第14話「母としての帰還」
日曜日の午後2時。
都内の公園は、家族連れの賑やかな声で溢れていた。
かつて田所拓海と岸本律子、そして翔太の3人が、まだ家族として笑い合っていた頃によく来ていた思い出の場所だ。
岸本律子は、よろめく足取りでその場所に現れた。
いつもの高級スーツではなく、着古したカーディガンにノーメイク。
髪は乱れ、靴には泥がついている。
今の彼女は、「常勝無敗の弁護士」ではない。
ただ子を奪われ、魂が抜け落ちた一人の母親だった。
「……翔太……っ!」
彼女の視線の先にブランコで遊ぶ少年の姿があった。
その背中を押しているのは、田所拓海だ。
律子は衝動的に駆け出そうとしたが、足がすくんで止まった。
怖いのだ。
法廷で自分が突きつけてきた数々の冷酷な論理が、今度は田所の口から放たれる恐怖。
『接近禁止』『親権剥奪』『二度と会わせない』。
その言葉の刃が、どれほど鋭く、人を殺せるものなのか、彼女はこの24時間で骨の髄まで理解していた。
「……岸本さん」
背後から声をかけたのは、真壁凛だった。
「行って。彼は待ってるわ」
「……私を、笑いに来たの?それとも、トドメを刺しに?」
律子の声が震える。
「いいえ。彼はあなたに、『判決』を言い渡すために呼んだんじゃない」
真壁に促され、律子は恐る恐る砂場へと近づいた。
田所が気づき、振り返る。
律子は身構えた。
罵倒される。
警察を呼ばれる。
当然だ、自分はそれだけのことを彼にしてきたのだから。
「……ママ!」
だが最初に声を上げたのは翔太だった。
少年はブランコから飛び降りると、満面の笑みで律子に駆け寄ってきた。
「ママ!パパと遊んでたんだよ!ママも一緒にやろう!」
無邪気なその手は、温かかった。
3年間の空白などなかったかのように、息子は「パパとママ」の両方を求めている。
律子は膝から崩れ落ち、翔太を抱きしめた。
「……ごめんね、翔太。ごめんね……」
田所がゆっくりと歩み寄ってくる。
その手には、一枚の厚い封筒が握られていた。
律子の背筋が凍る。
あれは間違いなく、トドメの法的書類だ。
あれを出されたら、自分は親権を失い、社会的に抹殺される。
「……律子」
田所は静かに名を呼んだ。
「この3年間、僕がどんな気持ちで毎日を過ごしていたか、わかったか」
「……ええ。……死ぬより、辛かった。地獄だったわ」
律子は涙で顔を歪め、地面に頭を擦り付けた。
「私が悪かった。謝って済むことじゃないけど……お願い、あの子だけは……」
田所は封筒を見つめ、そして――それを破り捨てた。
ビリビリと、完璧な法的マニュアルが紙吹雪となって風に舞う。
「代理人のアルファさんは言ったよ。これを使えば、君を完全に潰せると」
田所は呆然とする律子の前に膝をつき、目線を合わせた。
「でも、僕は君を倒したいわけじゃない。……翔太には、父親も母親も必要なんだ」
それは法律用語にはない、人間としての言葉だった。
勝利ではなく、和解。
排除ではなく、共存。
「僕はこの3年間を許すことはできないかもしれない。でも、これからの時間は変えられる」
田所は、泥だらけの律子の手に、自分の手を重ねた。
「一緒に育てよう。ルールを決めて。……もう、誰かを排除するのはやめよう」
律子の喉から、慟哭が漏れた。
彼女が築き上げてきた「完璧なマニュアルの城」が、人の優しさによって跡形もなく崩れ去っていく。
その瓦礫の中から、かつて彼女が捨て去ったはずの「鬼子母神」の心が――他人の子の親の痛みを知り、我が子を慈しむ心が、再び芽吹き始めていた。
*
公園のベンチで、真壁はその光景を静かに見守っていた。
親子3人が、泣きながら、それでも笑い合っている。
スマホを取り出す。
画面には、通話アプリの履歴が残っていた。
『代理人アルファ:接続終了』
「……聞こえてるんでしょ、校正者」
真壁は空に向かって呟いた。
「あんたの用意した『最強の弁護士』は、最後に解任されたわよ」
スマホが短く振動する。
スピーカーからではなく、画面上の文字として、短いメッセージが表示された。
『それでいい。依頼人の利益が最大化されたなら、それが弁護士の勝利だ』
真壁はふっと笑った。
織部は毒を盛った。
マニュアルという猛毒を。
だが、その毒を薬に変えたのは、田所拓海の人間性と、それを信じて仲介した真壁の足掻きだった。
後日談として、一つのニュースが流れるだろう。
敏腕弁護士・岸本律子が、過去に担当した親権争いの案件のいくつかについて、再協議と和解を申し入れたというニュースが。
彼女はもう、マニュアルで人を裁く鬼ではない。
法の欠陥を人の心で埋めようとする、一人の母になったのだ。
真壁はジャケットを羽織り直す。
風が心地よかった。
マニュアルキラー。
それは、システムを壊す者の名ではない。
システムに殺されかけた「心」を、救い出す者の名だ。
(第14話完/第3部完)
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
法の不備を突く「校正者」と、人の心で正義を貫こうとした「刑事」。
二人が辿り着いた結末はいかがでしたでしょうか。
もし、この「校正」の物語を少しでも面白いと感じていただけましたら、下方の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけますと幸いです。
皆様の応援の一つひとつが、この世界の「バグ」を暴く次なる執筆の原動力になります。
また別の「手順書」でお会いできる日を願って。
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本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




