第13話「愛別の地獄」
日曜日の朝。
岸本律子の法律事務所は、書類の山と悲鳴のようなキーボードの打鍵音に包まれていた。
彼女は一睡もしていなかった。
目の下には濃い隈ができ、完璧だった化粧は崩れている。
「……なんでよ!なんで受理されないの!」
彼女は裁判所の夜間受付や、あらゆるコネクションを使って「人身保護請求」や「保全処分」を申し立てていた。
だが、返ってくるのは冷ややかな反応ばかり。
『相手方の代理人から、既に詳細な反論書と証拠が提出されています』
『審理には時間がかかります』
律子は髪をかきむしった。
早い。
早すぎる。
こちらの動きを完全に予測し、申請する1秒前に「先回り」して封じ込めている。
まるで自分の思考を読んでいるかのように。
PCの画面が明滅し、再びあの「代理人」からのメールが届いた。
添付されていたのは、『監護者として不適格であることの証明書』。
そこには、律子がひた隠しにしていた家庭の記録が羅列されていた。
『年間300日以上のベビーシッター利用』
『息子・翔太君の誕生日に、仕事で3時間遅刻した事実』
『翔太君が書いた絵日記に、母親の姿がほとんど描かれていない分析結果』
律子は愕然とした。
「……仕事よ。あの子のために稼いでいたのよ!それをネグレクトだなんて……」
だが、その論理は通じないことを、彼女自身が一番よく知っていた。
なぜなら、それは彼女自身が数多の父親から親権を奪う際に使ってきた「些細な事実を針小棒大に解釈して、相手を悪魔化する」テクニックそのものだったからだ。
ブーメランが、再び彼女の喉元を抉る。
彼女はデスクに突っ伏し、嗚咽を漏らした。
これが、あの日、あの時、自分が切り捨てた父親たちが味わっていた地獄なのか。
どこにいるかもわからない。
声も聞けない。
法は助けてくれない。
愛別離苦。
愛する者と引き裂かれる、生きたままの地獄。
*
同時刻、真壁凛は都内のビジネスホテルを見上げていた。
警察の捜査網ではなく、彼女自身の勘と、かすかな痕跡を辿ってようやく突き止めた場所だ。
田所拓海と息子は、ここにいる。
スマホを取り出す。
「校正者」への通話ボタンを押すが、応答はない。
「……徹底してるわね」
織部は今回、一切の「違法ハッキング」を表に出していない。
田所の潜伏先も、正規のクレジットカードで宿泊予約され、法的に問題のない「親子の宿泊」として処理されている。
だから真壁は踏み込めない。
誘拐ではない以上、令状は取れない。
無理に押し入れば、逆にこちらが「職権濫用」で訴えられる。
だがこのままでは終わらない。
岸本律子は崩壊寸前だ。
逆に田所も、今は織部の指示で強気を装っているが、いつまでも「鬼」の役を演じ続けられるほど強い人間ではないだろう。
どちらかが限界を迎えれば、待っているのは悲劇だ。
心中か、刺し違えるか。
「……マニュアルで勝っても、幸せにはなれないのよ、校正者」
真壁は独りごちて、ホテルの自動ドアをくぐった。
刑事としてではない。
銃も手錠もいらない。
必要なのは、二人の親の間に入り、絡まり合った「正義」の糸を解く、人間としての言葉だ。
フロントに向かうと、スタッフが恭しく頭を下げてきた。
「お待ちしておりました、真壁様ですね。田所様より伺っております。……お部屋は805号室でございます」
真壁は目を丸くしたが、すぐに事情を察して苦笑した。
校正者め、ここまでお膳立て済みか。
ハッキングでセキュリティを突破するのではなく、宿泊客である田所に指示して、正規の手続きで「面会人」として登録させたのだ。
これならホテル側も拒まない。
あくまでルールの内側の行為だ。
「エレベーターまでご案内いたします」
スタッフがカードキーをかざし、宿泊客専用のエレベーターホールへのセキュリティゲートを開ける。
その背中を見ながら、真壁のスマホに通知が届いた。
送信者は『Unknown』。
内容は、短く一言だけ。
『Go』
――わかってるわよ。
部屋に向かうタイミングを見計らったようなメッセージ。
織部もまた、この膠着状態の先にある「解決」を、真壁に委ねようとしているのだ。
法的な勝ち負けの先にある、もっと大切な着地点を。
805号室の前。
真壁は深く息を吸い込み、インターホンを押した。
長い沈黙の後、ドアチェーンがかかったまま、扉がわずかに開いた。
隙間から覗いたのは、田所拓海の疲弊した、しかし決意を秘めた瞳だった。
「……警察ですか」
「いいえ」
真壁は警察手帳を出さなかった。
「ただのお節介な仲介人です。……翔太君と、あなたのために来ました」
田所の目が揺れる。
部屋の奥から、子供の無邪気な笑い声とテレビアニメの音が漏れ聞こえてきた。
それは岸本律子が3年間独占し、田所から奪い続けていた「日常」の音だった。
「田所さん。少しだけ、話をさせて。……このまま勝ち逃げしても、あなたは一生、後ろを振り向いて生きることになる」
真壁の言葉に、田所はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとチェーンを外した。
ガチャリ、という金属音が、重苦しい静寂を破った。
(第13話完)
第3部「追跡者の校正」をお読みいただきありがとうございます。
本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




