第三話 忘却
わたしには小さな娘がいる。
来年の春には小学校入学を控え、毎日が楽しくてたまらないのであろう。わたしが仕事から帰宅すると背中に飛び乗り保育園であった事を一生懸命語ってくるのだ。
そして背広も脱いでいないわたしの手を引き「遊ぼ」、と聞き分けなくせがむのである。
しかしお腹が減った。
一日中外回りの営業で歩き回ったのだ、お腹が空いて当然だ。
昼食はコンビニで買ったオニギリ一つ……いや、二つだったかな?
とにかくお腹がすいた。
妻に今日の夕飯は何かと尋ねてみれば、どうも様子がいつもと違う。
キッチンのシンクで洗い物をしている妻が言うには、「なに言ってんのよアナタ。夕飯ならついさっき食べたじゃないの。大好きな肉じゃがを美味しい美味しいっておかわりしたじゃない」、とつれない返事。
そんな筈はない。
わたしはいま仕事から帰ったばかりだぞ。
妻の更なる言動にわたしは我が耳を疑った。
「明日のお休みにはね、美咲が孫達を連れて帰ってくるそうよ。どうやら旦那さんが希望していた長期の有給休暇がとれたみたいなの」
娘の美咲はまだ五歳だぞ。
それが孫だと……。
妻はどうかしてしまったのか?
いや、その兆候なら少し前から気付いてはいた。
寝坊してしまい「なんで起こしてくれないんだ」、と慌てて支度し出掛けようとすると、妻は不思議そうな顔で「いったい何しに行くんです?」ときたものだ。
出掛けようとするわたしの腕を掴み引き留めようとする。
終いには泣き出すものだから、仕方なく会社には遅刻しますと一報を入れ昼前に出勤したのだが、わたしが朝から家を出て戻ってこないと、警察を自宅に呼んでいたこともあった。
娘の誕生日にはケーキに飾る蝋燭の数すら間違える始末。
ふと思い出した。
若くして起こる記憶障害。
いまは携帯電話さえあればいくらでも情報が手に入る。
わたしは検索した。
若年性アルツハイマー型認知症。
わたしは妻を病院に連れて行こうと試みたがやはり無理だった。
自分が病気だとは信じられないのだろう。
わたしは見守るしかなかった。
そして祈る。
これ以上、酷くならないようにと。
長い夢を見ていた。
娘の結婚式で泣き。
始めての孫をこの腕で抱き。
愛する妻、奏恵の最期を看取るのだ。
これがわたしの人生かと、過去の自分を振り返る夢だった。
目が醒めたわたしは奏恵の名を呼び彼女の手を握る。
「不思議な夢を見てね。あの幼い美咲か成長して、結婚式場のバージンロードを一緒に歩くんだよ。それに、君がわたしより先に旅立ってしまうんだ。変な夢だよなぁ」
妻の奏恵は瞳の中に大粒の涙を溢れさせていた。
どうした?
何がそんなに悲しい。
そうか、また記憶障害でわたしが死んだとでも思ったのだろう。
心配するな。
わたしなら此処に居る。
愛するお前をおいて先に逝くわけがないだろう。
病気を患うお前の面倒は、最後までこのわたしが看ると誓ったのだ。
奏恵は顔を近づけるとわたしの耳元でこのように囁くのだった。
「お父さん……これでやっと、大好きなお母さんのところに行けるね。看病してた私のこと、お母さんだと思い込んでたけど……わたし……美咲だよ。最後くらい、私の名前呼んで欲しかったなぁ。まぁいいや。だって病気なんだから仕方ないよね。まだ私は五歳のまんまで、お父さんの背中を追っかけてる女の子だもんね。でも間違いじゃないよ。だってお父さんのこと、大好きだもん。今まで、ありがとね」
そうか、そうだった。
認知症を患っていたのはこのわたしだった。
すまない。
いまの今まで気付いてすらいなかった。
妻は、亡くなる直前までわたしの面倒を見ながら娘を育ててくれていたのだ。
そして家族の記憶が、過去で止まったままだった。
死を前にしてようやく、家族を取り戻すことが出来たようだ。
終わり




