100:囁く声
漆黒の衝撃が過ぎ去った後に広がった、黒く染まる町。
そしてその中心に聳え立つ、捩れて骨が飛び出しているかのような形状をした歪な塔。
それらを見上げて、賢司と姫乃の二人はしばし呆然とした表情を浮かべていた。
しかし、いつまでもそうしている訳にも行かない。
この場所が危険なのだという強迫観念にも似た思いは、すぐさま二人の中にも湧き上がってきたのだ。
「とりあえず移動しなくちゃ拙いとは思うが……ヒメ、大丈夫か?」
「うん、私は大丈夫。賢司君の方は?」
「ああ、俺も無傷だ。何の問題もない……と、この状況じゃ言い切れる訳でもないか」
明らかに異常な状況。
突如として薄暗く見覚えのない世界に放り込まれるこれは、今までの怪異でも幾度か体験してきた異界と同じ。
しかしながら、二人の直感はこの異界が今までのそれとは異なっている事を察していた。
(そう……何ていうか、今までの異界ってのは現実味が無かった)
今までの怪異を思い起こし、賢司は胸中でそう口にする。
セピア色の風景に包まれた公園の一角。黒いハリボテのような夜の校舎。
それらはどれもこれも、現実味に欠ける光景だったのだ。
しかしながら今彼らがいるこの異界は、強い違和感を感じるものの、そこにある物自体は確かに存在しているように思えてしまうのだ。
それが余計に違和感を際立たせている原因でもあるのだが――
(とにかく、今までと同じだとは思わない方が良さそうだな)
何しろ、この場所は怪異の根本となっている存在が作り上げた空間なのだ。
僅かでも油断すれば、すぐさま危険な領域まで追い込まれてしまう可能性が高い。
そう考えつつ今後の作戦を練っていた賢司に対し、姫乃が上方を見上げながら声を上げた。
「ねえ、賢司君。あそこ、行かないといけないって思うんだ」
「ヒメ? あそこって、あの塔か?」
賢司の問いかけに対して、姫乃は頷く。
捩れ、歪み、狂った時を刻む時計塔。そこを中心に渦を巻いている自分と同じ力を感じ取りながら。
その視線の中には、かつて怪異と相対していた時のような恐怖は存在していなかった。
幾度も恐怖と戦ってきたその経験は、確かな力として姫乃の中に蓄積されていたのだ。
そんな姫乃の様子に、その強い覚悟に気づきながらも、賢司は案ずるように声を上げる。
「本当に大丈夫なのか? お前が行くべきだって言ってるっていう事は――」
「うん、あそこにいるんだと思う」
怪異の根本、狂い果てたもの、逸話の王。
全ての始まりにして、歯車が狂ってしまった元凶。
もしも彼が力を持っていなかったとしたら、このような事にはならなかった筈なのに――そんな思いは、常に賢司の中にあった。
しかし同時に、市ヶ谷英一という人物は、賢司から見ても尊敬に値する者だったのだ。
故にこそ、決着を着けなければならない。既に終わってしまったものならば、引導を渡すべきだ。しかし――
「相手は、無茶苦茶な存在だぞ?」
「分かってるよ。いつもいつもいづなさんと修行してきたんだもん、あの人たちがどれぐらい凄い存在なのかって事ぐらいは、十分に分かってる。そして――」
一拍、言葉を詰まらせるように姫乃は息を吸う。
それを告げる事を、躊躇うように。
「手を届かせる事が出来るとしたら、それは私だけだって事も……分かってる」
「……ヒメ」
相手を斬ると、姫乃はそう口にしていた。
今まで彼女がその手で斬り捨ててきたものは、すべて怪異によって生み出された存在だった。
それは実在するものではなく、あくまでも情報の集合体。
血が流れる事も無く、斬り捨てれば消えてゆく。
けれど、今回に限っては別なのだ。
「元々は人間で、不幸な事故があったからこうなってしまった……それも分かってる。でも、私が本当に護りたいと思うのは、あの人じゃない」
人を斬る。今確かに存在しているものを終わらせる。
希望があるかもしれないものを、救いがあるかも知れないものを――その全ての可能性を、自らの手で奪う。
本当に護りたいものの為に、決して忘れてはならない約束の為に、姫乃は己が刃の切っ先を定めた。
後は、その護られるものの想いだ。彼がどう思っているかが、姫乃にとっての最後の鍵。
それを知る為に、姫乃は一度目を閉じ、そして真っ直ぐに賢司の方へと向き直る。
「ねえ、教えて賢司君。賢司君は、どうして欲しい?」
「けど、それは」
「私がやりたいの。私が、私達が……みんなが幸せになる為に。大好きな賢司君を、背中を押してくれた杏奈ちゃんとお兄ちゃんを……絶対に、裏切りたくないから」
その為に、姫乃は本来踏み出すべきではない一歩を躊躇わずに踏み出してゆく。
自分の幸せを、大切な仲間たちの幸せを、絶対に誰にも譲りたくないと。
意志で負ければ、力で負けてしまう。例えどれだけの力の差があったとしても、それを認める訳にはいかなかったから。
姫乃は、最後の一歩を賢司に求めた。
「俺は――」
そして賢司も、それを正確に理解していた。
本来ならば踏み出してはならない――いや、普通に暮らしている分には意識する事すらない筈の一線。
それが今目の前にある事を明確に察知して、けれどそれを踏み出してはならないと、そう言い切る事は出来なかった。
賢司は聡明であるが故に、ここで踏み出さなければどうなるかを、正確に理解してしまったから。
「……お前一人に、そんな事をさせたくない」
「賢司君――」
「だから」
姫乃の言葉を遮るように、賢司はそう声を上げる。
やはり認められない。姫乃一人に重荷を背負わせるような行為はさせられないと。
だから――泥を被るのは、一人だけではないのだと。
「戦うのは、全員でだ。ヒメが一人で戦って、一人で英一さんを斬るんじゃない。俺たち全員で戦って、浩介兄さんの最期の願いを果たすんだ」
結果や事実は変わらないだろう。
けれど、そこに伴う意志が違う。全員が共犯なのだと、嘯くように笑いながら。
「力不足を嘆いていたのは、お前だけじゃないんだよ、ヒメ。俺は俺に出来る事をするから、お前はお前にしか出来ない事をやってくれ」
「……うん。ありがとう、賢司君」
賢司の言葉に、姫乃は小さく笑う。
その選択が果たして本当に正しいものであったのかどうかは定かではないが――少なくとも、これで戦い抜くだけの覚悟は出来た。
手に馴染む木刀の重さを感じながら、姫乃は再び黒い時計塔を見上げる。
長いようで短かった日々を思い返しながら、自分に宿った力を確かめて。
あの存在を倒す事が出来るのは、自分だけなのだから、と。
――本当に?
「っ……!?」
「ん、ヒメ? どうかしたのか?」
唐突に響いた声に、姫乃は肩を跳ねさせて周囲へと視線を走らせる。
しかし、近くには人の姿はおろか怪異の気配すらも存在していなかった。
姿を隠している気配もなく、姫乃は困惑しながらも首を横に振る。
「ううん、何でもない。賢司君、そろそろ行こう」
「ああ……気をつけて行こう」
歩き出す賢司と共に、姫乃もまた周囲への警戒を怠らないまま続く。
けれど、その頭の中には先ほどと同じ声が響いていた。
どこかで聞いた事があるような、けれど正確に思い出す事の出来ない声。
――お前は本当に、その程度の力で勝てると思っているのか?
人知を超えた姫乃の力。
姫乃の常識からしても、木刀であらゆる物を斬り裂いてしまうそれは、強力極まりないものだ。
けれど、師であるいづなは、強力であるとは言いながらも『よく斬れる刀』程度であると評していた。
どういう事なのだろうかと、姫乃は己の内側で疑問を反芻する。
(力を限界まで鍛え上げると超越者になる……いづなさんたちはその領域にあるから、私の力を弱いと思ってる?)
確かに強い。けれど、遥か上の視点からすれば、あるのもないのも大して変わらない。
1と10の差も、1億という数字から見れば誤差であるという事なのだろう。
ならば、その1億の領域にある怪異の主はにとって、姫乃の力はどの程度のものなのか。
その可能性に思い当たり、姫乃は僅かに身震いする。
勝たなければならない、勝つための覚悟も決めた。けれど――果たして、それだけで届くのか。
大切な人を護れない事、誰かを失ってしまう事……そして何より、その為に必死で積み上げてきたものが一切通じない事に対する恐怖が、姫乃の中に湧き上がる。
それを認める訳にはいかない、と。
――だが、その力では届かない。
(嫌だ、そんな事は認めたくない)
――桁が違う。領域が違う。画面の中から必死で剣を振っても、画面の前に立つ者には届かない。
(必死で頑張ってきたんだ。その全てが否定されるなんて許せない)
――ならば、同じ領域まで駆け上がるのか?
響いた言葉に――姫乃は、頭を殴られたかのような衝撃を受けていた。
相手と同じ所まで上り詰める。確かにそうすれば、姫乃の剣は怪異の主に届くようになるだろう。
届かぬのならば届く場所まで上り詰めてから手を伸ばす。
それは、至極単純な道理であると言えた。けれど――
(そんな事を、したら)
超越者は人間とは生きられない。
人を越えた時間を歩む事になる彼らは、あの怪異の王と同じように長い時間を狂い果てる事になる彼らは――人と同じ時間を歩む事は、出来ない。
姫乃にとってそれは、何よりも耐え難い事であった。
それは即ち、仲間との離別を意味する事であったから。
(どうすれば、いいんだろう)
声は、再び聞こえなくなる。
元より気配は感じていなかったので、姫乃にはそれが本当にいなくなったのかどうかの判断は出来なかったが。
引っ掻き回すだけ引っ掻き回して去って行った声に憤りを覚えながら、姫乃は先ほどの言葉を必死に考えていた。
それでも、周囲への警戒は怠らぬままだったが。
「ねえ、賢司君」
「どうした、ヒメ? 何かいたのか?」
「あ……ううん、やっぱり何でもない。気のせいだったみたい」
「そうか……分かった。けど、注意は怠らないようにな」
「うん、分かってるよ。賢司君も気をつけて」
思わず縋ろうとして、姫乃は首を横に振る。
自分がすべきなのは、自分にしか出来ない事。怪異の主を斬る事が出来るのは姫乃のみなのだ。
ならば、賢司に余計な事を背負わせるわけには行かないと、姫乃は己を奮い立たせる。
願いは決まっているのだ。杏奈との約束を果たすためには、人の領域を超える訳には行かない。
けれど――
(どうしても、私の力が届かないのだとしたら――)
その時には、覚悟を決めなくてはならない。
出来る事があって、手を届かせたい願いがある。それなのに手を届かせる努力を放棄してしまったら、全てを失ってしまうかもしれない。
もう二度と取り戻せない形で失うのか、それとも自らの意志で捨て去るのか。
その二者択一であるとするのならば、姫乃の意志は当に決まっていた。
(――何をしてでも、私は皆を護る)
誰かを護る事こそが、篠澤姫乃にとっての強い願い。
そして今、護りたいものと、それを傷つける外敵が存在している。
その為に、姫乃の願いはこれまで以上に明確な形となって目の前に存在していたのだ。
だからこそ、姫乃はそこにのみ視線を向ける。
大切な人を護る、ただその為だけに。その覚悟を持って、姫乃は黒い時計塔を見上げていた。
――その様を見つめて、銀の炎が嗤っている事にも気付かずに。




