂さんが作ってくれるからなぁ……ホント、羨ましい。
「まあ、部を紹介してくれたんだから、感謝はしてるけど……」
「ん? 杏奈ちゃん、何か言った?」
「あー、いや。何でもない何でもない。ただ、変に声をかけられずにお昼が食べられていいなーって思っただけ」
「なるほどー、そうだねー」
実にほんわかした様子で、ヒメは頷く。
ヒメもやっぱり、部活の勧誘を受けながらのお昼ご飯には辟易していたらしいわね。
これで私も、久しぶりに落ち着いた食事が出来るってモンだわ。
「しかし、『もう部活に入ったので』と言ってやった時の、あいつ等の表情は見物だったわねぇ」
「え、えっと……ちょ、ちょっと悪い気もしたんだけど……」
「何言ってんのよ。ヒメは部活に入っただけ、何も悪い事してないの。こっちは迷惑被ってたんだから、あいつ等に遠慮する必要はなし」
「う、うーん……それはまあ、そうなんだけどね。皆に期待されると、ちょっとこう……ね?」
「あー、まあ、気持ちは分からないではないけど」
皆に期待されると応えたくなってしまう、って言うのはヒメの癖のようなものだ。
優しいと言えば聞こえはいいし、甘いといえば聞こえが悪くなるけれど……私はそんな部分も含めて、ヒメの事を気に入ってる。
だからこそ、そういう部分は私がフォローしてあげないと。
人を助けたい、人を護りたい……そういう思いが人一倍強いヒメは、私達に関してだけでも無理をしがちなのだ。
あんまり、関係の無い人間にまで無茶をしてほしく無い。
……と、そんな事を考えてる間に、部室に到着してたみたいね。
「さって、と……こんにちはー」
「こんにちはー……っと、先輩?」
扉を開けると、目に入ってきたのは二人の人物の姿だった。
一人はテリア先輩。赤茶けたその髪は間違えようも無い彼女のものだ。
そして、もう一人……高校の制服を着て、ショートカットほどの髪を揺らす女子生徒。
その姿を見て、ヒメは首を傾げる。
「あ、えっと……私達以外にも、部員の方がいたんですか?」
「ああいやいや、彼女は部員じゃないよ。依頼人ってやつだね。いやー、久しぶりに大物の気配だよ。こう、股間にぎゅんぎゅん来る感じがするしね!」
「はい戯言はいいですから。えっと、席を外した方がいいですか?」
テリア先輩の言葉はスルー安定として、私はその対面に座っていた人物……高校の制服だし、先輩だと思われるその人に声をかける。
彼女はそんな私の言葉に、ちょっと複雑な表情を浮かべて見せた。
これは……ちょっと安堵と、小さく疑問。そして……不安、かな?
「スリュースさん、この子達は……」
「ああ、うちの部員だよー。新入部員ながら、中々有望そうな子達でね。こう、特に胸の辺りとかが……」
「あ、あはは。まあそれだったら、一緒に話を聞いてくれた方が嬉しいかな。調べて貰えるんだったら、結局耳には入るんだろうし」
どうやら、ちゃんとした依頼の話らしい。
しかし、ちょっと意外ね。あくまでも学生レベル、調べたいことがあっても精々悪戯レベルか、しょーもない話ばっかりだと思ってたんだけど……この先輩、どうも深刻そうな表情をしてる。
悩みなのか何なのかは分からないけど……どうも、悩んだ末にここに来たみたいな雰囲気だ。
と―――そこで、唐突にテリア先輩が私達の方に向けて声を上げた。
「あ、お昼ご飯だったら話の前に食べちゃった方がいいと思うよ」
「え……でも、依頼の話なんですよね?」
「うん、まあそうなんだけど……触りだけ聞いた感じ、これは結構大変な話だよ。先に食べちゃわないと、食欲無くなると思うけど」
言いつつ、当の本人はスティック菓子をぽりぽり摘んでいる。
まあ、この人レベルの図太さならばそれも大丈夫なのかもしれないけど……しっかし、依頼人の前でお昼を食べ始めるのもちょっと気が引ける。
そう思って依頼人の先輩の方へと視線を向けると、彼女は小さく苦笑交じりに、テリア先輩の言葉に同意した。
「うん、食べちゃっていいよ。私も直接見たわけじゃないのに、今は食欲が無いぐらいだから……ね?」
「まあ、そう言って貰えるんでしたら、お言葉に甘えますけど……」
また、何だかきな臭くなってきたわね。
こっちも部活に所属してる手前、協力はするけど……一体、どんな依頼になっているんだか。
私は思わず小さな嘆息を零しながら、サンドウィッチの包装を開いていたのだった。




