第9話「沈黙の契約書」
金曜日の深夜。
新宿、歌舞伎町の路地裏には、冷たい雨が降っていた。
「トー横」と呼ばれる広場の片隅で、うずくまっている少女がいた。
年齢は十六、七歳。
派手なメイクは涙で崩れ、ブランド物の服は泥にまみれている。
手首には無数のリストカットの痕。
「……君、大丈夫か?」
パトロール中の真壁凛が声をかけると、少女はビクッと体を震わせ、後ずさりした。
「こ、来ないで……戻りたくない……パパに怒られる……」
「パパ?」
真壁が保護しようと手を伸ばした瞬間、路地の向こうから黒塗りの高級ワンボックスカーが滑り込んできた。
降りてきたのは仕立ての良いスーツを着た男たちと、一人の穏やかそうな中年男性だった。
「やあ、お巡りさん。ご迷惑をおかけして申し訳ない」
男は人好きのする笑顔で名刺を差し出した。
『NPO法人エンジェル・ホーム代表理事葛西庸介』。
行き場のない少女たちを支援する「現代の足長おじさん」として、メディアでも有名な男だ。
「彼女はうちで保護しているミナちゃんです。精神的に少し不安定でね、目を離した隙に抜け出してしまったようだ」
「……嫌っ!帰らない!」
ミナと呼ばれた少女が悲鳴のような声を上げる。
真壁は彼女を背に庇い葛西を睨みつけた。
「彼女は怯えています。署で事情を聴きます」
「困りますねえ」
葛西は困ったように眉を下げたが、その目は笑っていなかった。
後ろに控えていた弁護士らしき男がタブレットを提示する。
「彼女は当法人が運営する芸能プロダクションの専属タレントでもあります。これは彼女と親権者が署名した『業務委託契約書』および『身元引受書』です。彼女の生活と安全は我々が管理することになっています」
「警察といえど、正当な理由なく民間の契約に介入する権限はありませんよ」
完璧な書類だった。
未成年の家出少女を合法的に縛り付ける、鉄壁の仕様。
「……ミナさん」
真壁は振り返り少女の目を見た。
「正直に言って。何をされたの?嫌なことをされたなら、私が守る」
ミナの唇が震える。
助けを求めようとしたその時、葛西が優しく声をかけた。
「ミナ。契約書の『第8条』、覚えているね?秘密保持義務違反は、違約金が……一千万円だったかな」
ミナの目から光が消えた。
彼女はガタガタと震えながら、真壁の手を振りほどいた。
「……私が、悪いんです。私がワガママ言っただけ……帰ります」
「ミナさん!」
「さあ、行こうか」
葛西は優しくミナの肩を抱き車へと促した。
去り際、彼は真壁の耳元で囁いた。
「刑事さん。彼女たちはね、誰かに管理されないと生きていけないんですよ。私が『居場所』を与えてやっているんです。感謝こそされ、疑われる筋合いはない」
車が走り去る。
残された真壁は雨の中で拳を握りしめた。
あれは保護ではない。
洗脳と支配だ。
「契約」と「借金」という鎖で縛り付け、精神的にダメージを受けるほどのことをしていることは明白だった。
だが被害者自身が口を閉ざし、同意書まで存在すれば、警察は手が出せない。
*
真壁は署に戻らず近くのビジネスホテルの一室にいた。
悔しさで眠れるはずもなかった。
あの少女の絶望した目。
かつて、自分も見たことがある目だ。
大人の都合で理不尽を押し付けられ、声を上げることすら諦めさせられた弱者の目。
その時、スマホが震えた。
画面には地図アプリと膨大なデータのリストが表示された。
『ターゲット:葛西庸介』
『エンジェル・ホーム資金洗浄ルート特定』
『裏帳簿および顧客リスト(政財界・VIP含む)抽出完了』
『実行予定:明日20:00。全データ公開および口座凍結』
奴だ。
校正者が動いたのだ。
彼は葛西を、これまでの悪人たちと同様に処理するつもりだ。
社会的信用を抹殺し、資金を断ち、組織を壊滅させる。
それは最も効率的で、確実な「校正」だろう。
だが。
真壁はスマホの画面に向かって、叫ぶように言った。
「……待て」
返事はない。
だが、彼女はそこに奴がいると確信して語りかけた。
「データを消して、葛西を社会的に殺しても……あの子たちは救われない」
真壁の声が震える。
「彼女たちは、自分の意志で支配されたと思い込まされている。『私が悪い』『契約したから仕方ない』と、自分を責め続けているんだ」
システムで組織を潰しても、彼女たちの心に刻まれた「合意という名の強制」の傷は消えない。
むしろ、「パパ(葛西)が攻撃された」ことで、彼女たちはさらに殻に閉じこもり、新たな依存先を探して路地裏を彷徨うだけだ。
「必要なのは、破壊じゃない」
真壁は画面を睨みつけた。
「彼女たちが、自分の口で『No』と言うことだ。自分が被害者だったと認め、法という公の場で、奴を指差して断罪することなんだ。……そうでなければ、彼女たちの人生は終わらない」
スマホの画面が静かに明滅している。
肯定も否定もしない。
ただ実行ボタンが押されることはなかった。
「私は行く。明日、もう一度あの子に会いに行く」
真壁はジャケットを掴んだ。
「刑事としてじゃない。同じ女として、あの子の『声』を取り戻してくる。……だから、お前は余計なことをするな」
真壁は部屋を出た。
システム対システムではない。
人間対人間の、泥臭い説得。
それはもっとも効率が悪く、しかし、唯一の根本的な解決策だった。
(第9話完)
第3部「追跡者の校正」をお読みいただきありがとうございます。
本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




