第2話「死体のない殺人」
男の目にはその瞬間がスローモーションのように焼き付いていた。
行き止まりのペデストリアンデッキ。
追い詰められた彼女は震える手で柵を掴み、夜空へと身を踊らせた。
男の手は届かなかった。
いや、あえて届かせなかったのかもしれない。
彼女は俺から逃げるために、死を選んだ。
その絶望的な拒絶こそが、男にはたまらない快感だった。
「やった……俺のものになった……」
駅の裏路地、自動販売機の陰で男は荒い息を吐きながら自分の手を見つめていた。
指一本触れていない。
だが、俺が殺したようなものだ。
相川美波。
半年間追いかけ続けた女。
俺の想いを拒絶し警察に泣きついた裏切り者。
彼女はもう誰のものにもならない。
永遠に俺の記憶の中だけの女になった。
だが男の心臓を鷲掴みにしていたのは、達成感よりも「不可解な恐怖」だった。
彼女が消えた直後、デッキの下を覗き込んだ時――そこには何もなかったからだ。
死体がない。
血もない。
数メートル下の路上は、まるで最初から誰も落ちてこなかったかのように、アスファルトが白く乾いていただけだった。
「どうなってる……誰かが持ち去ったのか?」
その時ポケットのスマートフォンが震えた。
非通知のメッセージ。
『死体処理、完了しました』
男は息を呑んだ。
画面に表示されたのは、無機質なテキストと請求書のアイコン。
『ご依頼の「相川美波」の処分を実行しました。至急、以下のリンクから決済手続きを行ってください。手続きが遅れた場合、処理を取り消し、警察に通報します』
俺は頼んでいない、と叫びそうになった。
だが現に死体は消えている。
誰かが――闇サイトの掃除屋か何かが――俺の犯行を見ていて、気を利かせたのか?
いやそんなことはどうでもいい。
「警察に通報」という文字が、男の理性を焼き切った。
「払う……払います」
男は震える指でリンクを開いた。
現れたのは奇妙なほど公的なデザインの同意画面だった。
『資産譲渡および個人認証情報の破棄に関する同意書』。
難しい法律用語が並んでいるが男は読む余裕などない。
ただ「同意する」のボタンを連打し、マイナンバーカードをスマホにかざし、銀行口座の暗証番号を打ち込んだ。
『処理を受理しました。あなたの「履歴」は消去されます』
画面に「完了」の文字が出た瞬間、スマホの電波表示が『圏外』になった。
男は安堵の息を漏らす。
これで助かった。
死体は見つからない。
俺は自由だ。
彼は知らなかった。
自分が今、社会的に「死亡」したことを。
*
翌日の午後。
真壁凛は所轄署の生活安全課で苛立ちを隠せずにいた。
「GPS監視はつけられなかったのか!」
「……要件を満たせませんでした」
生活安全課の担当者は苦渋の表情で首を振った。
「警告は出しました。ですが、相手は『偶然会っただけだ』と主張し、明確な暴力行為も確認できなかった。現行の法解釈では、これ以上の強制措置は難しかったんです」
真壁は奥歯を噛み締めた。
わかっている。
これが現実だ。
法は「何かが起きるまで」は動けない。
そして起きた時には手遅れなのだ。
「被疑者の男……ストーカーの所在は?」
真壁は問いかけた。
相川美波が消えた今、最も疑わしいのはその男だ。
「昨夜から行方がつかめません。自宅にも職場にも戻っていない。携帯の電波も途切れています」
「警部!港湾地区で変死体が出ました!」
部下の叫び声に、真壁は弾かれたように顔を上げた。
「相川美波か?」
「いえ……男です。30代前後。倉庫街の廃ビルから転落した模様」
真壁は現場へ急行した。
岸壁にはブルーシートがかけられていた。
捲り上げると、そこには見覚えのある顔があった。
資料にあったストーカーの男だ。
「身元は?」
「それが……不明です。指紋もスマホも、すべてが空白です」
真壁は男の顔を見下ろした。
死因は転落死。
昨夜、相川美波が味わったかもしれない死だ。
男は死んだ。
だがその名前も過去も、すべてがデータ上から消えている。
(誰かが……入れ替えた?)
被害者の死と、加害者の生を。
法が裁けなかった男を法の手が届かない場所に葬り去ったのか。
その時、真壁のスマホが鳴った。
捜査一課のデスクからだ。
『警部、相川美波が見つかりました』
「遺体が上がったのか」
『いえ。……出勤してきました』
*
【相川美波の回想】
昨夜の記憶は、恐怖と奇妙な「導き」の中にあった。
仕事帰りの夜道。
背後にあの男の気配を感じた瞬間、美波のスマホが震えた。
差出人不明のメッセージ。
『後ろに男がいる。助かりたいなら、指示に従って逃げろ』
普段なら無視するような不審な通知。
だが振り返ると男の影が近づいてくる。
彼女は直感的に画面の指示に従った。
『次の角を右へ』
『コンビニには入るな、裏の路地へ抜けろ』
メッセージは的確だった。
従うたびに男との距離がわずかに開く。
彼女はいつしかこの見えない「ナビゲーター」に縋るようになっていた。
だが最後に指示された場所は、行き止まりのペデストリアンデッキだった。
「どうして……こんな場所に?」
美波は震える声で呟いた。
前は手すりと虚空。
後ろからは、男が笑みを浮かべて近づいてくる。
逃げ場がない。
騙されたのか。
その時、スマホが短く震えた。
『手すりを見ろ。「防犯パトロール重点地区」のステッカーがある』
『そこを乗り越えて飛べ。ためらうな』
彼女は手すりに視線を走らせた。
あった。
雨風に晒され、端が剥がれかけた四角いステッカー。
そこに書かれた「防犯」の文字が、街灯の下で白々しく光っていた。
(防犯……)
何度も相談に行った。
担当の刑事も親身になってくれた。
けれど今の法律では「実害」が出るまで彼を止めることはできなかった。
誰も悪くない。
ただこのステッカーのような「形だけの安全」が、私を守れなかっただけだ。
なのに最後に縋るのがこの目印だなんて。
なんという皮肉だろう。
男の手がすぐそこまで伸びてきていた。
「捕まる」という恐怖が理性を塗りつぶす。
ここまで指示通りにして助かったのだ。
なら、この意味のない警告文を信じるしかない。
「ええい!ままよ!」
彼女はステッカーの上から手すりを掴み、それを踏み台にするようにして闇へ身を投げた。
浮遊感。
死の予感。
だが衝撃は柔らかかった。
デッキの下は耐震補強工事の最中だった。
作業員たちが帰った後の静まり返った現場。
そこには足場と共に分厚い落下防止ネットが張り巡らされていた。
彼女は計算された位置でネットに受け止められ、そのまま音もなく地上――待機していた配送トラックの荷台(緩衝材の山)へと滑り込んだ。
「え……?」
何が起きたのか理解できないまま、震える彼女のスマホに次のメッセージが届く。
『怪我はないですね。そのまま荷台で休んでください』
『このトラックは少し走ります。頃合いを見て、指定する駅前のネットカフェ「サイバー・オアシス」へ移動し、そこで朝まで過ごしてください』
『画面に表示するQRコードをかざせば入店できます。会員証も手続きも不要です』
トラックが走り出す振動を感じながら美波は画面を見つめた。
QRコードと地図が表示されている。
まるですべてがあらかじめ用意されていた旅行プランのように。
そして新たなメッセージが浮かび上がった。
『あの男は一線を越えました』
『あなたが望むのであれば、男をこの世から完全に消去できますが、それを願いますか?』
美波は息を飲んだ。
消去。
それは、死を意味するのだろうか。
だがあの男が生きていれば、また自分は追われる。
今日助かっても明日はわからない。
警察も法律も決定的な瞬間までは助けてくれない。
『……願います』
彼女は震える指でそう打ち込んだ。
瞬間、画面が切り替わる。
『契約、成立しました』
『代償として、今夜の出来事は永遠に忘れてください。それがあなたの新しい日常の対価です』
完璧だった。
トラックの荷台から降りた時、夜明けの街はいつも通り静かだった。
ただ一つ、あの粘着質な男の気配だけが、綺麗さっぱり消え失せていた。
*
【現在・応接室】
相川美波は真壁の鋭い視線を受けながら、カップの縁を指でなぞった。
「嘘をつくな」
真壁は身を乗り出した。
「防犯カメラの映像を見たぞ。君はデッキの手すりを自分で乗り越え、飛び降りた。……あのストーカーの男に追い詰められていたんだろう?殺されかけたんだ」
「……ストーカー?」
美波はカップから顔を上げ、少し考えるような仕草をした。
「ああ、あの人のことですか。……ええ、私に近づかないようにって、以前、警察の方が注意してくださいましたよね」
彼女は不思議そうに真壁の顔を見返した。
「でも、まさか……昨日、私の近くに居たんですか?」
真壁は息を呑んだ。完璧な返しだ。
「男に追われていた」という前提そのものを、無知を装って崩してきた。
彼女が主張する通り、これは「貧血で誤って落ちてしまった事故」だ。
運良く大きな怪我もなく、しかし動揺して帰宅できなかったため、近くの店で休んでいただけ。
そういうことにされてしまえば、警察はそれ以上踏み込めない。
自殺未遂でもなく、事件でもない。
ただの不幸な事故と幸運な生還。
真壁はため息をつき、足元の紙袋から証拠品のハンドバッグを取り出してテーブルに置いた。
昨夜、デッキの上に残されていたものだ。
「これは君のものだな?現場に落ちていた」
「あっ!」
美波は顔をほころばせ、バッグを抱きしめた。
「ありがとうございます!どこで落としたのかと思って探していたんです。昨日は貧血でふらふらだったので、きっとその時に……助かりました」
その自然な反応。
安堵の表情。
心臓が早鐘を打っているはずなのに、彼女は完璧に演じている。
あのメッセージの送り主が誰かは知らない。
けれど彼は約束を守ってくれた。
男はいなくなった。
なら、私も守らなければならない。
この平穏な日常を守るための共犯者としての沈黙を。
「……そうですか。私の勘違いだったようだ」
真壁が部屋を出て行く。
扉が閉まった瞬間、美波は小さく息を吐いた。
*
廊下に出た真壁に部下の刑事が駆け寄ってくる。
「警部、やはり怪しいです。本当に昨夜、ネットカフェにいたのか裏を取りましょう」
「店の名前は?」
「駅前の『サイバー・オアシス』です。ただ……あそこは完全個室で、入店から精算まで無人で完結するシステムなんです。店員はバックヤードにいるだけで、客と顔を合わせません。アリバイを人の目で確認するのは不可能です」
「カメラは?」
「それが、昨夜はサーバーのメンテナンス中で録画機能が停止していたらしく……残っているのは、彼女の会員IDでの『入退店ログ』だけです」
「ログか……」
真壁は鼻で笑った。
データなどキーボードひとつでどうにでもなる。
だがそれを証明するには、サーバーを押収し、膨大なログを解析し、改ざんの痕跡を見つけ出さなければならない。
被害届も出ていない、本人が「無事だ」と言っている案件で、そこまでの強制捜査令状が降りるはずもない。
「どうしますか、警部。任意でログの提出を求めますか?それとも周辺のNシステムを洗って……」
「いや、いい」
真壁は部下の言葉を遮った。
「本人の安全が確認できた。ストーカーは消えた。これ以上、何を追う必要がある」
「し、しかし……」
「撤収だ」
真壁は歩き出した。
背中で部下が戸惑っている気配を感じながら、小さく呟く。
「どうせ、何も出て来やしないだろう」
相川美波は助かった。
だがその裏で、法の手続きを経ない「透明な処刑人」が、確かに仕事を終えて去っていった。
完璧なアリバイと死体なき殺人を残して。
真壁はスマホを取り出し、新たな捜査ファイルを作成した。
タイトルは『連続不審死・失踪事案』。
「見つけ出してやる。お前が誰であれ、必ず手錠をかけてやる」
その決意をあざ笑うかのように、エレベーターの扉が静かに閉じた。
(第2話完)
第3部「追跡者の校正」をお読みいただきありがとうございます。
本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




