12:『彼女』の名前
正面にある、セピア色に彩られた家へと私達は駆け寄る。
置いて来てしまったヒメに対する心苦しさはある……けど、決して振り返るような事はしなかった。
ヒメは大丈夫だ、私は―――私達はあの子を信じている。
ヒメ以上に努力している人間などいない。そして、その努力が無駄になる事など決して無い。だから、大丈夫だ。
「森……やっぱり、ここだね」
家の表札に書いてある名前を見て、先輩は小さくそう呟く。
森は、逸話にあるひきこさん本人の苗字と同じもの。けれど、私達が出会ったひきこさんはその本物では無い。
苗字は同じでも、名前は違う筈なのだ。
私達のすべき事は、その本当の名前を素早く見つける事。さっさと、ヒメのと頃に戻らないと。
「ッ……部長、鍵が!」
「あー……しまった、流石にこの事態は想定してなかったから、ピッキングツールは無いなぁ……」
いや、アンタ。ピッキングツールって……まあ、今はいいか。
ともあれ、こんな場所で無駄に時間を食っている暇は無い。ならば、やる事は―――
「トモ、盛大にやっちゃいなさい!」
「了解! ダイナミックぅ……お邪魔しまァすッ!!」
私の言葉に頷いて助走をつけたトモは、奇怪な叫び声と共に家のドアへとドロップキックをかましていた。
少し老朽化していたらしい木製の扉は、その一撃で蝶番を捻じ切られて吹き飛び、トモは勢い余って中へと倒れこむ。
それと同時に嶋谷は家の中を懐中電灯で照らす……どうやら、一応見た目は普通の家らしい。
廊下はあまり広くはなく、玄関の正面左手に二階へ続く階段が、右手には廊下と扉が見える。
それを確認した先輩は、私達へと素早く声をかける。
「二手に分かれるよ! 勝手を知ってるワタシと賢司君は別々! 賢司君側は二階を!」
「了解しました! 杏奈、二階に行くぞ!」
「おっけー!」
「あれ!? 俺は最初から拒否!?」
「美人の先輩と一緒にいけるんだから泣いて喜べ!」
「はッ……賢司、サンクス!」
相変わらず、トモは平常運転ね……今はそれがありがたいけれど。
少なくとも、暗い雰囲気にはならずに棲んでいる。ホント、いいムードメーカーっぷりだわ。
小さく笑い、私は嶋谷と頷き合い、嶋谷を先頭にして階段を上っていった。
流石に、靴は脱がない。いざという時、逃げるのに困ってしまうからだ。
まあ、そうなると足音を忍ばせるのは難しいけれど、それも今更と言えば今更。一応息は潜めながら、二階へと到達する。
光源となるのは、曇り空を見せる窓一つ。
暗く、淀み沈黙した空気が私達に降り注ぎ……自然、口を閉ざしてしまっていた。
先ほどまで騒いでいたのが嘘のように、まるで別の世界に来てしまったかのように―――そんな錯覚すら覚えていた刹那、嶋谷が私の肩にぽんと手を置いた。
「……気をつけろよ、杏奈」
「ん……」
嶋谷の気遣いの内容を察し、私は小さく頷く。
私は、正直度の超えたスプラッタはあんまり得意ではない。
昼間ひきこさんと出会った時も、あれが私一人しかいなかったとしたら、確実に動けなくなっていた。
私にとって、篠澤兄妹は精神安定剤のようなものなのだ。あの二人がいると、二つの意味で落ち着いていられる。
けど、今はそういう訳にも行かない。
「……ゴメン、嶋谷。部屋見る時は、先に見て。もし当たり引いたら教えて欲しいわ……覚悟決めるから」
「ああ、それは元々俺の仕事だよ。だから、杏奈は俺の背中を頼む」
「ん、了解」
小さく笑い、嶋谷は廊下を懐中電灯で照らしながら歩き出す。
その背中を見つめながらも、私は手に持った手鏡の取っ手を強く握り締めていた。
流石に、この状態で笑えるような二人が別行動していると、どうにも緊張してしまう。
けど、与えられた仕事はこなさないとね……一応逸れるのは怖いから、嶋谷の服の裾をちょっと掴みながら後ろへと視線を向ける。
―――と、前方で扉を開ける音。
「……ハズレか。だが、調べないとな」
どうやら、そこは当たり―――即ち、ひきこさんの部屋ではなかったらしい。
けど、あのひきこさんの本名を調べるのが目的なんだから、手がかりがあるかもしれない以上は調べなければ。
嶋谷に続いて私はその部屋の中へと入る。
中は和室、それも布団を敷いて寝る為の寝室のような場所だった。
一応、隅には本棚のようなものも置いてある。
「杏奈、本棚は頼む。俺は押入れの方を調べる……終わったら、そっちを手伝うから」
「分かったわ」
まあ、今は布団が敷かれていない以上、押入れの中には布団が入ってるんでしょう。
それ以外にも色々突っ込まれてる可能性もあるし、調べる理由としては十分だけど。
とりあえず、私は言われた通り本棚の方へと近付き、その内容を調べ始める。
「……文庫の小説ばっかりね」
この部屋を使っていたのが誰かは知らないけど、どうやら読書好きな人間だったらしい。
ともあれ、文庫本を調べてもひきこさんの本名に関する手がかりは得られない可能性が高いだろう。
もっと、別の資料が必要だ。そう、例えば―――
「これは……」
本棚の上に乗っていた、少し大きめの本―――どうやらこれは、アルバムだったらしい。
パラパラと捲って開けば、中に入ってるのはこの家に住んでいた住人と思われる人々の写真。
写っているのは主に三人……恐らく、両親と子供。
「幸せそう、だけど」
凝った作りにはしておらず、写真にタイトルや文字は入っていない。
とりあえず時間を追って順に写真を調べてゆく。こうしてみる分にはごく普通の家族のようだ。
至って平凡な家族。何か特別な所がある訳ではない親子だ。
強いて言うならば、写っている小さな子供が子役かというぐらいに容姿が整っている事ぐらいか。
パラパラとアルバムを捲って行き―――あるページで、唐突に途切れた。
「ここまで、か」
写っている女の子がある程度育った所で、続いていた家族写真は途切れている。
そこから先、両親だけが写っている写真があるという訳ではないから、そこでこのアルバムの製作を止めてしまったんだろう。
何があったのかは、大体想像が付くけれど―――瞬間、私の肩にぽんと手が乗せられた。
「ッ……!?」
「っと、おい、そこまで驚く事無いだろ」
「あ……ご、ごめん」
思わずびくんと身体が反応し、咄嗟に振り返っていたけど、その先にいたのは呆れた表情の嶋谷だった。
うん……ちょっと、集中しすぎてたというか、過剰反応過ぎでしょ私。
ともあれ、小さく嘆息を吐き出し、私はパタンとアルバムを閉じた。
「ん? 調べ終わったのか?」
「ええ、こっちに手がかりは無し。大体文庫本だし、アルバムにも手がかりは無かったわ。そっちは?」
「こっちも、布団の他には小物ぐらいしか無かった。次に行こう」
言って、嶋谷はドアの方を示す。
私はそれに頷き、一度窓の方―――ヒメが今頑張っているであろう方向へ視線を向けてから、彼に続いて歩き出した。
時間を無駄に使ってしまったとまでは言わないけど……とにかく、急がないと。
多分、嶋谷も同じ事を思っているんだろう。若干ながら、早足になってしまうのを抑える事はできなかった。
「……思ったより時間が無さそうだな。杏奈、先に当たりを探そう」
「……了解。お願いね」
当たり―――ひきこさんの部屋ならば、手がかりになる何かが手に入る可能性が高い。
ヒメに戦って貰っている今、あまり回り道をしている余裕は無い。
気が進まないのは確かだけれど、そんな事を言ってる場合じゃないだろう。
了承の意を発した私に嶋谷は頷き、懐中電灯を手に進んでゆく。
とりあえずあるドアを少し開けながら隙間から中の様子を探ってゆく……あまり広くはない家だ、部屋の数だってそう多くはない。
だから―――それを見つけるのに、あまり時間はかからなかった。
「ぅ、ぐ……ッ!?」
「嶋谷!?」
「み、見つけた……予想していたとは言え、酷いな。ちょっと待っててくれ、杏奈。空気が酷そうだから、ちょっと換気して来る……中は見るなよ?」
「っ、了解」
私が部屋から視線を逸らしたのを確認すると、嶋谷は私の背中を押してこの場所から少し離させてから、大きく扉を開けて中へと入っていった。
ある程度距離を開けてくれた嶋谷の心遣いに感謝し―――しかし、それでも消しきれないほどの悪臭に、私は思わず顔を顰める。
吐き気を催す腐臭と、その中に混じるむせ返るような血臭。
これほど澱んだ空気も存在しないだろうと、そう断言できるような臭いだ。
正直、換気せずに部屋の中に入ったら、臭いだけで嘔吐していたかもしれない。
「……杏奈、一応空気は大丈夫だ。けど、死体があるのも予想したとおりだ。それでも、来るか?」
「ええ……やるわよ。時間が無いんだから」
取り乱してる暇も、吐いてる暇も無い。
ヒメが頑張ってるんだから、私が何もしない訳にはいかない。
あの子に顔向けできないような自分には、なりたくないんだ。
嶋谷の言葉に頷き―――私は、部屋の中へと足を踏み入れた。
「ッ……!!」
目を細め、あまり見ないようにしながら大まかに部屋を観察する。
臭いは酷いけれど、セピア色がかった視界は、どうやら真っ赤に染まっていたであろう部屋を隠してくれていたらしい。
とりあえずは安堵しつつも、その効果だけではどうしようもないいくつもの死体は、壁に引っ掛けられて飾られていた。
視線を下向きに、自分の足元に落とすようにしながら観察を続ける。
「死体は……四つ?」
「そうだな。両親と、子供二人……どうやら子供の死体の一つは、この間殺された小学生みたいだ」
身体を見ず、死体の足だけが視界に入るようにしながら周囲を見る。
この間の被害者までここにいるって言う事は、それも都市伝説の一部になってしまったって言う事だろうか。
となれば、この間の事件ももう噂になり始めているという事なんだろう……これ以上、この事件を長引かせられない。
「とりあえず、調べるぞ。大丈夫だな?」
「舐めるなっての。私は勉強机調べるから、アンタは棚ね」
「ああ、分かった」
小さく微笑む気配を見せながら、嶋谷は頷く。
どうしてここまで落ち着いてるのかとツッコミを入れたかったけど、今はいいわ。
相変わらず下を見つつ、けれど不慮の事故で見えてしまった時の為に、覚悟だけは決めておく。
そして机に辿り着いた私は、とりあえず机の上に乗っていたものから調べ始めた。
最初に目に付いたのは筆記用具……名札でも張ってないかと思ったけれど、流石にそう簡単には行かないようだ。
「筆箱は―――駄目か」
中身をひっくり返してみたけれど、入っているのは鉛筆と消しゴムばかり。
定規もあったけれど、これにも名前は書いていない。ハズレだ。
他に机の上にあるのは辞書や教科書……教科書には名前を書く場所があったと思うんだけど、ずぼらだったのか書いてる様子は無い。
まるで、わざと名前を隠されているみたいな―――
「……ちょっと、待って」
とまれ。私は、一旦作業の手を止めて今考えた事に集中する。
まさか、と思い机の上の小さなブックシェルフ―――そこにあるノートに手を伸ばす。
そこに書いてあるのは、やはり『森』という苗字のみ……名前があるはずの部分は、マジックペンのようなもので塗り潰されていた。
「名前が、隠されてる……?」
「けど、誰がそんな事を―――」
調べていて同じ結論に辿り着いたのか、私の言葉を引き継ぐように嶋谷が呻く。
私達は思わず同時に沈黙し……そして、まず私が口火を切った。
「嶋谷、何か考え付かない?」
「お前もいきなり無茶振りしてくれるな……お前こそ、何か気になる事無いのか?」
「……実は、一つだけ」
未だに疑問に思っている事が、一つ。
それは、あのひきこさんに追いかけられた時の事だ。
最初とその後、ずっとヒメの事を狙っていたような気がしたのも気になるけれど、その後。
「私の足を捕まえた時、アイツは確かに驚いた顔をしてた。何かに対して驚いて、それで手の力を緩めてた。そうじゃなきゃ、ヒメの攻撃でもあの手は外れなかったと思う」
「あの時か……」
嶋谷は、考え込むように沈黙する。
その間も、私はブックシェルフから本を抜き取り、一冊ずつパラパラと捲って調査を続けていた。
ノートは駄目、教科書にも名前はなし、漫画なんて最初から当てにしてない、もっと他に―――
「あら?」
と、そこで手に取った本の一つ。それは、ベルトのようなものに巻かれ、鍵が付いた本であった。
どうやら、鍵付きの日記のようだ。これは手がかりになる……と、思うんだけど、流石に鍵無しでは開けられない。
無理に開けようにも、今ある道具や私の力じゃ開けられそうに無いし、とりあえず鍵が近くに無いか―――そう思って、視線を周囲へと巡らせた瞬間だった。
「え―――」
開け放った窓の外に、動くものが見える。
普段ならば、一々気に留める事も無かっただろう。けれど―――そこにある姿は、このセピア色の世界の中で、普通に色彩を保っていたのだ。
「ヒメッ!?」
そう、それはヒメ以外にありえない。
あの子が無事な事にとりあえず安堵し、しかし徐々に池の方へと追い詰められてきているその姿に、私は目を見開く。
疲れてきているのか、それとも何か問題があったのか。
分からないけれど、ヒメがピンチな事に変わりはなかった。
けど、今のまま出て行ってもひきこさんを倒す方法は―――
「杏奈、行くぞ!」
「え……ちょっ、ひきこさんの名前は!?」
「確定じゃないが、可能性が高いものは思いついた! 悠長にしてる時間は無い!」
「ああもう!」
脇目も振らず部屋から飛び出していく嶋谷に、私は思わず悪態を吐きながらその後を追う。
一瞬視界に吊るされた死体が見えてしまったけれど、本当に一瞬だったから全容は掴めなかった。
まあ、そんなものは一生目にしたくも無い。とにかく今は、それよりも重要な事があるんだ。
「おい賢司、どうした!?」
「ヒメが危ない!」
「把握ッ!」
先に駆け下りた嶋谷の姿を見たのか、トモの声が聞こえてくる。
相変わらず理解が早い―――って言うか何も理解していない内からそう言ってるんでしょうけど。
私が階段を降り切った頃には、嶋谷もトモも、既に外に向かって走り出してしまっていた。
先輩の事がちょっと気になったけど、今はヒメだ。
急いで助けに行かないと―――
「うおおおおおおおぉ―――ぉおおおおッ!?」
「あ」
外に出て、真っ先に見えたのは―――突進するひきこさんに横から衝突し、その突進の軌道を逸らしつつも撥ね飛ばされて池に突入したトモの姿だった。
とりあえず元気にドップラー効果じみた悲鳴を上げてたから大丈夫なんだろうけど……こういう場面すらギャグにしないと気が済まないのかあいつは。
けど、その働きは確かに大きかった。ひきこさんはトモのタックルを受けてバランスを崩し、ヒメへと伸ばそうとしていた手を逸らしてしまったのだ。
ひきこさんとヒメの間には再び距離が開き―――そして、その間に嶋谷が立ち塞がる。
「賢司君!? 危ないよ、退いて!」
「大丈夫だ、ヒメ」
何が大丈夫なんだ、と駆け寄る足は止めないままに胸中で呟く。
ひきこさんの名前を思いついたとは言っていたけれど、それも確定とは言いがたい。
もしも外れていたら、アイツはヒメの楯になるつもりだ。
冷静で思慮深いくせに、いざという時はそういう事も出来てしまう男なんだ。
ひきこさんは再び起き上がり、嶋谷とヒメの方へと狙いを定める。
その手届いてしまえば、二度と逃げられない。肉塊になるまで引きずり回され、殺される。
けれど、それを前にして臆する事無く―――向かってくるひきこさんへと、力強く声を上げた。
「―――森杏奈!」
「ッ―――!!」
「え……?」
嶋谷へ―――いや、その後ろに覗いているヒメの腕へと手を伸ばしていたひきこさんの動きが、唐突に停止した。
けど、それが……私と同じそれが、このひきこさんの名前なの?
走り寄り、ある程度近付いたからこそ分かる。ひきこさんは―――いや、森杏奈は、あの時私に見せた驚愕の表情を浮かべていた。
そして、動きの止まった彼女に対し、嶋谷は叩きつけるように声を発する。
「お前は、『ひきこさん』ではないッ!」
「ぁ……」
多くは語らない。ただ、その言葉は純粋に強かった。
その叩きつけられた言葉に、先ほどまで幽鬼のような様相をしていた彼女は、伸ばしていた手をだらりと下げる。
それを見つめていた私は、ふと、手の中でかちゃりと音が鳴った事に気付いた。
見下ろせば、そこにあったのは先ほどの部屋から持ってきてしまっていた日記。
今の音は、そこにつけられていた鍵が外れた音であった。
ベルトのようなそれは独りでに外れ―――その下に書いてあった、持ち主の名前を示す。
―――杏奈の日記、と。
「わ、たし……」
彼女は、その口から小さく言葉を漏らす。
その顔には既に狂気の色は無く、ただ呆然と意味の成さぬ言葉を紡いでいるだけだった―――そして、そんな姿が唐突にぶれる。
「―――彼女は、結び付けられていた都市伝説から乖離した。じき、彼女もここも姿を消すよ」
「テリア先輩?」
ふと、背後から響いた声に視線を向ける。
そこにいたのは、どこか苦笑のような、それでいて優しそうな―――達成感のある、とでも言うような表情を浮かべたテリア先輩の姿があった。
彼女は私の隣まで歩み寄ると、そこで足を止めて嶋谷たちの方を見つめる。
「やれやれ、今回は大体持って行かれちゃったねぇ。いやはや、期待の出来る新入部員で何よりだよ」
「……まだ何かやるつもりですか?」
「いんや。別に、いつも通りだよ」
どうとでも取れる回答をしながら、先輩は肩を竦める。
そんな姿に私は首を傾げながらも、同じようにその視線の先を追っていた。
揺らぎ、その姿を薄れさせて消えてゆく『ひきこさん』の寄り代となった少女。
彼女は、僅かにその顔に微笑を作り―――
「―――ありがとう」
―――最後に、そう呟いて消滅した。