102:風の中の決意
夜の街を、二人分の足音が駆ける。
一人は軽快に、そしてもう一つは不規則に。
後者の軽い足音を感じながら、テリアは角を曲がった直後に別の路地へと飛び込んでいた。
そして僅かに顔を覗かせ、道路の反対側へと視線を向ける。
そこを通り抜けてゆく不定形の影を見送って、テリアはほっと息を吐いた。
「ふぅ……流石に、あんな特徴も無いものだと正体も掴めないよ」
既にいくつかの怪異を消滅させ、テリアは遅々とした歩みながらも着々と時計塔に近付いてきていた。
とはいえ、全く問題が無いと言うわけではない。
テリアは知識はあるものの身体的な優位があるわけではなく、さらに今回は大きな荷物を抱えてしまっているのだから。
そんな事を考えながら、彼女はちらりと視線を下に下ろす。
そこには、走り続けて乱れてしまった息を整える葵の姿があった。
「葵、大丈夫?」
「はぁ、はぁ……うん、平気」
気丈な言葉ではあったが、葵の表情は硬く、目に見えて疲労してしまっている。
当然と言えば当然だろう。父親同然であった存在を失ってすぐに訳の分からない空間に放り込まれ、そこから解放されたかと思えばいくつもの化け物に追われる。
まだ幼い少女が、そのような状況の中にいて平気な筈が無い。
テリアとしても、出来る事ならこの子供を安全な場所で休ませたいところであった。
しかし――
「……とりあえず、息を整えながらゆっくり進むよ。危険は無い」
「ぅ、うん……」
まだ葵の息は乱れている様子ながら、テリアはその手を握って歩き出す。
元より、この黒い町の中に安全な場所など存在していないのだ。
一箇所に留まっていればすぐさま怪異に発見されてしまうし、あまりゆっくりとしている訳にも行かない。
とは言え、無理をして葵が動けなくなってしまうのも論外である。
そのバランスを何とか見極めながら、テリアは更に周囲への警戒も行っている。
極限状態とも言える精神の中で、彼女が考えていたのはたった一つの事柄だけだった。
(ワタシが、葵を護らないと)
この黒い町を歩き回り、かつて無いほどに危険で数が多い怪異をやり過ごして、テリアが行き着いたのはそんな考え。
今は亡き、市ヶ谷浩介への思いの片鱗。失ってしまって、それでも確かに残っている大切なもの。
その思いが、今のテリアを支えていた。
「ねえ、葵」
「……なに?」
ゆっくりと、周囲を警戒しつつ歩きながら、テリアは葵に向けて声を上げる。
対する葵の声も、以前ほどの棘は存在しなくなっていた。
いつの間にか近付いていた距離に、苦笑しながら、テリアは続ける。
かつての、自分の姿を思い浮かべながら。
「一人って、辛かった?」
「…………つらくなんか、ない」
そっぽを向きながらの言葉に、テリアは小さく苦笑する。
その言葉の前にはさまれた名が今の時点で、答えなど最初から言ってしまっているような物だったから。
だからこそ――
「ワタシはね、辛かったよ」
「え……?」
「いつもいつも、コースケに置いて行かれていた。必ず追いついてやるんだって、コースケのようになって見せるんだって、そう思ってた」
いつか隣に並びたいと、無茶をする彼を支えられる人間になりたいと、テリアはそう願っていた。
だからこそ力を付け、知識を蓄え、自分に出来る限りの事をしてきたのだ。
けれど――現実は、甘くは無かった。
「結局ワタシは、届かないままだった。その影すら踏めないままに、終わってしまった」
今自らが纏っているコートを見下ろし、そう口にする。
表情の中にあるのは――酷く、空虚な感情であった。
テリアには、出来る限りの事はしてきた自負があったからだ。
けれど、それでも届かなかった。
「いつか隣に並んで、一緒に世界を巡って怪異を倒して、ワタシみたいな人を救う……そんな事を、夢見ていた」
憧れか、恋か、その思いに明確な名をつける事は難しい。
それでもただ、ずっと胸に秘めていた大切な思いであった事は確かなのだ。
けれど――それは今、空虚に揺らいでいる。
「でも、コースケはいなくなった。そして葵の姿を見ていて……それで気付いてしまったんだよ。ワタシは別に、人を救いたかった訳じゃないんだって」
テリアは、人を救いたいなどと思った事は無かった。
自分が生きる事すらも必死だった人間が、他者の事を思いやる余裕などありはしない。
テリアはただ、たった一つの思いを貫いていただけなのだ。
「ワタシは……コースケに傍にいて欲しかった。コースケの傍にいたかった。ただ、それだけなんだよ」
それが唯一にして無二の真実。
テリアは、浩介に対してただそれだけを願っていたのだ。
けれど、彼の願いはそれと反するものであった。故にこそ、テリアの手は彼に届かなかったのだ。
空しさと共に苦笑を零し、彼女はその視線を葵へと向ける。
「だからさ……私はもう、怪異を追う探偵にならなくていい。もう怪異を追う必要も無い。そう思う。ワタシは……葵を独りぼっちにしたくない」
「…………」
「危険になんか飛び込む必要は無い。ワタシは、ワタシなりに幸せになるよ。そして、不必要なリスクを背負わないで、葵の事も幸せにする」
だからこそ――こんな所で終わる訳には行かない。
その決意を新たに、テリアは顔を上げる。
そんな彼女の耳に、小さくささやくような声が届いていた。
「……ぁり、がと」
聞き逃す事も無くそれを聞いて、テリアは小さく笑みを浮かべる。
もしも下を向いて確かめていれば、疲労以外で紅潮した葵の顔を見る事が出来ただろう。
けれど、テリアにとっては、ぎゅっと握り締められる小さな掌だけでも十分だった。
と――
「……あ」
「ん? 葵、どうかしたの?」
「日記の紙、文字が浮かんでる……秋穂さん、見つかったって」
言いつつ差し出された紙を受け取り、テリアはその内容に目を通す。
杏奈の日記の切れ端に浮かび上がっていたのは、杏奈が秋穂を発見し、襲い掛かってきていた怪異を鎮めたと言う話だった。
『凄かったんだよ。杏奈、まるで別人みたいだった』
「聞いてはいたけど、大した特技だね……夏祭りの時でも見てみたいよ」
杏奈の家である香御城神社は、山の中にあるとは言えそれなりの規模を持っている神社だ。
町内での発言力もそれなりにあり、夏祭りは神社が主体となって行われている。
そこでなら、普段以上に巫女としての仕事をこなす杏奈の姿が見られるだろう。
それを思い浮かべ、テリアは小さく笑みを浮かべる。
(戻らないといけない理由なんていくらでもある。コースケがいなくなったぐらいで絶望するほど、ワタシは弱くない)
幸せになると、誓ったのだから。
だからこそ、諦めるような理由など微塵も無い。
こんな所で負ける訳には行かないのだと、テリアは自分に対してそう強く言い聞かせる。
(だって、ワタシは――)
その先を思い浮かべようとして――テリアは、刺すように感じた冷たい感覚に、はっと顔を上げていた。
一瞬、悪寒が走ったのかと思い、周囲へと視線をめぐらせる。
けれどテリアは、すぐさまその間違いに気付いていた。
この冷たさは、恐怖による錯覚ではない。
「ねえ……なんか、寒くなってるよ」
「気のせいじゃない、か……何だこれ、実際に気温が下がってきてる?」
俄かには信じがたい出来事に、テリアは重心を落としていつでも動けるようにしながら周囲を警戒する。
吐く息は白く染まり、冬のような冷たい風に包まれている。
その中で暖かい葵の手をぎゅっと握り締めながら、テリアは必死に思考をめぐらせていた。
(冬に出る都市伝説? 思い当たるのは何個かあるけど、一体どれだ……?)
テリアには、都市伝説の類であればたいていの存在は知っているという自負がある。
しかしながら、必ずしも知っているだけで勝てるとは限らないのが怪異と言う存在だ。
元は作り話や逸話であるが故に、対処法が存在しないと言う場合があるのだ。
姫乃のようにいかなる怪異が相手でも一刀の下に両断してしまえるような力があれば別だが、生憎とテリアにそれ程の力は無い。
現状持ちうる手段の中で最も有効なものは、以前浩介が持っていたラジオであった。
(妖怪じゃなきゃ何とかできるけど……何が来る? 冬の怪異……或いは、北国の――)
そこまで思考し、テリアは顔を上げる。一つ、思いついた存在があったのだ。
テリアたちが放り出されたのは、三上町のほぼ中心部から少し外れた場所。
即ち、三上駅の近辺だった。
目標となる自然公園には少々距離があり、駅を通るか踏切を通るかしなければ、辿り着く事は出来ない。
逃げ場の少ない閉鎖空間を嫌ったテリアは踏み切りを通る事を決めていたのだが――その際に、一つ考えた存在があったのだ。
有名で、それでいて単純に恐ろしい、そんな存在。
――カンカンカンと、踏切が閉じる音が鳴る。
「え……どうして、電車がくるの?」
「ッ……初夏だし、土地は南の方だし……出ないだろうと思ってたのに、こう来るとはね」
季節も土地も違う。けれど、怪異を操る存在は、そんな事などお構い無しだった。
都合のいいように、逸話ではなく環境自体を歪めてしまったのだ。
そのあまりの異常に、流石のテリアも絶句する。無茶苦茶にも程がある力だ、と。
元より常識など通用しない相手であったが、このような事態は想定していなかったのだ。
「寒い……」
「急いで抜けるのは……無理か」
怪異は元々理不尽なほどに足が速いものが多い。
無理に走り抜けようとしたところで、追いつかれるのがオチだろう。
先ほどまで火照っていた体が急激に、そして必要以上に冷やされていくのを感じながら、テリアはじっと隣を走る線路を視線で追う。
――ガタンガタンと、電車の走る音がする。
「ぁ……ねえ、あそこ! 人が――」
「葵、見ちゃ駄目だ」
視線の先、線路の間に存在する踏み切り。
そこに、動く人影を見つけて、葵が指をさす。
けれど、テリアはその葵の視界を手で覆い、隠していた。
分かっていたのだ。現れる怪異が、一体どのような存在なのかを。
そして、この領域に入り込んでしまった人間が、自分たち以外に存在しないと言う事を。
だからこそ、テリアは目を逸らさずにじっと見据える。
スーツを着た髪の長い女性、テリアの見知らぬその姿が――走り込んできた電車によって、真っ二つに轢き潰されるのを。
「やっぱり――」
潰れた下半身と、千切れ飛んだ上半身。
ぐるぐると回転するそれは、踏切から出て道路へと放り出され、地面へと叩きつけられる。
どう見ても即死だ、生きている訳が無い。
けれど――女性の上半身は、地面に手を付いて体を起き上がらせた。
「――テケテケか!」
都市伝説の中でも特にグロテスクな、踏み切りに関連する怪異。
寒い日の夜、電車に撥ねられた女性は身体を真っ二つに分断されてしまう。
けれど、その寒さによって血管が萎縮し、出血を免れた女性は、上半身だけで数十分の間もがき苦しみながら生きていた――そんな話だ。
そして、それ以降現れるようになった亡霊は、上半身のみながら凄まじい速さで移動し、人を襲って己と同じ苦しみを味わわせると言う。
危険度の高い、致死性のある怪異。見ただけで死んでしまう程ではないが、襲われれば逃げられない。
凄まじい速さで手を動かし、一直線に向かってくる怪異を見据えながら、テリアはそんな情報を思い出していた。
そして――小さく、口元に笑みを浮かべる。
「お前たちなんかに、あげないよ……この子は、絶対に渡さない」
葵の眼を覆い、抱きしめる手に力を込める。
例えどんな怪異を相手にしたとしても、絶対に譲るつもりは無いと。
市ヶ谷浩介と言う夢を失って、それでも尚、テリアが信じ続ける思い。
それを噛み締めながら、彼女は一つの言葉を口にした。
「だからお前は……『地獄に帰れ』ッ!」
『ぎぃっ、ぃぃいいいいいいいいッ!!』
強い言葉が、強い意志が響き渡る。
そしてそれと同時に、時速100km以上の速さで接近してきていたテケテケは、引き攣ったような悲鳴を上げながら消滅していた。
テリアが口にした言葉こそが、テケテケを退散させる呪文。
致死性の怪異を前にしながらも、一切恐れる事無くその言葉を口にしたテリアは、視線を上げて時計塔を睨み据えた。
「だってワタシは、葵のお姉ちゃんだから。同じ、コースケの子供だから。だから……絶対に、渡さない!」
冷たい風が、吹き抜ける。
それはテケテケという怪異を形成していた空間が消える前に残した最後の名残。
初夏の暖かな空気が入り込んでくるその中で、テリアはただ、強くその決意を心の中で反芻していたのだった。




