106:天秤の剣
(今なら、理解できる)
白いワニの上顎を斬り飛ばし、その背をけって跳躍した姫乃は、脳裏でそんな事を考えていた。
その思考は、先ほどから響き続けていた脳裏の声に対するものだ。
(願いと、価値観。自分の願いを肯定して、新たな価値観を創出する事。それこそが、私達の力に必要な事)
遥か高みの領域に触れ、しかしそこに辿り着く事を一度取り止めた姫乃は、僅かながらに感じる事が出来た感覚によってそれを理解していたのだ。
そこから上に一歩踏み出してしまっていれば、最早二度と戻る事は叶わなかったであろう。
だが、姫乃は踏み止まった。他ならぬ、護るべき者たちの手によって。
そして、今眼前にいる逸話の王は――それを留めてくれる者が、いなかったのだろう。
己の願いに狂い果て、己の大切であったものすらも認識できずに破壊してしまう。
自分が辿り着いてしまっていたかもしれない可能性に、姫乃は僅かながらに恐怖を覚える。
――けれど。
「あなたの願いが、何だとしても――」
譲りはしない、絶対に。
例え始まりがとても尊い願いであったとしても、願いが対立する限り、姫乃は決してそれを認めない。
ましてや、信念すらも忘れて狂い果てた存在になど、負ける訳には行かないと。
(先輩は、私の体質の事を知って協力してくれた)
自分の為――そう口にしながらもテリアは常に部員全員の安全に気を配っていた。
誰かを救うために戦うその姿は、誰よりも真摯なものだった。
姫乃は、その意志を尊いと思う。
(お兄ちゃんは、いつも私を心配してくれた)
力によって精鋭化した姫乃の感覚が、背後で見つめる兄の姿を正確に捉える。
常に、どのような場面であっても、篠澤友紀は篠澤姫乃の味方であった。
姫乃は、その暖かさに笑みを浮かべる。
(杏奈ちゃんは、私達の幸せを願ってくれた!)
誰よりも優しい親友は、確信に満ちた笑みで背中を見つめてくれている。
彼女が優しくなければ、姫乃は決して今の幸せを手に入れることは出来なかっただろう。
それこそ、下手をすれば目の前の存在のように歪んでしまっていたかもしれない。
姫乃は、その優しさに感謝する。
(賢司君は、私を好きになってくれた――!)
愛する人を、誰よりも大切な恋人への想いを胸に抱く。
常に姫乃にとっての最善を考えてくれた幼馴染。
苦しませてしまったにも関わらず、その思いを受け止めてくれた大切な人。
そんな彼への想いが、胸の中に在る。
姫乃は、その想いを何より愛しいと感じる。
姫乃には、彼らがいる。
大切な仲間が、護りたいと思うものが。
姫乃の抱く『護りたい』と言う思いの、その源泉となる者たちが。
故に、負ける訳には行かない。何もかもを失ってしまった逸話の王の姿は、確かに哀れなものだろう。
けれど、それに同情して大切なものを失う愚は犯さない。
姫乃は、彼らを護りたいと思うから。彼らの抱く思いすらも、護りたいと願うから。
だから――
「私達の力が届かないなんて――絶対に、認めない!」
その思いを強く、強く刃に込めて――姫乃は、その一撃を逸話の王へと叩き込んだ。
汚泥の塊のようであったその黒い時計塔は、姫乃の攻撃を防ごうと蠢く。
けれどその汚泥の壁は、姫乃の木刀が触れた瞬間、螺旋を描くように削り取られ消滅してゆく。
怪異の原型、即ち情報の塊であるその汚泥は、同じ力を持つ姫乃の力によって書き換えられているのだ。
同じ力同士のぶつかり合いならば、より力が強い方に軍配が上がる。
既に弱り切ってしまった逸話の王の力は、姫乃の力よりも弱体化してしまっていたのだ。
「はあああああああッ!!」
弾け飛んだ汚泥は消滅し、漆黒の塔は大きく抉り取られる。
硬く、大きく塗り固められていた情報の塊――その奥には、一人の男性の姿があった。
痩せ細り、髪は伸び、既に人の様相を保っていないその姿。
両手で顔を覆い、その指の間から狂気に満ちた視線を茫洋と漂わせている。
その姿を――哀れだと、姫乃は思う。けれど、同情はしない。
「ちから、を」
初めて聞く、その肉声。
もしかしたら、それ以前にも聞いたことがあったのかもしれない。
けれどもその意志は、既に姫乃の魂にしか向けられていなかった。
失ったものを取り戻そうと、その為に足りないものを補おうと足掻く姿。
既に、その大切なものが何だったのかすら、忘れてしまっている。
妄執に取り憑かれ、それでも尚、姫乃に宿る力を求めて手を伸ばす――それと共に、大きく裂けた汚泥の壁が、姫乃を喰らおうと襲い掛かった。
――けれど、それよりも僅かに速く。
「終わりです」
身体を前に倒しながら地を蹴り、それと同時に木刀を構える。
一つの動作の中に、次なる動作への布石を。それこそが、霞之宮の剣術が極意。
その業を、姫乃は今、完璧な形で再現していた。
木刀が、相手の心臓を貫き、食い破る。
「ぁ――――」
小さな声が、零れる。
それは断末魔の悲鳴であったのか、或いは安堵の吐息であったのか。
眼前で聞いていた姫乃にも、それは分からない。
けれど姫乃の力は確かに逸話の王を食い破り――漆黒の時計塔は、崩れ落ちるように消滅を始めていた。
「…………っ」
じっと、姫乃は眼を見つめる。
相手の瞳を、その奥にある思いを。
そしてそれと同時――握る剣を伝って、姫乃に流れ込んでくるものがあった。
(これは……この人の、力)
同種の力は同じ水同士、故に斬ったものは吸収される。
先ほど『声』に教えられていた事を思い出し、姫乃は僅かながらに恐怖心を覚えていた。
あまりにも強すぎる力を持てば、いずれは果てまで辿り着いてしまうのではないか、と。
けれど、同時に思う。最早、そんな機会など無いのだと。
そう信じて――流れ込んでくる力の中に、一つの想いを発見した。
(それに、願い……この人が、この異界を作り出した理由)
事故で全てを失った、愛する妻を、大切な息子を。
認められない、認める訳には行かない。このような結果を赦す訳には行かない。
故に、この力で作り直す。全てを作り直し、元通りにし、そして全て取りこぼさない結果を掴んでみせる。
その為ならば、いかなるものでも犠牲にしよう。
純粋で、そうであるが為に歩むべき道を踏み外してしまった思い。
願いと、価値観。
「あなたは、間違えてしまった」
姫乃は、静かにそう告げる。
流れ込んでくる力に刻まれた記憶、それを噛み締めるようにしながら。
悲憤に彩られたその思いを受け止め、それに流されぬよう自らの願いを再確認し――
「綺麗事なんて口にしない。私達の戦いはそういうものだって分かってます。だから……私は、あなたの願いを踏み越える」
確かに悲劇だっただろう。覆したいと言う思いは理解できる。
けれどそれは、姫乃にとっての願いに反する事であったから。
故に、その全てを否定する。
「――私達の、勝ちです」
その言葉と共に――逸話の王、市ヶ谷英一の成れの果ては、砂のように崩壊して消滅していた。
それと同時に、繋がっていた黒い時計塔もまた薄れて消滅してゆく。
木刀にかかっていた手ごたえが消え去り、姫乃はゆっくりと息を吐いて武器を下ろす。
紛いなりにも人を斬った、その衝撃は確かにあった。
けれど、姫乃は決して後悔していない。それは、成さねばならないことだったから。
己の幸せを掴むために、どうしても必要な事だったから。
「ヒメ!」
響いた声に振り返れば、駆け寄ってくる仲間たちの姿があった。
全員の無事な姿に、姫乃はほっと安堵の吐息を零す。
今回は、誰も失わずに済んだのだ。大切な人を傷つけさせず、全てを終わらせる事が出来た。
(……終わりましたよ、市ヶ谷さん)
声には出さず、姫乃は胸中でそう口にする。
父親を救いたいと、こんな馬鹿げた事を終わらせたいと、そう願って命を掛けた青年。
命を賭した彼の戦いが無駄ではなかった事を、姫乃は知っている。
そして、彼の護りたかったものを護ることが出来た事に、姫乃は胸を張っていた。
安堵を胸に、姫乃は駆け出す。
「賢司君っ!」
「ヒメ! 無事か、怪我は無いか?」
「うん、大丈夫だよ。皆で幸せになるんだもん、怪我なんかしてられないよ」
「皆で、と来たか」
賢司の傍に駆け寄りながら姫乃が口にした言葉に、杏奈は小さく苦笑を零す。
呆れているようでありながら、彼女の表情はどこか幸せそうな色を宿していた。
それも当然と言えば当然だろう、これは杏奈が望んだ結末でもあるのだから。
「……本当に、終わったのか?」
「お兄ちゃん……うん、終わったよ。あの人の力は、全部私の中にある。もうすぐ、この異界も消えるよ」
「そう……英一さん」
友紀が発した疑問に姫乃がそう答えれば、秋穂は天を仰ぎ、僅かながらにそう口にしていた。
彼女にもまた、複雑な思いがある。
あの異界で取り戻していたかつての日々は、秋穂にとって確かに幸せなものだったから。
けれど狂っていたあの世界の真実を知り、そしてその終焉を知った今、秋穂の中にあるのは静かな哀悼の意だ。
かつて家族であった、優しき父親であったはずの人物、その最期を静かに悼む。
そして姫乃は――ゆっくりと、空を見上げた。
「……この異界、どうなるんだ?」
「もうすぐ、消えると思う。形作っていた力が私の中に入ってきちゃったから、構成が維持できなくなると思うんだ」
「それ、姫乃ちゃんは大丈夫なの?」
「あ、はい。力が強くなるだけで、悪影響とかは特に無いです」
心配するテリアの声をありがたく受け取りながら、姫乃はそう口にする。
実際の所、全く影響が無いという訳ではない。市ヶ谷英一の記憶が流れ込んできている為に、若干頭がぼんやりとしている事は姫乃も否めなかった。
けれど、それもいずれは消える。逸話の王が残したものはただそれだけだ。
いずれは薄れて消えてしまうものに、姫乃は僅かながらに哀れみを覚える。
結局、戦いとはそういうものなのだろう。
「……ねえ、賢司君」
「何だ、ヒメ?」
「私……あんな風にはなりたくないよ」
だから、手の届かない場所で危険な目に遭わないでほしい。
絶対に、いなくならないで欲しい。
言外にそんな意思を込め、姫乃は震える吐息を零す。
大切なものを失って狂い果てる、そんな結末を迎えたくは無かったから。
「お願い、私にあなたを護らせて」
「ああ。そうする事で、俺もお前を護れるなら」
「うん……賢司君」
「何だ?」
小さな振動が、響く。
見上げれば、黒い空には亀裂が走り、その向こう側から眩い太陽の光がこぼれだし始めている。
不安は無い。姫乃にも、そして杏奈にも、元に戻れるのだと言う確信があった。
何よりも、その光から懐かしい匂いを感じ取る事ができたから。
「沢山の事が、読み取れるんだ。けどね、ミナさんみたいに、人の心までは読めないの」
周囲の空気そのものが触覚になったかのように、姫乃には多くの情報が流れ込んできていた。
全知の力とはよく言ったものだと、姫乃はそれら全てを処理しながら苦笑する。
それでも、全てが分かるわけではない。だから――
「賢司君、大好きだよ」
「ああ……俺もだよ、ヒメ」
互いに、全てを無くさないように。
そんな願いを込めて、周囲に冷やかされながらも、二人は幸せそうな笑みを浮かべていた。




