30:異界
「な、何なんですか、これ……」
私達の後ろから廊下の向こうを覗き込んだ笹原さんが、呆然とした様子で声を上げる。
とは言え、それを言いたいのはこちらだって同じだった。
何でいきなりこんな事になっているのか。私達はただ部室で普通に話していて、それから行動を開始しようとした―――ただ、それだけなのに。
「あ、杏奈ちゃん……」
「ひきこさんの時と同じ、あの異空間みたいな所……なんですか、先輩?」
「そう、だね。断定は出来ないけど、怪異の現れるステージとして創り上げられた場所―――異界。とまあ、ワタシはそう勝手に呼んでるけど、そちらのお姉さんはどうなのかな?」
ちらりと、先輩は後ろに視線を向ける。
そこに立っているのは、先ほど私達が部屋を出ようとするのを押し留めていた桜さんだ。
この人は、この空間が発生するのが感じ取れたって言う事なの?
先輩の声は僅かながらに疑惑を孕んでいる。あまり知らない相手なのだから、無理は無いだろうけど。
そんな先輩の言葉に対し、桜さんは小さく息を吐き出して、周囲に視線を走らせながら声を上げた。
「……怪異の気配なら、感じ取る事は出来ますから。専門外なのは確かですけど、それでもこれだけの気配が接近してくれば、すぐにでも感じ取れます。
正直、先ほど扉を開けなかったとしても、この部屋は飲み込まれていたでしょう」
「……インチキ霊能者って訳じゃ、ないみたいかな」
「おいおい先輩、桜さんを疑うのは止めてくれよ」
「そうです、桜さんはとってもいい人なんですから!」
先輩の言葉に対し、聞き流せなかったらしいトモとヒメが噛み付いた。
正直、すぐに人を信用してしまうこの二人の人物評なんて信用ならないものだったけれども。
でも、まあ―――桜さんなら信用していいって思うのは、私だって同じだ。
「先輩、この人は心強い味方です。例えここが強力な怪異の中だったとしても、桜さんがいれば誰一人怪我をせずにここを脱出できます……ですよね、桜さん」
「うん……貴方達の事は、私が護るよ。杏奈ちゃんは誠人さんの大事な妹なんだから、絶対に傷つけさせたりなんかしない―――」
―――誠人さんが、悲しんでしまうから。
そんな言葉が後に続くんだろうな、なんて思いつつも、私は小さく笑みを浮かべていた。
ここは一歩間違えれば命を落としてしまうような危険な場所。
もしもひきこさんの時に似たような事を体験していなければ、パニックに陥ってしまっていたかもしれない。
そうじゃなくても、十二分に危険な状況だ。無傷で切り抜けられる保証なんてどこにもなかった。
けれど、この人がいれば。
お兄ちゃんの友達で、とても強い力を持った桜さんがいれば、もしかしたら本当に全員が無傷でこの状況を切り抜けられるかもしれない。
そう信じられるほどに―――お兄ちゃんから聞いた冒険譚は、凄まじいものだったのだから。
そしてそれを知ってか知らずか、ヒメも桜さんに同調するように声を上げる。
「私だって、皆を護ります。桜さんだって同じですよ。私にも頼ってください!」
「うん、いづなさんのお弟子さんだものね。いつも誠人さんやいづなさんには助けられてきたから……何かあったら、お願いね」
「はいっ!」
桜さんの言葉に、ヒメは嬉しそうな笑顔で頷く。
まあ、皆を護れる機会があるのは、ヒメにとって喜ばしいことなんだろう。
ただ、桜さんがいる以上、そんな機会が本当にあるのかな―――などとは思ってしまうけど。
ともあれ、私達の言葉に、先輩も納得したようだった。
「ふむ……まあ、杏奈ちゃんがそこまで言う相手だったら本当に大丈夫そうだね。ワタシも、頼りにさせて貰います」
「はい……ただこちらも、怪異は素人ですから。指示や探索の判断は、そちらにお任せします。私の仕事は、危険が及んだ時ですから」
正直、そんな機会はずっと来て欲しくないものだけど……でもまあ、怪異の中にいる以上はどうしようもないか。
とりあえず桜さんも先輩に受け入れてもらった所で、パンパンと、嶋谷が手を叩いた。
そうして私達の視線を集めた所で、嶋谷は私達を見回しつつ声を上げる。
「さて、それじゃあ今後の方針を決めよう。今回は頼れる人がいるといっても、危険な事に変わりは無い。出来るだけ身長に行動すべきだ」
「んー、確かにそうだね。迂闊な行動は避けないといけない」
先輩は一度そう頷くと、私達を手で押すような仕草を見せながら、部屋の中に戻るようにと指示してきた。
とりあえずそれに従い、私達は部屋の中へと戻ってゆく。
そして一度椅子に腰掛けると、先輩は改めて声を上げた。
「では、確認するよ。現状、ワタシ達は怪異に巻き込まれている。まだ正体は不明だけど、笹原さんの件からするに、『学校の七不思議』である可能性は高いだろうね」
「七不思議の中には致死性のあるものも多い。今回は、この間の猫とは違ってかなり危険だ」
「となると、身を護る手段が欲しいわね」
そんな私の言葉に、ヒメがキラキラと目を輝かせる。
その様子に、思わず半眼を浮かべながら嘆息してしまった。
「ヒメ、今は木刀は無いでしょう。しかも大立ち回り出来るような怪異かどうかも分からないわよ?」
「あう……で、でも、剣道部の部室なら竹刀とか置いてあると思うんだけど……」
「ふむ、それは確かにそうだね。積極的に戦う手段を取るべきではないけど、いざと言う時の為の自衛の手段はあるべきだ」
先輩の言葉に、私は口元に手を当てて黙考する。
確かに、先輩の言う事にも一理ある。私としてはヒメを矢面に立たせたくないのだけれど、例え武器があろうと無かろうと、ヒメは危険があれば真っ先に飛び出して行きそうだ。
それだったら、武器を持っていてくれた方がまだ安全なのかもしれない。
「じゃあ、まずは剣道部の部室に向かって武器の調達か?」
「あまり気は進まないが……まあ、そうだな。トモ、お前も持てよ?」
「ああ、ヒメにばかり危険な事はさせられねぇよ」
トモも今は真面目な用で何より。
桜さんが何も言ってこない辺り、一応そのぐらいならフォローできる範囲だという事だろうか。
まあ、それなら多少は安心できる。そう易々と皆に危険が及ぶ事は無いだろう。
「さて、次に向かう場所だけど―――」
「あ、あの……」
「はい、笹原さん意見どうぞ」
「い、意見というほどの事じゃないんですけど……私達の教室は、調べに行くんでしょうか?」
と、そうだった。元々は、その為に部室を出て行こうとしてたんだった。
相場の机を調べ、そこに何らかの手がかりが残されているのかどうかを調べる。
確定では無いけれど、彼が今回の怪異に関わっている可能性は非常に高いのだ。
当ては少ない。少しでも手がかりを得られるかもしれないのならば、行動するべきだろう。
そして、どうやら先輩も同じような考えらしかった。
「そうだね。現状手がかりは少ない訳だし、少しでも情報は手に入れないと」
「……剣道部の部室に向かい、その後中学棟の教室へ。現状の流れはこれです。とりあえず、これで行動しますか?」
「うん。賢司君、非常用のリュックは何処にやったかな?」
「棚の下の段ですけど……残ってるのかな?」
若干眉根を寄せながら、嶋谷は立ち上がって後ろにあった本棚の下の引き戸を開ける。
そこには、一つのリュックサックが収められていた。
いや、リュックサックと言うには少々小さい。精々ナップザックと言う程度だろう。
それを引きずり出した嶋谷は、若干胡散臭そうな表情を浮かべながらも先輩へと渡す。
「ありましたけど……大丈夫なんですか、これ?」
「えーと……ん、中身は揃ってるね。これなら大丈夫だよ」
「いや、法的な意味ですけど」
「何入ってんのよそれ」
嶋谷の言葉に、私は思わず反射的にツッコミを入れてしまう。
前々から胡散臭いとは思っていたけど、一体何をやってるんだ、この先輩は。
しかしながらそんな私達の言葉を華麗にスルーし、先輩はそれを背負って立ち上がる。
「さてと、それじゃあ出発しようか。まずは剣道部の部室だよ」
「えっと……部室はこの階にあります。案内とかは大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫大丈夫。結構近いしね。流石にご近所の事ぐらいは知ってるよ」
頷き、先輩は私達を先導するように扉へ向かう。
その背中を見てから、私は一度桜さんの方へと視線を向ける。
どうやら、今回は扉を開けるのを止めるつもりは無いみたいだった。
その先に危険は無いのだろうと判断して、私も先輩に続く。
後ろに皆が続いている気配を感じ取りながら、私は潜行する先輩へと向けて声をかけた。
「そんなあっさりと行って大丈夫なんですか?」
「うん。この辺りには七不思議は無いからね。学校を徘徊するパターンのも存在しないし、問題は無いよ」
「……って言うか今更ですけど、七不思議については教えてくれないんですか?」
「あー……六つもあるからね。いっぺんに詳しく語っても覚えきれないだろうし、もしも七不思議を回る事になったら、その都度説明していくよ」
まあ、それに関しては私としてもありがたい。
あんまりいっぺんに伝えられても、覚えられる自信が無かったのだ。
って言うか、むしろ何でこの人はそんな益体も無い話を暗記しているのだろうか。
「と、はい到着」
「って、本当に近いですね」
廊下一つ通り過ぎる前に、先輩は剣道部の部室に到着していた。
部室の広さはその部活の規模に応じて変化するけれど、どれもそれほど大差ないと思う。
まあ、剣道部は一応有名な運動部ではあるし、それなりの広さの部屋を与えられてはいるのだが。
「ご開帳ーって、ありゃ」
「部長、あんまり先行しないでください……って、鍵かかってたんですか」
「うーん、そうみたいだねぇ」
「鍵は守衛さんの所に行かないと無いですけど……」
正直、この怪異の空間内を余計に歩き回るのは避けたい所だ。
かと言って、無理矢理ぶち破るのもどうかとは思う。現実世界にどんな影響があるのか分からないのだ。
そんな私達の様子を見かねたのか、桜さんが前に出ようとして―――先輩が、ごそごそとナップザックの中から何かを取り出した。
「じゃーん」
「先輩? 何ですか、それ?」
「え? ピッキングツールだけど」
……うん、この人なんで捕まらないんだろう。
いやまあ、それが持ってるだけで捕まる類のブツなのかどうかは私は知らないけど、少なくとも真っ当な方法で手に入れた代物では無いだろう。
以前集めていた事件に関する情報とか、この人は本当に何処からそういうものを集めてくるのか。
唖然としている笹原さんを尻目に、先輩は小さな袋の中から取り出した細い棒二本を手に、カチャカチャと鍵穴を弄り始める。
そして、しばし―――時間にして一分もかかっていないだろう、先輩が手を捻ると、剣道部の部室の鍵はあっさりと回り、がちゃりと音を立てて開いてしまった。
「……ねぇ、嶋谷」
「何も言うな、助かってるのは事実なんだから」
「いやまあ、そうなんだけどさ」
状況を理解してるのかしてないのか、単純に感心している篠澤兄妹は置いておくとして。
私は今見た光景を見なかったことにしながら、ヒメたちに続くようにして嘆息交じりに部室の中へと入っていった。
途端、すえた臭いが鼻につく。運動部特有の汗臭い臭いに顔を顰めながらも、私はぐるりと視線をめぐらせた。
竹刀が立てかけてある傘立てみたいな物は部屋の右奥にある。
そこに群がるヒメとトモの姿に、私は思わず苦笑をこぼしていた。
「……大丈夫、まだ、余裕はある」
小さく、誰にも聞こえないように一人ごちる。
何だかんだで、多少参っているのかもしれないけど……それでも、一人じゃないことが、私に心の余裕を与えていた。
と―――私の肩を、隣に立っていた桜さんがぽんと叩く。
「あ……」
桜さんは何も言わなかったけれど、それでも僅かながらに優しく微笑んでくれた。
その表情に勇気付けられて、私も小さく頷き返す。
……うん、大丈夫だ。
「さて、二人とも準備オッケーかな? それじゃ、出発するよー」
そして、そんな先輩の言葉に従い、私達は中学棟の方へと向かって行ったのだった。




