10:怪異調査部、出動
夜。私は誠也にひきこさんの事を告げる事無く、こっそりと家を後にしていた。
幸い今日はお兄ちゃんは帰ってきておらず、気配を殺せば気付かれるような事はない。
一応書置きは残しながらも、私はそのまま石段を降りて外へと向かう。
直接相対したからこそ分かる……あいつは危険だ。だから、そんな場所に誠也を関わらせるつもりは無かった。
まあ、それを言い出したら私だって関わるべきじゃないのだろうけど、最早乗りかかった船。
それに、こうも知ってしまったら、嶋谷と先輩だけに任せるのはどうしても不安だった。
「よっ、と……お待たせ、三人とも」
「大丈夫、時間ぴったりだよ杏奈ちゃん」
私が石段を下りきると、そこにはもう既に仲間の姿があった。
家が比較的近い兄妹はともかく、今は嶋谷までもがここにいる。
まあ、普段の待ち合わせ場所だと桜並木に近くて、ひきこさんが現れる可能性があるからと言う事でこの場所になったんだけど。
「それで、先輩は?」
「現地集合だそうだ。まああの人の事だし、鏡はしっかりと用意してるだろう。で、お前達も―――」
「勿論持っているぜ!」
「……いや、でかい方が向けやすいのは分かるけどさ。お風呂場の鏡ってどうなのよ、トモ」
お風呂場で壁に備え付けてあるような大きい鏡を掲げるトモに、私は思わず半眼を向ける。
使えるかもしれないけど、どう考えてもかさばって邪魔だ。
ちなみに私は普段使っている持ち手付きの鏡を持ってきている。
大きすぎるという訳ではないけど、顔全体を映せる程度にはサイズがある。
で、私達はそれだけど……どうやらヒメは、きっちりと戦うつもりらしい。
「ヒメは……出来れば出番が無い方がいいんだけどな」
「ええっ!? 私気合入れてきたのに!」
「いや、戦闘が無い方がいいのは当たり前でしょ、ヒメ」
胴衣姿に竹刀袋を背負ったヒメが、嶋谷の言葉にショックを受けたように目を丸くする。
ヒメの事だから、鏡を向けて何処とも分からない所に逃げられるよりは、自分が引き受けて戦うつもりなんだろう。
分かり易く無謀な事をしているけれど、この子は一度『護る』と決めたら絶対に自分を曲げない。
やりたいようにやらせるべきだ、などとは言わないけど……多分、言っても無駄だろう。
若干納得しがたい部分はあるけど―――とりあえず、準備は整った。
「よし、出発だ。雨は降ってないし、桜のある場所まではまだ遠いけど……油断するなよ?」
「うん、大丈夫。私が集中してるから、異変があったらすぐ教えるよ」
「ヒメは能力が高いからな。けど、ヒメ任せにばかりするなよ?」
「分かってるわよ。不測の事態があった時に困るからね」
ヒメの能力は信頼しているけれど、それに引っかからないような何かがあったとき、誰かがフォローをしなくてはならない。
誰か一人が楽しているようでは駄目だと、嶋谷は私達に対して忠告する。
そして、そんなモノは私達にとって言われるまでも無い事だった。
頷いて歩き出した嶋谷の後に続き、私達も夜道を進んで行く。
街灯がある道を選んでいるとは言え、やっぱり夜は薄暗く、これから向かう場所の事も相まって異様な不気味さをかもし出している。
ただ、こんな時真っ先に怖がり始めるヒメは、毅然とした表情で前を向いていた。
緊張していない訳ではない。竹刀袋を持つ手は、強く握り締められているみたいだったから。
けど、その恐怖の感情を押さえ込んでしまうほどに、ヒメの意志は真っ直ぐ前を向いているのだ。
そんな様子に頼もしさを感じながら、私は前を歩く嶋谷へと向けて声を上げる。
「ねえ嶋谷、ひきこさんを止める方法だけど……それが出来るだけの調べはついたの?」
「ああ……」
少し難しそうな表情で、嶋谷は頷く。
確か、あのひきこさんには元となっている人物がいて、それが自分はひきこさんであると思い込んでいるような状態なんだと言っていた。
だからこそ、自分がひきこさんではない事を認識させてやる必要があると。
けど、そんなものどうすればいいのか……結局その辺りは、テリア先輩に頼る事になってしまっていた。
私の疑問の言葉に対し、嶋谷は肩を竦めながら返す。
「それなりに調べは付いていたみたいだ。相変わらず、何処からそんな資料を持ってくるのか分からない所までな。けど、あくまでも『それなり』でしかない」
「……つまり、あのひきこさんの本名は分からなかったと?」
「決行を指示した以上、先輩はこれ以上普通に調べても無駄だと判断したんだろうな」
あの人が無駄だと判断したのであれば、それは確かに無駄なのかもしれない。
警察の捜査資料に近い資料をまとめる事が出来るのだから、あの人以上に情報収集能力がある人は、少なくとも私の知り合いにはいないだろう。
しかし、そうなればどうやってひきこさんの名前を調べればよいのだろうか。
「えっと……名前が分からないとやっつけられないの? 剣でやっつけるのは無理かな?」
「正直不可能かどうなのかは知らないが……多分それで倒しても、都市伝説が終わった事にはならないんじゃないか?
それに、ここから調べる方法が全く無いって言う訳じゃない」
「はーい! ひきこさんから直接名前を聞けば万事解決だと思いまーす!」
「トモー、黙れ」
戯言を言い始めたバカをとりあえず黙らせ、私は嶋谷に注目する。
コイツは今、方法があると言った。
そして嶋谷や先輩がここに来ていると言う事は、つまりそれが唯一の可能性であるかもしれないという事。
危険を冒してでもそれをする必要があると、嶋谷はそう考えているのだ。
「ひきこさんは、引き摺った死体を自分の部屋に飾る」
「……まさかとは思うけど、そこに足を踏み入れようって言うの?」
「昼間に会ったひきこさんは、部屋から持ち出したと思われる死体を引きずっていただろう。つまり、ひきこさんが現れる時にはその部屋も存在している可能性がある」
嶋谷の言いたい事は分かる。
その部屋の場所こそが、被害者の見つかった場所という事だろう。
そこにひきこさんの部屋が現れ、そこならばひきこさんに関する情報が手に入るかもしれないと、嶋谷はそう言っている。
虎穴に入らずんば虎児を得ず……まさか、正にそんな状況と言えるような場所に突撃する事になるとは思わなかった。
「それをやるだけの価値はあると……アンタは、そう言う訳ね?」
「ああ。けど、今更俺一人で行ったら、お前達は許してくれないだろ」
「おうよ、今更何を言ってやがるんだか」
サムズアップして言い放つトモの言葉に、嶋谷は嘆息と共に肩を竦める。
本当に、こんな危険な都市伝説は予想外だったんでしょうね……こんな事が何度も起こるような部活だったら、嶋谷は絶対に私達を誘って来ようとはしなかっただろう。
まあ、いずれはバレてたかもしれないけどね。
「とにかく、そういう事だ。危険が伴う事は今更言うまでも無いが、相手の懐に飛び込もうとしているようなもんだ。十分に注意しろよ?」
「……うん、分かってるよ」
「了解……アンタも責任とか感じてないで、気をつけなさいよね。それからヒメも、無駄に気負わない」
「あう」
こつんとヒメの頭を叩き、私は小さく苦笑する。
ヒメの事だ、危険に入ってゆくのならば、自分が頑張らなければと考えているのだろう。
全員頑張るんだから、一人だけで気負ってるんじゃない、と言った所だ。
こいつらは本当に、世話が焼けるんだから。
「ほら、行くわよ。こんなふざけた事件、今日で終わりにするんでしょ?」
「ああ……そうだな」
嶋谷は苦笑し―――そして、顔を上げる。
その視線の先には、いつも学校へと向かう桜並木の道が存在していた。
今はそこを通る訳では無いけれど、否が応でも実感させられる。
自分達は、今非日常の世界の中に足を踏み入れたのだと―――そこから溢れ出す異様な気配を孕んだ空気が、そう告げていた。
本能的に感じた恐怖に、私は一瞬足を止めかける。
けれど……それでも、それは一瞬の事に過ぎなかった。
こんな場所で止まっていられないのだと、自分自身に言い聞かせる。
「……杏奈」
「舐めんなっての。大丈夫よ、行きましょう」
仲間の足を引っ張る訳には行かない。
ヒメがこんなに頑張ってるのに、私が二の足を踏んでどうするんだ―――そう、自分を叱咤する。
そうして笑い、私は角を曲がって公園の方へと向かう。
嶋谷は若干心配そうな表情を残していたけれど、それでもそれ以上の追求をする事は無く、黙って付いて来てくれた。
それに胸中で感謝しながら、皆で公園の方へと向かってゆく。
―――その先に、一人の人影があった。
「……!」
「落ち着け、先輩だ」
ぴくりと反応し、背負った木刀に手を伸ばしかけたヒメを嶋谷は押し留める。
そして、そんなヒメを落ち着かせるように、トモがその頭を後ろから軽く小突く……とりあえず、大丈夫でしょう。
さて、先ほど見た人影は、嶋谷が言うように先輩のものだった。
一人で先に行ってしまう可能性も考えてはいたけれど、どうやらちゃんと私達の事を待っていてくれたらしい。
彼女は、桜の花びらが届かないギリギリの範囲で、じっと公園の中の事を見つめていた。
とりあえず、わざと足音を立てながら、私達は先輩の方へと向かって歩いてゆく。
そして目論見どおり、テリア先輩は私達の接近に気付いてくれたようだった。
「やほー。ああ、ちゃんと全員揃って来たんだねぇ」
「こんばんは、先輩。一人で先走ってなくて良かったです」
いつも通りの表情で笑うテリア先輩に、嶋谷は苦笑交じりに頷く。
そんな彼の言葉に対し、先輩はやれやれと首を振って肩を竦めて見せた。
「いやいや、一人でアレの対応するのは大変だからねぇ。少なくとも賢司君がいないとキツイのなんの」
……話に無駄なエロ成分を挟んでこない感じ、どうやら今日も真面目モードのようだ。
そういう所で判断するのもどうかとは思うけれど、それぐらいしか差が無いから困り者である。
まあ、真面目であればこの人は本当に頼りになる……少なくとも、情報収集に関する実力は確かだ。
それに、今まで調査部で都市伝説を相手にしてきた以上、この人以上にノウハウのある人はいない。
ここは、大いに頼りにさせて貰うとしよう。
「さて。今回すべき事は、賢司君から聞いたかな?」
「……ひきこさんの本拠地に乗り込んで、その本名を探る事……ですよね」
「うん、そうだね。それ以外にも情報があれば尚いいけれど、多分名前だけでも十分な筈だ」
けれど、と先輩は一つ言葉を置く。
相変わらず、何処まで本気何だかよく分からない口調ではあるけれど―――そこには、確かな重さが存在していた。
思わず、生唾を飲み込む。
「間違いなく、危険だよ。言っては悪いけれど、君達の身の保障をする事は出来ないし、責任を取る事だって出来ない。ワタシは君達に強制するつもりは無い―――それはつまり、全て自己責任で付いて来いと言っているんだ」
「先輩、態々そういう悪ぶった言い方しなくても分かってます」
先輩の言葉を途中で遮り、私は真っ直ぐと視線を逸らさぬようにしながら声を上げる。
この間からの先輩の姿しか見た事が無いから、普段との落差がはっきりしている。
だからこそ分かる点もあるのだ……この人は、都市伝説に対応する時は本当に本気で向き合っている。
昔何かあったのか、それは分からない。けど嶋谷が私達に何も告げず先輩に付き合っていたのは……多分、嶋谷が共感できるだけの理由があったという事なんだろう。
テリア先輩はきっと、一人だけでもこの怪異に挑んでゆく。
嶋谷はそれを見捨てられなくて、そして私達は嶋谷だけにそんな事をやらせられない。
そしてそれは―――
「私達は、皆自分がやりたいからここに来てるんですよ」
「皆を護る為に剣の腕を磨いてきましたから……こんな時に見ているだけでは、その意味も無くなってしまいます」
「そして妹の雄姿が見られるのであれば、地の果てからでも駆けつけるゥ!」
トモの発言は相変わらず分かりづらいツンデレだったけど、結局皆、自分の世話ぐらいは見られるからここに来ているんだ。
だからこそ、私達に対して遠慮すんなと、私達は先輩に対して言外にそう告げる。
そしてそれが伝わったんだろう。先輩は、小さく苦笑を浮かべ、頷いて見せた。
「ワタシも人の事は言えないからなぁ……ま、そこまで言えるんなら文句は無いよ」
怪異がどれほど恐ろしい物であるか、先輩は私達に伝えようとしていた。
けど、そんなものは一度襲われれば十分に理解できる。
グロテスクな光景に加えて、あの形相で一度足をつかまれたのだ。下手すりゃトラウマになるほどの出来事である。
けど、それでも退こうなどとは思わない。私は……私達四人を、信じていた。
ちらりと横目で皆を見れば、やはり浮かんでいるのは同じような表情で―――同類なんだという事を、しっかりと理解する。
「さて、それじゃあ行くけど……鏡はしっかり持ってる?」
「応よ!」
先輩の言葉に、ドヤ顔で風呂場の鏡を取り出すトモ。
流石の先輩も若干呆れた表情を浮かべていたけれど、とりあえずツッコミを入れる事無く頷いて見せた。
「うん。それは効く事が確定してるから、全員手放さないようにね。それじゃ―――」
「あの、先輩」
と―――そこで、ヒメが先輩へと向けて声を上げる。
ヒメは背負っていた竹刀袋を下ろし、その紐を解いていづなさんから貰った木刀を取り出すと、それを片手に持ちながら静かに意識を集中させた。
それは自己暗示にも似た精神集中。それと共に、ヒメの眼の中からは一切の恐怖感が消え失せて行く。
そして、剣士としての自分を築き上げたヒメは、真っ直ぐに先輩へと告げた。
「ひきこさんが出てきたら、私に任せてください」
「……まさかとは思うけど、それでひきこさんと戦うつもり?」
「はい。でも、これでは倒し切れないことは分かっています……だから、私の役目は、皆が調べている間ひきこさんを引きつけておく事」
「ッ……無謀だよ、危険過ぎる」
先輩の言う事は尤もだった。
あんなバケモノじみた身体能力をしている都市伝説相手に、学生の剣道で挑むなんて無謀にも程がある。
けど……ヒメの剣術は決してそんなモノではなかった。
一度、私はお兄ちゃんといづなさんが剣の訓練をしているのを見た事がある。
そしてその姿と、ひきこさんの動きを比べて考え―――相手になんてならないと、そう直感的に理解できてしまったのだ。
お兄ちゃんといづなさん、どっちが相手だったとしても、ひきこさんは何一つする事無く首を刎ねられるだろう。
そしてヒメはその弟子……戦える可能性は、十分にあった。
「信じてやって下さいよ、先輩。うちの妹は、誰にも負けない! 正しくパーフェクトな妹なのだから!」
「あー……っと、ちょっと先輩、耳を貸してください」
まあ、トモの説明で納得しろというのは無理だろう。
嶋谷がこっそりと告げた言葉に―――テリア先輩は、驚きに目を見開いて見せた。
そしてまじまじとヒメの事を見つめ、ぽつりと声を上げる。
「へぇ……あの有名な古流剣術の傍流なんだ。にわかには信じがたいけど……君達全員がそう言うなら、信じてみようか」
「……ちょっと嶋谷、いづなさんの剣術の正体なんてむしろ私達の方が知らないんだけど」
「いや、まあ……個人的に調べてみただけの事だからな。気にするな」
コイツはまた勝手にそういう事を……まあ、今はいいか。納得して貰えたんだし。
とりあえず先輩は頷くと、片手に懐中電灯、片手に鏡を持ち、公園の方へと振り返った。
そして、一度私達の方へちらりと視線を向け―――声を上げる。
「それじゃ……行くよ、皆」
その言葉に、四人でこくりと頷く。
そして私達は、異様な雰囲気を放つ公園の中へと、足を踏み入れたのだった。