11:怪異の根本
夜の闇に包まれた公園。
深夜帯の時間とはいえ、一応街灯はその明かりを灯している。
けれど、その明かり程度では到底見通せぬ闇が、夜の公園には広がっていた。
桜をライトアップする明かりも、先を見通すには少々足りない。
まるで、その中に存在しているものが、その闇を深めているように―――不気味な雰囲気が立ち込めていた。
「……」
誰も、声を出せない。
あの闇の中からこっちを覗き見ている存在がいるような気がして、自然と息を殺してしまうのだ。
晴れの日である以上、ひきこさんは桜の咲いている領域から外に出る事は出来ない。
彼女はこの公園のどこかにいる筈なのだ……だからこそ、一瞬たりとも気は抜けない。
自然、私が手鏡を掴む手は、不必要なほどに力が込められてしまっていた。
「警官は……いないみたいだね。好都合だ」
「今更だけど……あそこ、入って大丈夫なんですか?」
「『KEEP OUT』が張ってある以上、大丈夫じゃないだろうけどね」
私の言葉に、テリア先輩は肩を竦める。
そりゃまあ、入っちゃいけないから入るなと言っている訳で。
それを無理矢理通り越した事がバレれば、問題になる事は避けられないだろう。
しかしそれでも、先輩はどうと言う事は無い、とでも言うように苦笑する。
「……けどまぁ、大丈夫だよ。警察は凶悪犯を捕まえる事に躍起になってる。隠れず、あえて分かりやすい所に足跡つけて進めば、『バカな学生が肝試しに来ただけ』と思ってくれるし、それを一々追及するほど暇じゃない」
「既に調べ終わった所を進む、と……本当に、綱渡りなことをしますね、部長」
「あはは、いつもの事いつもの事」
いつもこんな事やってたのか、この部活は。
いや、危険な怪異が相手になったのは今回が初めてらしいから、警察の厄介になりかねない事を何度かしてきたという事なんだろうけど。
あれだけの情報を集めるのに、色々してるんだろう。
「まあ、とにかくだ。これから、ひきこさんの本拠地とも呼べる場所に足を踏み入れる……準備はいいかな?」
先輩の言葉に、私達は無言で頷く。
私達の先にあるのは、黄色いテープで囲まれた雑木林……被害者である小学生の遺体が打ち捨てられていた場所。
もしも逸話の通りであったとするならば、その場所にあるのは―――その姿を思い浮かべ、静かに覚悟を決めて、私は足を踏み出す。
―――その、瞬間。
「え……?」
呆然とした、ヒメの声が響き渡る。
辺りに響き渡るのは、静寂にも似た雨の音。
理解が及ばない―――それは、この場にいた誰もが同じだっただろう。
私達は雑木林の中に足を踏み入れたはずだったのに―――
「……これは、流石に驚いたなぁ」
「部長、こんな事があるものなんですか?」
「うん……話には聞いてたし、これが都市伝説の一部だというのならば納得は出来る。『雨の日以外は部屋から出てこない』と言うならば、前提として家がなくちゃならないんだから」
―――私達の目の前にあったのは、一軒の家だったのだ。
周囲の景色も変わってしまっている。いや、見覚えがあることは確かだけれど、やはり違う。
近くにある池は、公園にいた時と同じ。けれど、周囲は整備されておらず、ただの空き地といった様相だった。
何より、周囲の情景に現実味が無い。どこか茶色……いや、セピアっぽい色に包まれ、映像のような薄っぺらさを感じてしまうのだ。
しかしその中で、私達だけがいつも通りの色彩を保っていた。
そして、雨に降られているはずの私達の体は、一切濡れていない……それが、この場所が現実ではない事を確信させる。
「……これも、都市伝説の具現化? ひきこさんの、一部……?」
「そうだね……気をつけた方がいいよ、杏奈ちゃん。君の言葉そのままだとするなら、ここはひきこさんの体内であるとも言える。こちらの動きは、察知されてしまうと思うよ」
そんな先輩の言葉に、ヒメは即座に反応して木刀を持ち上げていた。
分かる、既に気配を感じ取ってしまえる―――いや、この場所は全て、あいつの気配で満たされているんだ。
だからこそ、それが強い方向はすぐに分かってしまう。そして、それがこちらへと近付いて来ている事も。
「……賢司君」
「大丈夫なんだな?」
「うん……お兄ちゃんも、皆の事お願いね」
「応よ、このお兄様に任せとけ」
静かに、けれど力強くヒメは告げる。
その視線は、真っ直ぐと気配の方向へと向けられていた。
普段のヒメなら、怖がって動けなくなるような所だろう。
けれど、今は後ろに私達がいる。だからこそ、私達を護れるこの状況は、ヒメにとって何よりも大切なものだったのだ。
―――怖がっている暇など、無いほどに。
「ヒメ、任せたわよ!」
「うん、そっちもね!」
お互い笑みと共に手を振り上げ、踵を返す。
そして、私達は目の前の一軒家―――ひきこさんの家へと、足を踏み入れていった。
* * * * *
一度木刀を振り下ろし、そして正眼に構え直す。
それは、姫乃にとっては一種儀式のような行為であった。
本気で目の前の相手に望むため、仲間を護る事の出来る自分を作り上げる。
元来、優しい性格の姫乃は荒事に向いていない。だからこそ、師であるいづなは彼女に対して一つの精神統一法を授けたのだ。
異なる自分を作り上げてそれに共感する事で、自分の意志の全てをその一点に集約する。
「……お兄ちゃん、杏奈ちゃん、先輩……賢司、君」
そしてその核となる想いは、姫乃が昔から抱き続け、渇望と呼べるほどに高まった願い。
護られているばかりは嫌だと、自分を護って誰かが傷つくのを見たくないと―――故に、強くなって自分が皆を護るのだ、と。
控え目な性格だったから、同級生からいじめられる事になった。
それを何とかする為に仲間達を巻き込んでしまい、杏奈に至っては同級生の友達を失わせてしまった。
そんな事は許せないから―――姫乃は、人に好かれ、嫌われる事が無いようにと努力を続けた。
剣道部では、好かれるようになったからこそ余計な視線に晒される事になった。
以前にあった時は友紀に助けてもらい、その結果彼は剣道をやめる事となってしまった。
剣道を止める事―――両親の期待を裏切る事は出来ず、けれどそれが仲間の負担になってしまう。
だからこそ、剣の腕を磨きながら仲間の負担にもならない道―――いづなに師事する事は、姫乃にとって渡りに船だったのだ。
そして剣の腕を磨けば、今度こそ仲間達を護れるだけの強さを得る事が出来る……だからこそ、努力を続ける。
その成果が発揮されるかもしれないこの瞬間―――姫乃は恐怖よりも、歓喜を覚えていた。
「皆は……私が護る」
呟き、姫乃は目を見開く。
その視線の先には、一人の少女の姿が現れていた。
白い着物を纏い、その所々を血のどす黒い赤で汚した少女―――幽鬼の様な佇まい、その流れる黒い髪の奥から覗く狂気に満ちた瞳は、確かに姫乃の瞳を射抜いていた。
普段ならば、動けなくなるほどに恐怖していただろう。だが、今はその向けられる敵意すら心地良い。
「ここから先へは、一歩たりとも進ませないよ」
不退転、それを真っ直ぐと宣言し、姫乃はひきこさんの瞳を睨み返す。
それと共にひきこさんの口元は狂笑に歪み―――その首を薙ぎ払うように、漆黒の一閃が疾った。
「ぎぃ……ッ!?」
ひきこさんは驚愕に目を見開きながらも、構えた腕でその一撃を防御する。
しかししっかりと体重の乗せられたその一閃は見た目と異なり非常に重く、白装束の姿を斜め後ろへ弾き飛ばす。
その姿を見据えながら構え直し、姫乃は静かに己の事を分析していた。
(駄目だ、やっぱりまだまだ遅い……)
剣道部でこれを放てば、そうそう防げる人間は存在しないだろう。
けれど、それでは足りない。元来、いづなの教えるこの剣術は、あらゆる反応を許さないものなのだ。
無拍子―――そう呼ばれる、ある種の究極。
あらゆる動作の無駄を省き、剣閃の中に可能な限りの必要な動作を詰め込み、全ての動作が剣閃と化す事を目指した剣術。
その一閃は、構えから軌道を予測する事が出来ない。構えと攻撃が全て連動しており、切れ目が存在しないのだ。
見えたとしても反応できず、防御する事も間に合わない。全ての動作がそうなる事を目指した、紛れも無い殺人剣。
しかし今の姫乃には、ただの一閃すらその領域に届く事は出来ていなかった。
尤も、それも当然と言えば当然だ。稀代の天才と呼ばれたいづなですら、そこに届くまでに数年の歳月を要したのだから。
(私じゃまだまだ遠い、けど―――)
一撃を当てたが、ひきこさんはまだまだ健在だ。
痛みすら感じた様子は無く、弾き飛ばされながらも変わらぬ調子で笑みを浮かべ、不気味な声を零し続けている。
それを前にして、姫乃には一切の恐怖が存在していなかった。
(―――私はまだまだ、強くなれる!)
刹那、ひきこさんの身体が爆ぜる。
否、爆ぜたように錯覚するほど、彼女は高速で飛び出してきたのだ。
しかし、以前追い掛け回されたときの経験で、姫乃は十分に理解していた。
純粋な身体能力では、ひきこさんには決して勝つ事は出来ない。
素手で人体を振り回し、金属のプレートを貫くような膂力が相手では、力押しをした所で意味は無いだろう。
故に、姫乃は正面からは挑まない。
「ふ……ッ!」
若干左に重心を移動させながら刃を振るう。
正面から打ち払おうとした所で、逆に力負けするのが関の山。
故に姫乃は、側面から肘の辺りを狙って刃を旋回させた。
同時、更に重心をずらす。体重を乗せられないため威力は半減するが、体は刃の旋回に合わせて左側に移動し―――そして刀身がひきこさんの肘に衝突すると同時に、姫乃の身体はひきこさんの攻撃の軌道から完全に外れた場所へと動いていた。
そして姫乃はすり足のまま動かしていた左足に力を込める。
それと共に刃へと力が伝わり、それに押されたひきこさんの身体は勢いのまま大きくバランスを崩して転倒していた。
「……」
体勢を戻し、構えながら姫乃はゆっくりと息を吐き出す。
例え相手が転倒していたとしても、無理に攻撃を加えるような真似はしない。
相手は人知を超えた怪物であり、不確かな手段を取るのは危険であると判断した為だ。
故に、確実に攻撃を当てられるその瞬間以外、決して攻撃をしないと、姫乃はそう決めていた。
それは何より、いづなの教えであった為だ。
「ひ、ひひひひひひひ……!」
そして事実、ひきこさんはすぐさまその身体を起き上がらせ、更に傷付いた体に対する怒りと狂気を振り撒きながら、強い視線を姫乃の方へと向けてきた。
狂気に彩られたその表情は歪み―――そして、再び駆ける。
しかし、今度は先程よりも距離が開いている。相手の攻撃に合わせずとも、姫乃にはそれを躱す事など容易い事であった。
若干前傾姿勢になりながら刃を後ろへ流し、斜め前へと踏み出しながら木刀を振るう。
掠めるように頭の横を過ぎ去ってゆく腕に、しかし微塵も恐怖を覚えず、姫乃はひきこさんの胴を薙ぎ払っていた。
そして刃を振るう勢いに合わせて重心を移動、その方向へと跳躍する。
(痛覚が無いの……?)
カウンター気味に入った会心の一撃だったが、ひきこさんに苦悶の色は無い。
体中が擦り切れるほどに傷付いているため痛みに対する耐性があるのか、或いは痛覚そのものが存在していないのか。
どちらにした所で、姫乃にとっては不都合な状況であった。
痛みを感じていれば動きが鈍る事はあるだろうが、彼女相手にはそうも行かない。
そして彼女の肉体は異様なほど頑強であり、一番最初に放った一閃を受けた右腕も、折れた様子は全く無かった。
どれほど攻撃を加えた所で倒れないのであれば、姫乃にとっては不利でしか無い状況だ。
―――けれど。
「―――ふっ!」
退くという選択肢は、彼女には存在していない。
攻撃を加えた瞬間に移動した為だろう、ひきこさんは姫乃の姿を見失っていた。
その隙を見逃す事無く、姫乃は再び駆ける。
元より動きづらく、その上死角の多い格好をしている相手だ。
彼女の見えぬ位置から攻撃する事は、それほど難しくは無い。
「―――月風」
駆けると同時に構えられていた刃は大上段。
防御を捨てた、最大の攻撃の構え。しかしそれも、相手の攻撃を受けぬこの瞬間であれば何の問題も無い。
そして放たれるのは、大きく身体ごと縦に回転したかと錯覚するような、長い距離とその分の加速を込められた袈裟の一閃。
大きく弧を描き、一切の無駄なく全ての力を加えられたその一撃は、容赦なくひきこさんの肩口に突き刺さり、その身体を弾き飛ばしていた。
人間相手ならば鎖骨も肩甲骨も砕けているであろうその一閃―――しかし、そこに手応えは無い。
(まるで、霞を斬っているみたいな……現実味が、無い)
元が『噂話』などという不確かな存在であるとは言え、その攻撃は現実に人を傷つけうるというのに、こちらの攻撃は全くと言っていいほど通用しない。
そんな理不尽な相手に、姫乃は思わず眉根を寄せていた。
いくら攻撃しても倒せないのであれば、姫乃に成す術は無い。出来る事はせいぜい、時間稼ぎをする事ぐらいだろう。
「……うん、それなら十分だよね」
再び起き上がるひきこさんの姿を見据えながら、姫乃は口元に小さく笑みを浮かべる。
時間稼ぎが出来るならば、それで十分。少しすれば、賢司たちがひきこさんを倒す方法を見つけて戻ってきてくれるのだから。
故に、恐れる事など何一つとして存在しない。敗北の気配に押される事も無い。
姫乃はそれほどまでに、仲間の事を信じていたのだ。
「それじゃ……もうちょっと、付き合って貰うからね」
現実味の無い世界の中、飽きる事無く自分に向かってくるひきこさんに対し、姫乃もまた地を蹴って駆け抜けていた。
ただ、仲間の帰還を僅かな疑いすら持たずに信じながら。