せつない話 4
幸盛には四人の息子がいる。どちらのご家庭も同様かと想うが、アルバムを開くと長男の写真が最も多い。赤ん坊の時の寝顔まで何枚も撮っているのだから親バカ丸出しである。
ところが、青天の霹靂で平成三年三月に妻がクモ膜下出血で倒れてしまう。長男が小五、次男が小四、三男が保育園年長、四男が一歳九カ月の時のことだ。たしか、妻の実父が亡くなったのは妻が小五の時で、さらには幸盛の祖父が死んだのも父が小五の頃と聞いている。妻が更賜寿命を全うしたのは四男が小五の時と思い合わせると、「小五」が四つも重なっていることに不思議な因縁を感じずにいられない。
さて、「せつない話」シリーズの最後は、順番通り長男でしめくくるとする。
長男は小学五年生。野球部の副キャプテンである。その年の大会では六年生に混じってレギュラーとしてライトを守った。といっても野球がずば抜けて上手いわけではなく、足が学年で一、二を争うほど早いことと、かなり速い球を投げる肩と手首があり、明るく元気で面倒見がいいところが先生に見込まれたようだ。
妻は初恋の相手が甲子園常連校のスカウトも見に来たという強豪蟹江中学の野球部員だったこともあって野球には思い入れが強く、試合のたびにマイカーを出して飲み物を持って応援に駆けつけていた。(その後不自由な体になってからも、甲子園大会のテレビ中継は全試合見続けていた。)
夏休み中に行われた大会で、長男の小学校のチームは三校を勝ち抜いてブロックの準決勝まで進出したが、その間の長男の成績はシングルヒット一本。それも、ボテボテの内野ゴロを足でかせいだヒットだった。
大会が終わったある日、長男が団地内の大公園に行くと、六年生たちが九人で野球をやっていた。といってもその人数で試合はできないので、ヒットが何本打てるか競う遊びをやっていた。九人で守備について一人が打つとすれば人数が一人分足りないので長男にお呼びがかかり、投手と捕手を任された。
長男にも二十六回の打席がまわってきた。うち、二塁打が五本、シングルヒットが十五本、エラーで出塁したのが三回、あとの三打席は空振りの三振だった。
好成績に気をよくした長男は、仕事から帰ってきた幸盛をつかまえてすぐさまそのことを報告した。幸盛はそうかそうかと笑いながら電卓で打率を計算してやった。
「七割六分九厘、すごいじゃないか」
将来プロ野球選手になろうと本気で考えている長男は実に嬉しそうだった。
中学では野球部がなかったためバスケットボール部で活躍したが、県立高校に進むと再び野球をやり始めた。文武両道ならぬ「武武単道」と本人が豪語するほどに、三年間を徹底して野球だけに打ち込んだ。
三年生になると投手をやっていた。第七九回全国高等学校野球選手権愛知県大会の最初の試合が名古屋市熱田球場で行われるというので、幸盛は身体が不自由な妻に代わって見物に出かけた。
長男は2失点しながらも味方が4点とってくれたので完投で勝利を飾ることができた。しかし、長男の肩はその試合で壊れてしまっていた。次の試合でもそのことを隠して先発したが、限界を超えたところでリリーフを仰いだ。格下のはずのチームに負けて、長男の野球人生は終わった。人生、努力だけではどうにもならないことの方が多い。君のせいではないよ、頑丈な地肩を与えなかった父親が悪いのだ。
プロ野球の選手がいかにスゴイかは長男の口から聞いて幸盛も知っている。後にドラフトで横浜に入団した選手に練習試合で投げたことがあるそうだが、くさいボール気味の直球をスコーンと見事にホームランされたそうだ。スケールが全然違うと素直に脱帽していた。
長男が二年連続で大学受験に失敗した際、妻にあれこれ相談を持ちかけたことがある。しかし妻は、そのような込み入った話題で頭を働かせようとすると、決まって頭痛に襲われた。だからこの時もすぐに「どうでもいい」と結論した。
無責任な言葉のようではあるけれど、それはちがうと思う。不自由な身体の妻にとって学歴なんかどうでもいいのだ。「健康でありさえすればいい」というのは『達人』の彼女だからこそ言える至言なのだ。
自慢ではないが、幸盛は小学生の時から字がむちゃくちゃ下手だった。謙遜ではなく自信を持って断言できる正真正銘のヘタックソなのだ。だから、長男が高校三年の時に書いた習字が選ばれて名古屋市博物館に展示されているというので両親を誘ってわざわざ見に行ってみた。幸盛の両親は整った字を書くので隔世遺伝かもしれない。
他の展示物には目もくれず長男の習字だけを探して回った。長男の名を見つけた。そこには、『無事是名馬』という文字が墨痕鮮やかに描かれていた。
*文芸同人誌「北斗」第562号(平成21年11月号)に掲載
*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ http://12393912.at.webry.info/