19:『人面猫』の噂
「……『人面猫』、ねぇ」
テリア先輩は、僅かながらに目を細めてそう口にする。
その言葉の中には、どこか猜疑的な色が含まれていた。
少し珍しいその表情に、私は思わず首を傾げる。
「先輩、どうかしたんですか? もしかして聞いた事の無い都市伝説だったとか?」
「うん、まあそうだけど、予想は出来るよ。杏奈ちゃんも、『人面犬』ぐらいは知ってるでしょ?
要するにそれの猫バージョン、亜種みたいなものなんだろうね。どの程度人面犬と似通ってるのかは知らないけど」
肩を竦め、テリア先輩はそう口にする。
亜種と聞くと、この間のひきこさんの件を思い出す。『ひきこさん』という都市伝説自体、『口裂け女』の亜種みたいなものだと先輩は語っていたのだ。
今回の都市伝説もそういう感じのものなんだろうと思うけど……それがどうかしたのだろうか。
そんな私の疑問に答えるように、テリア先輩は亜理紗先輩へと向けて声を上げた。
「一応聞くけど……ここに持ってきたという事は、既に怪異となっている可能性があると言う事だよね?」
「ええ。既に目撃談がいくつか持ち寄られているから……と言っても、便宜上『人面猫』という名前にしているだけだけれどね」
「と言うと?」
微妙なニュアンスが気になったのか、テリア先輩は茶化す事無く先を促す。
やっぱり、この人は都市伝説の事に関しては非常に真面目なようだ。
その理由の一端は、この間見る事が出来たような気はするけれど。
テリア先輩の言葉を受け、亜理紗先輩はアリスの方へと視線を向ける。
それを受けてアリスは小さく頷き、再びメモ帳の中へと視線を落とした。
……流石に、二度ネタをやるつもりは無いようだ。
「えっと、実際は、人の顔をした猫の目撃談なんて上がっていなくて……ただ、人の言葉を喋った猫の話が噂されてるの」
「人語を喋る猫?」
「そーなのよ。証言は主に飲食店関連、残飯を漁ってる猫を追い払ったら、『放っといてくれ』と言い残して去って行った、と言う噂が流れてるのさ」
「ああ、成程。それで人面犬と関連付けられた訳か」
納得した様子で頷きながら、テリア先輩はそう口にする。
しかし私の方は如何してそういう結論に達したのか分からず、思わず首を傾げていた。
喋っただけで如何して人面犬と一緒にされるのか。いや、猫が喋ってる時点で十分異常なんだけど。
と―――そんな時、隣に座っていたヒメが、どこか得意げな表情で声を上げた。
「杏奈ちゃん、残飯を漁っている所を追い払われた時に喋るって言うのは、人面犬の逸話と全く同じなんだよ」
「え、そうなの?」
「うん。人面犬は人の顔をしていたとか、山道を車で走っている時に物凄いスピードで駆け抜けて行ったとか、そういう話が伝わっていて……それ自体が害を及ぼす事はあんまり無いみたい。まあ、車の話の方はそれで事故に遭っちゃったって聞くけど」
「おー、姫乃ちゃん予習してきたんだね。感心感心」
ヒメの言葉に先輩は感心した様子で頷く。
かく言う私も同じだった。ヒメが真面目なのは知ってるし、予習してきたであろう事も分かっていたけど、ここまで色々勉強してきていたとは。
……まあ、比較的怖くない話を捜して片っ端から読んでたのかもしれないけど。
そしてそんなヒメの話を引き継ぐように、先輩は声を上げる。
「昔から、犬の怪異よりも猫の怪異の方が多いのは確かだね。妖怪なんかも、パッと思いつくのは猫の方だ。
尻尾が二股に分かれていたり、開けた襖を自分で閉めて行ったら化け猫になっているとか、そういう話。
発情期の猫の鳴き声が人間の赤ん坊の声に聞こえるって言うのも、そういうのの一因かもしれないね」
前半はともかく後半は私にも覚えがあり、納得して小さく頷いた。
ああいう時の猫の鳴き声は本当に五月蝿いし、注意して聞いていても人間なのか動物なのかの区別が付きづらい。
まあ、私の場合は近所が遠いから、聞こえてきたらまず間違いなく猫なんだろうけれども。
「エジプトなんかでも猫は神聖な動物とされているし……割と怪異に近い存在なのは確かだね。けど、それが喋ったとなるとまた話は面倒になる」
「……人面犬の噂が猫に当て嵌められているなんていう噂は、あまり聞いた事が無いから……ですか?」
「そう。都市伝説が怪異と化すには、それだけ多く噂されていないといけない。『本当にあるのではないか』と思わせるだけの信憑性がなくてはならない」
怪異は人の認識から生まれる。それは、この間のひきこさんの件でも十分に聞かされていた話だ。
それはつまり、逆に言えば、人々の認識が無ければ怪異は生まれないと言う事。
その人々の認識が存在しているかどうか分からないというのに、何故人面猫などという怪異が発生したのか。
「今まで聞いた事の無いような話が、いきなり怪異として実体を得るとは考えづらい。何か別の噂から発生した存在が人面犬の枠に当て嵌められたのか……まだ詳しい事は分からない。
けど、これは何て言うか……煙から火が生まれて、そこからまた別の煙が生まれているような、そんな印象を受けるね」
「相変わらず、その辺りは凄いね。これだけの情報で、よくそこまで考察できるものだと思う」
「まあ、それが仕事みたいなものだからね」
感心した様子の亜理紗先輩に、テリア先輩は胸を張る様子も無く小さな笑みを浮かべる。
しかしまぁ……別の噂、ねぇ。何か、変な噂でも流れているんだろうか。
猫が喋るなんて、一体どういう話ならそんな―――
「……あ」
「ん? 杏奈ちゃん、どうかしたの?」
「ヒメ……いや、ちょっと思い出した事があって」
皆で『コンチェルト』に行って、市ヶ谷さんや葵ちゃんと出会って……その日、パーティをした時の事。
市ヶ谷さんに言われた日記の事で頭がいっぱいだったからつい忘れていたけれど……あの時、確か秋穂さんは―――
「先輩、その猫が喋ったって言う話ですけど」
「うん、それがどうかした?」
「秋穂さんもそれに会ったって言ってたような……」
「……それ、本当?」
先輩の声のトーンが下がる。
どうやら、いつも以上に真面目なモードに入ってしまったらしい。
先輩にとっても秋穂さんは恩人で、自分の雇い主であるのだから、それが怪異に関わっているとなれば真面目になるのも当然か。
私だって、あの人が危険な目に遭うかもしれない可能性があるのなら、それを何としてでも排除するつもりだ。
そしてそれは、ヒメだって同じだろう。
「そうか、あの時……でも、コースケが近くにいる怪異に気付かなかったなんて」
「あの人、そんな能力持ってるんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんだけどね。ただ単に、怪異に対して鼻が利くって言うだけ……ああ、でも杏奈ちゃんの日記には反応してたんだっけ」
「ええ……そっちに気を取られていた所為なんですかね?」
「そうかもしれないね。まあ、話を聞ける相手がいるのならば十分だ」
今回はそれほど実害のある都市伝説という訳でもなく、更に誰が目撃しているのかどうかも知っている。
それに解決しなければならないって訳でも無いし……調べて問題無さそうだったら放置してもいいんだろう。
まだ安心できる訳じゃないけど、少なくともこの間のような命の危険を感じる事は無いだろう。
ともあれ、どう動くのかはテリア先輩の指示次第。そう考えながら私は先輩に視線を向ける。
―――と、そこで唐突にアリスが声を上げた。
「ちょいとちょいと」
「ん? 何、どうかしたの?」
彼女の視線は私の方を向いている。
何故私に声をかけてきたのか分からず、私は思わず首を傾げていた。
正直、理由が見当たらないのだ。アリスはそんな私の疑問に答えるように、ぴょこんと癖っ毛を揺らしながら声を上げる。
「日記って何の事なのさ?」
「え、あ、あー……」
地獄耳と言うか抜け目が無いというか……この子、さっきの先輩の言葉をしっかりと拾っていたらしい。
油断していた事もあって、私は彼女の言葉に対して咄嗟に誤魔化す事が出来なかった。
そして、そんな風に言葉に詰まった私を見逃すほど、相手も甘くはなかったらしい。
にやりと口の端を持ち上げ、アリスは声を上げる。
「ほほう、何やら知ってるご様子ですなぁ」
「むぅ……はぁ。もう、我ながら先が思いやられるわね……」
さて、どうしようか。
無理矢理黙秘しようとすれば出来ない事も無いけれど、このチビッ子は中々にしつこそうだ。
姉の方が助けてくれる可能性はあるけれど、それだけでアリスが諦めてくれるとも限らない。
それに、一つ確かめようと思ってた事もある訳だし。
「……ねえ、アリス。貴方、絵は得意?」
「貴様、質問に質問で返すとは何事―――あだっ!? いだだだだだだッ!? ギブッ、お姉ちゃんギブッ!」
「亜理子、相手は先輩なんだから、ちゃんとしなさい」
亜理紗先輩がアリスの頭を引っ掴み、持ち上げかねんばかりの勢いで締め上げる。
って言うか本当にミシミシ音が聞こえてくるような気がするんだけど……年上とは言え女の子の手、普通は人間の頭掴んで持ち上げるなんて事は出来ない筈なんだけど。
人間よね、怪異じゃないわよね?
「はぁ、はぁ……死ぬかと思ったのよ……」
「全く……ええと、神代さんだったかな」
「あ、はい。神代で合ってます」
「良かった。ええと……絵の事だけど、亜理子は結構得意よ。最近はたまに校内新聞の四コマ部分を描いてたりするし」
「へぇ……」
頭を抱えて机に突っ伏しているアリスにちらりと視線を向けながら、私は感心して頷いた。
学内で配っている無料新聞とは言え、新聞部の面々はかなり真面目な姿勢でそれに取り組んでいる。
だからこそ、学校の外部にもスポンサーみたいなものが存在してる訳だし。
興味を持ってきっちり読んだ事は無かったけれど、それでもちゃんとした新聞の体裁を保っている事は知っていた。
アレに載せられる絵をかけるって事は、それなりに期待していいのかな。
まあ、新聞の四コマなんて適当なものかもしれないけど。
「で、絵が上手いかどうかは何か関係があるの?」
「ええ。あの日記はちょっとした怪異と関わっていますから、あんまり話したくはなかったんですけど……ただ、絵の上手い人に相談したい事があったので、そういう人なら話したいな、と」
言いつつ、私は鞄の中から日記帳を取り出す。
そして一緒に筆記用具も取り出し、さらさらと一言だけ日記の中の杏奈に告げた。
「『知り合いの人に絵を描いてもらうから、しばらくは描かれた事を吸収せずにいられる?』」
『うん、出来るよ。本当に見えたり聞こえたりするようになるのかは不安だけど……やっぱり、楽しみ。それじゃあ、待ってるね』
そう返答する杏奈の文字は数秒で消滅し、そして何も書かれていないまっさらな日記帳が残る。
私はそれを、ようやく起き上がってきたアリスへと差し出し、小さく笑みを浮かべながら声を上げた。
「それに絵を描いてくれたら、どういう事なのかを教えるわ」
「むむぅ、本当に?」
「ええ、約束するわ」
相手は怪異を知ってる人間、しかもちゃんとしたお目付け役がいる。
端から端まで信用する訳じゃないけれど、それでもある程度の分別は存在しているだろう。
この子の存在は周囲に知らしめる必要がある訳じゃない。
それを理解してくれれば、問題は無いだろう。
現状アリスも納得出来ている訳じゃないみたいだけど。
「仕方ない、了解なのさ。どんなのを描けばいいのよ?」
「女の子の絵。格好は……そうね」
日記に宿っている少女、森杏奈。
そんな彼女の姿を想像し―――思い浮かぶのは、やはりあの『ひきこさん』と化してしまった時の姿だ。
あの姿はボロボロで、本来どのような姿だったのかは分からなかったけれど、想像する事は出来る。
最後の最後、彼女の浮かべていたあの笑顔は、本物だったのだから。
「長い黒髪、優しそうな顔つき、白い着物……そんな女の子よ」
「ふーん……了解なのさ。ちょっと待ってねー」
私の言葉に了解の意を発すると、アリスは日記帳にペンを走らせ始める。
そんな様子を少しばかり眺めてから、私は視線をテリア先輩の方へと戻す。
私の判断に何も言わなかったっていう事は、これも問題ないって言う事なんだろう。
ともあれ、日記帳の事は今はいい。問題は、件の喋る猫の事だ。
「それで、テリア先輩……どうするんですか?」
「うん、そうだね。とりあえず、賢司君たちが来るのを待つかな……それからどうするかを考えよう」
まあ、作戦参謀のあいつが来なきゃ話は始まらないわよね。
トモは……聞き込みなら体力勝負になるかもしれないし、役に立つ場面もあるだろう。多分。
そんな事を考えながら視線を扉の方へ向けた時、ふと亜理紗先輩が私達へと向けて声を上げた。
「あ、そうそう。今回は私達も調査に協力するわ」
「おや、珍しいね。どういう風の吹き回し?」
「あまり危険は無さそうだったからね……とは言っても、貴方達に持ち込む以来はいつも危険ではない物を選んでいたつもりだけど。
理由としては……亜理子が怪異を見たがっているから、って言う事よ」
「ふーむ……まあ確かに、今回の件ならそんなに危険は無いだろうからね。別に問題ないよ。人手が増えるなら助かるし」
いいのかな、とは思うけれど、怪異に関して初心者の私やヒメが口を挟む事ではない。
先輩が大丈夫だと判断しているのであれば、それは大丈夫なのだろう。
少なくとも、先輩の都市伝説に対する知識だけは信頼しているのだ。
けど……このアリスって子は大丈夫なのかしらね?
一抹の不安を抱えながらも、私達は嶋谷がやってくるのを待っていたのだった。




