01:神代杏奈の日常
ども、Allenです。
本日より連載開始となります。
プロローグ3話は毎日更新、その後1章からは隔日更新となります。
無数の囁き声のようなざわめきが、周囲を満たす。
否―――それは事実、無数の人間が発した聲そのものであった。
幾千幾万幾億幾兆、数え切れぬほどに積み重なった聲達が、異音となって鉄が軋む音であるかのごとく不快な響きを放ち続ける。
その、中心で―――
『―――』
それら異音に押し潰されるかのごとく、或いは塗り潰されるかのごとく、それでも一つの存在が確かにそこにあった。
暗く、昏く、無数の聲という汚泥に塗り潰され、固められ、原形を留めなくなった存在。
しかしそれは、そのような異常そのものに成り果てて尚、己というものを失っていなかった。
『―――ぃ』
それは決して、自我を保っていると呼べる状態では無いだろう。
とうに気など触れている。無限の言葉達に埋め尽くされ、その心を削られ、最早原型など思い出す事も出来ぬほど。
しかしそれでも、確かな感情が、その存在に一つの意思を保たせていた。
それは―――最早、狂気の域にまで達した極大の怨嗟。
『許さない……赦さない、ユルサナイ』
響く声は無数の雑音に塗れ、元あったであろう声音を示さない。
男のようでありながら女のようであり、若者のようであり老人のようでもある。
しかしそれでも、ただその怨嗟は、変わらずそこに在り続ける。
そして―――その存在が腕と思しき部分に抱く、二つの亡骸だけが。
『ユルサナイ―――何故だ、何故奪う。如何してどうしてドウシテ奪われなければならなかった私はただ生きていただけだ奪われる理由など無いそれなのに何故奪われねばならないなぜ変わらねばならない返してくれ返してくれ私の世界を私の日常を私の全てをそれだけなのだなのに何故だ許さないふざけるな返せ返せ返せワタシを返セ返さぬナラば奪い取ルノミキエロコワレロツブレロクダケロノロワレロシネシネ死ネ―――何モカモ』
膨大な怨嗟が吐き出される。
それと共に周囲は歪み、その怨嗟による理を垂れ流す。
汚泥に包まれた影は天を仰ぐ―――その先に在るモノへ、己が怨嗟を届かせようとするかのごとく。
そう、ただ灼熱の熱量を以って天を焦がし銀に輝く炎へと。
何よりも純粋な憎しみを抱く影は、その全てを吐き出した。
『■■――――――ッッ!!』
そして、全ては爆発的に広がり―――
それを見下す、天を焦がす銀の輝きは、どこか嘲笑するように揺らめきながら消えて行った。
* * * * *
朝の清廉な空気が、神社の境内を満たす。
そこに舞い散る桜の花弁を竹箒で掃きながら、私はいつも通りの巫女服でいつも通りの勤めを続けていた。
春先の麗かな陽気の中、時間の早さ故の眠気を堪えながらも掃除を続ける。
けれど―――
「はぁ……桜は好きだけど、掃除は面倒よねぇ」
いくら掃いた所で、次々花弁を落とされれば、掃除をした意味など無くなってしまう。
けれど、それをしなければ、今度は花弁が黒く染まって地面を汚してしまうのだ。
清浄なる神社の中では、そのような汚れは赦されない。
私の家である香御城神社には、とても大きな桜の木が生えている。
別にそんな歴史の長い神社って訳でも無いし、偶然生えてた樹が普通よりも大きく育ったってだけだけど、何代か前の神主が喜び勇んでご神木扱いしてしまったらしい。
まあ、別にやるなとは言わないけど、掃除する身にもなってほしいものだ。
これだから、春先はどうにも憂鬱になってしまう。
と―――
『―――ファイッ! オー! ファイッ! オー! ファイッ! オー!』
鳥居の先、石段の下から威勢のいい声が響いてくる。
私の通っている学校の野球部辺りの連中だろう。うちの石段は長く、練習には最適との事だった。
正直、あんなのを昇ったり降りたりするなんて、全くやる気にならない。
……まあ、日常的に昇り降りしてる訳だから、私の足腰もいつの間にか強くなってる訳だけど。
「しっかし、熱心だねぇ。まだ部員を獲得するのに四苦八苦してる時期だろうに」
時期は春。何処の部活も卒業生が部からいなくなり、新入生を新たなメンバーに加えるために執心している時期だ。
部の数がとにかく多いうちの学校なら特にそう。
この時期から朝練やって真面目な所でもアピールしたいんだろうけど、そうそう上手く行くだろうか。
……と、そろそろ上がってくる頃か。
「よし、昇り切ったらいったん休憩だ! 神社の人に迷惑かけるなよ!」
『押忍!』
いや、その叫び声だけで既に迷惑だから……まあ、うちのお父さんとお母さんが許しちゃった訳だし、私は何とも言えないけど。
小さく嘆息しながらその様子を眺めていると―――鳥居の先から、ユニフォームを着た連中が雪崩れ込んできた。
一部ユニフォームが無く指定の体操着の奴らは、新入部員か体験入部か。
まあ、私の知ったこっちゃないけど。
流石に石段登りは疲れたのか、とりあえず通路は開けつつもその辺に座り込んでる連中を他所に、彼らを率いていた人物―――高等部部長である坂崎清正先輩が、私の方へと向けて歩いてくる。
「神代、今日も場所提供ありがとうな」
「あー……まあ、うちの両親が許した事なんで、神社を汚したり参拝客の迷惑にならなければ、別にいいですよ」
実に爽やかなスポーツマンである。
私が通ってる学校は中高一貫で、私は中学二年。
けれど、この野球部の連中の事は、小学校の頃から知っている。
うちの神社を朝練に提供し始めたのは、その頃からだったからだ。
まあ、なので毎朝挨拶を交わす程度の仲……そう言うと何か微妙だけど、二言三言しか喋らないので特別仲がいいという訳でもない。
どっちかと言うと、この先輩と仲がいいのはお兄ちゃんの方だ。
今日は帰ってきてるけど、呼んで来ようかな―――
「うおお! ホントに巫女さんだ!」
「美少女巫女萌え!」
「巫女+竹箒=ジャスティス」
「新入部員の一部、やかましい!」
騒ぎ出した一年連中に、部長からの叱声が飛ぶ。
一部、外部から入ってきた高校の方の新入部員のほうも騒いでたわね、あれ。
うちの学校は、中学からの進学プラス、受験で入ってきた人が高校に進むから、高校から人数が増えるんだけど。
って言うか―――
「部長さん、毎年思うんだけど……もしかして私を新入部員勧誘用のダシにしてないでしょうね?」
「はははは、まさか。誠人さんに殺されてしまうよ」
うん、まあ、お兄ちゃんは確かにその辺過保護な所あるけど。
とは言え、実際広告塔になっている事は事実らしい。
朝練に参加すると巫女さんに会えるって本当か、と廊下で叫んでるバカがいたのを見てしまったことがある。
まあ、それに関しては昔からだし、今更気にするほどの事でも無いんだけど―――
「神代ー、お前はいい。姫乃ちゃんと霞之宮さんを出せ」
「篠澤妹が練習している場所は何処だ!」
「兄がいないうちにご挨拶を!」
「嫁にしたいんだけどマジで」
「帰れアンタ達! うちのヒメは何処にもやらん!」
騒ぎ出した同学年の連中へ竹箒を投げつける。
槍投げの要領で掃く方を前にして投げつけたから、当たったら結構痛い。
途端に逃げ出す連中に嘆息しながら、私はじろりと横目で部長さんの方へと視線を向けていた。
「しごいてください、徹底的に。アホな口が二度と利けなくなるくらい」
「はははは……よし、休憩は終了! 迷惑をかけた連中はメニュー追加だ!」
悲鳴を上げる連中に胸中でざまあみろと言いながら、石段を降りてゆく連中を見送る。
何だかんだ騒がしいけれど、結局はいつも通りの日常。
それをしみじみと実感できるのは、一時期、それを失ってしまっていたからだろう。
一年ぐらい前―――私のお兄ちゃんである神代誠人は、ある日突然失踪した。
それこそ何の前触れも無く、そして痕跡すらなく、綺麗に消えてしまったのだ。
家出だの事件に巻き込まれただの色々言われていたけれど、警察の捜査では何一つ見つける事は出来ず、そのまま何ヶ月か過ぎて―――ある日、ひょっこりと帰ってきた。
今まで心配してたのは何だったんだと、そう言いたくなるようなあっさり加減。
しかも友達だか恋人だか色々連れて、だ。色々文句も言ったし、いい歳して大泣きしちゃったし……でも、それでも嬉しかった。
それで、ようやく実感できたんだ。これが、私の日常だったんだって。
ただ―――
「ぃよう杏奈! マイスゥィ~トなシスターは師匠と練習中か?」
「……来たわね、トモ」
いつの間にか石段を三段飛ばし辺りで登りきっていた変態が、何やら妙なポーズを決めながらびしっとこっちの事を指差しつつ声を上げる。
篠澤友紀。通称トモ。私の幼馴染にして、一番の親友の兄。
ちなみに高校一年だけど、私達の助けが無ければ進学すら危うかった。
つまり、本物のバカだ。
「はぁ……ヒメならいつもの場所で練習中。そろそろ終わるんじゃない? 今日はいづなさんだけじゃなくて、お兄ちゃんと桜さんもいるし」
「ぬう、師匠だけではなくそれほどの豪華メンバーとは……やるな」
「何がよ、何が」
まあこいつの事だから、特に何も考えずに言っているんだろう。
こいつと、コイツの妹であり私の親友である同い年の篠澤姫乃、そしてトモと同学年のもう一人―――それが、私の幼馴染。
まあ、私の弟である誠也もそれに混ざってたりする事は多かったけど。
「……まあ、いつもの事だし気にしないけどさ。とりあえず、ご飯食べてくんでしょ?」
「ああ、ヒメと俺の分の食材は調達済みよォ! ……流石俺、何という用意の良さ」
「はいはい、分かったから行くわよー」
いい加減掃除も面倒になってきた所だったし……ま、ちょうどいいかな。
こいつ等が……ヒメとトモが、朝うちの家にやってくるようになったのが、私達にとっての新たな日常。
変わってしまったけれど、それでも楽しいと思える―――そんな、大好きな日々だった。
* * * * *
今現在、うちの両親はちょっとした旅行で家を空けている。
いい年してラブラブで、旅行先でもう一人ぐらい子供作ってくるんじゃないかと不安だ。
まあとにかく、今うちにお兄ちゃんを初めとした人たちが良く来ているのは、そんな理由がある。
何かと過保護なのだ、あの連中は。
そんな事を考えながら社務所の玄関を開け、中に入った所で、廊下を通り抜ける弟の誠也と目が合った。
「お、姉ちゃんにトモ兄。兄ちゃんと桜さんがご飯用意してるぞー」
「分かった、手を洗ったら行くー」
「誠人メシに桜さんの手が加わっているだと……!」
「慄いてないで、アンタも手を洗いなさい」
わなわなと震えるバカの後頭部をはたき、靴を脱いで中に上がる。
とりあえず洗面所で二人並んで手を洗ってうがいをしてから、私達は居間の方へと向かっていた。
……しかし、いつの間に篠澤兄妹用のコップとか食器とか用意されてたのかしら。
いつうちに住み始めても大丈夫そうな状況……まあ、トモは兎も角、ヒメはいくらでも住んでくれて構わないけど。
そんな事を考えながら居間の襖を開ければ、そこには既に定位置に座っている誠也と、食器の配膳をしている人の姿があった。
ちょっと暗い印象があるけど、それはむしろ儚げな雰囲気を強めている、そんなイメージの女の人。
「おはようございます、桜さん」
「おはようございまっす、桜さん! 今日はゴチになります!」
「あ、あはは……うん、その、おはよう杏奈ちゃん、友紀くん」
トモの無駄に気合の入った挨拶に、若干引きつり気味な笑顔を浮かべる女性―――桜さん。
お兄ちゃんが帰ってきた時に一緒にいた人で、複雑な事情で一緒にいるらしい。
その時に聞かされた話は正直眉唾だったけれど、実物を見せられてはそうも言っていられなかった。
お兄ちゃんが性質の悪い連中に引っかかってしまったのかとも思ったけれど、桜さんにはそういう悪意の類は全く無い。
トモから食材を受け取っている桜さんの様子を横目に見ながら、私はお兄ちゃんの友人達の事を思い出していた。
メンバーは確か……八人、だそうだ。一人は一度も見たこと無いというか、普通は見れないらしいけど。
「……うん、じゃあ明日の食材と言う事で……ありがとう、友紀くん」
「ハハハ、お安い御用です! 妹のやりたい事をやらせてやるのが兄の本懐! 師匠の下で是非ともいい女になって貰いたい!」
「いや、いづなさんみたいになったらどうするのよ」
あの人はまあ、確かに凄い才女っていう部分もあるけど、それを台無しにして余りあるほどに性格が問題でしょう。
凄い部分に関しちゃ、確かに見習いたいなーとは思うけど。
でも、ヒメはなんていうか、あの天然で守ってあげたくなるような性格こそが魅力なのだ。
まあ、それ以外にも外見とかスタイルとか、男からすりゃ色々魅力的な部分も多いだろうけど。
とにかく、あの無垢なヒメが、いづなさんの性格に染められてしまうのは断じて避けたい。
……まあ、ヒメがいづなさんの修行を受けたがってるのは事実だし、それは止められないんだけど。
私もトモも、ヒメの事は本当に大事に―――
「ふー、いいお湯やったわー」
「おお、師匠! おはようございます! 今日もいいおっぱいですね!」
「おはようさん、トモっち。ひめのんのおっぱいも見事やったで」
「無論! 妹のおっぱいは宇宙一です!」
「いづなさん、お兄ちゃんも!」
―――入ってくるなり頭の痛い会話をし始めたのは、シャワーを浴びて汗を流してきたいづなさん。
そしてその後ろに続いていたのが、話題に上っている本人である私の親友、ヒメこと篠澤姫乃だった。
シャワーで汗を流してきたからか、それともお風呂場で何かあったからか……恥ずかしそうに胸元を押さえるその姿は、女の私から見てもちょっとドキッとする。
そんな抗議の声をあげるヒメに対し、いづなさんはがしっと肩を掴んで諭すように声を上げた。
「ええか、ひめのん。人間の身体ってのはな、基本的に左右でバランスが取れてないモンなんや」
「え? は、はぁ」
基本的に、ヒメは押しに弱い。
だからこそ、変な男が寄ってこないように私とトモと、あと一人でガードしてるんだけれども……流石に、この人は分が悪い。
この人、基本的に悪知恵ばっかり働くのだ。
「その為、胸のおっきい人間っちゅーのは、そのバランスを保つのがひじょーにムズイんやで。せやから、うちが適切なマッサージを行い、そのバランスを保っとるんや」
「そ、そうだったんですか! ごめんなさい、疑ってしまって」
「ええんよー。うちに任しといてくれれば、何も問題無いんやでー」
「いや、ちょっとは疑いなさいヒメ。そしていづなさんも、自重してください自重! ヒメが男相手にまで無防備になったらどうするんですか!」
「にゃはははー」
駄目だ、まるで反省してないこの人。
お兄ちゃんの友達のフリズさんってい人がいれば、容赦なくツッコミを入れて止めてくれるんだけど……と、そう思った瞬間だった。
「……いい加減にしておけ」
「はぅあッ!?」
台所の方から飛んできたお盆がいづなさんの側頭部に命中し、彼女の体を横殴りに倒していたのだ。
すっごくいい音を立てたお盆は宙を舞い、床に倒れたいづなさんの顔面に被さる。
へぶっ、というくぐもった悲鳴が聞こえてくるけれど、比較的いつもの光景であるため、桜さんや私が気にする事はなかった。
ヒメが若干おろおろしてるけど、それはともかくとして。
「お兄ちゃん、ナイス」
「ああ……姫乃、そいつの事は気にしなくていい」
「え、えーと……いいんですか?」
「いつもはもっと激しいのを喰らっているからな。別に意識も飛んでないだろう、いづな」
「うー、まーくんが最近辛辣やー」
しくしくと嘘泣きしながらあっさりと起き上がるいづなさん。
正直、目にも留まらぬほどの速さで飛んで来た硬いお盆を喰らって、全く堪えてないってのはどういう事なんだろうか。
……まあ、この人たちがおかしいのは今に始まった事じゃないか。
ともあれ、いづなさんを止めてくれたのは、私のお兄ちゃんこと神代誠人だった。
かなり大柄な姿のお兄ちゃんは、梁を潜るように現れると、右手のお盆の方に乗せてあった料理をテーブルの上に配膳してゆく。
両親がいない今、実質お兄ちゃんが家の中で一番偉い事になる……んだけど、普段は仕事でいないから、結局切り盛りしてるのは私だったりする。
まあ、だからこそこうやっていっぱい人が集まって来るんだろうけど。
「ほら、いい加減席に着け。学校が始まるまで、あまり時間の余裕がある訳ではないだろう」
「っと、そうだったそうだった。ほらヒメ、いづなさんも席について」
「あ、うん。ありがとう杏奈ちゃん」
「ほいほーい」
皆が席に着き、そして桜さんがご飯をよそって皆に渡してくれる。
両親がいるときと変わらない……いや、それよりももっと賑やかな食卓。
騒がしいし困った事もする人たちだけど、それでもやっぱり嬉しくて。
だからこそ、食材たちだけでなく、この日常に対しても感謝を込めて、私は声を上げていた。
「それじゃ、いただきまーす」
『いただきます』
これが、ごく最近の私―――神代杏奈の日常。
それに更なる変化が訪れるのは、今日、学校に行ってからの事だった。