第12話「ザクロの味」
土曜日の午後4時。
岸本律子は、高級輸入車のハンドルを握りながら、微かな高揚感に浸っていた。
今朝の案件も完璧だった。
DV夫を排除し、依頼人(母親)と子供の安全を確保した。
男は最後まで「俺はやってない」と喚いていたが、そんなことは関係ない。
法的手続きにおいて、「疑わしきは排除する」のがリスク管理の鉄則だ。
全ては子供のため。
そう、自分は正義を行っているのだ。
車を息子が通うスイミングスクールの駐車場に滑り込ませる。
6歳になる翔太。
彼だけが、律子の人生の全てであり、汚れた泥沼の訴訟社会で戦うための唯一の清涼剤だった。
だが受付に行くと、いつも笑顔で迎えてくれるスタッフの顔色が妙に青ざめていた。
「……あの、岸本様」
「何?翔太は着替え終わってる?」
「いえ、その……先ほど、お父様がお迎えにいらっしゃいまして」
律子の思考が停止した。
「は?父親って……田所のこと?」
「はい。弁護士の方とご一緒でした」
「ふざけないで!彼には接近禁止命令が出ているはずよ!なんで渡したの!?」
律子の怒声に、ロビーの空気が凍りつく。スタッフは震えながら、一枚の書類のコピーを差し出した。
「で、ですが、こちらの書類を提示されまして……『緊急性が高い』とのことで……」
律子は書類を引ったくった。
『児童虐待防止法に基づく一時保護の申立書』および『監護者変更の審判申立書(写)』。
そこには、母親である岸本律子による「育児放棄」と「精神的虐待」の疑いがあるため、父親が緊急に身柄を保護すると記されていた。
添付された証拠リストには、律子が仕事で深夜帰宅した際の日時記録や、ベビーシッターに預けっぱなしにしている事実が、悪意ある解釈で羅列されている。
「……何よこれ。全部でっち上げじゃない!」
律子の背筋に冷たい汗が伝った。
見覚えがある。
事実の一部分だけを切り取り、法的な「物語」として再構成する手口。
これは自分がいつも父親たちを追い詰める時に使う「マニュアル」そのものだった。
*
「誘拐よ!すぐに緊急配備を敷いて!」
通報を受けて駆けつけた真壁凛に対し、律子は半狂乱で叫んだ。
真壁は冷静に、スクールから提供された書類と防犯カメラの映像を確認する。
映像には、田所拓海が翔太の手を引いて出ていく姿が映っていた。
翔太は泣いておらず、むしろ父親に会えたことで笑顔を見せている。
そして田所の横には、誰もいない。
スクールのスタッフが言っていた「ご一緒だった弁護士」の姿はない。
田所は片手にスマホを持ち、それをスタッフに向けて何かを話していただけだ。
「……岸本さん。田所さんは、無理やり連れ去ったわけではありませんね」
「騙されないで!あの男は口が上手いのよ、スタッフを言いくるめたに決まってる!」
真壁は傍らのスタッフに視線を向けた。
「本当に、弁護士は一緒だったんですか?」
「は、はい。姿は見えなかったんですが……スマホのスピーカーから聞こえる声が、あまりに堂々としていて。法律の条文をスラスラと……まるでそこにベテランの弁護士の先生がいるみたいで、逆らえなかったんです」
姿なき弁護士。
その声だけで、現場の人間を「法的権威」で屈服させたのだ。
その時、律子のスマートフォンが鳴った。
画面には『田所拓海』の文字。
律子は震える指で通話ボタンを押し、スピーカーモードにした。
「翔太を返しなさい!今すぐ警察に行くわよ!」
喚き散らす律子に対し、電話の向こうから返ってきたのは、田所の声ではなかった。冷静で、威厳があり、感情の一切入っていない「法」そのもののような男の声だった。
『――現在、翔太君の身柄は、父親である田所拓海氏が安全に保護しています』
律子が息を呑む。
「誰……?あなた誰よ!」
『私は田所氏の代理人を務める者です。岸本様、あなたが翔太君に対して行ってきた長期間の監禁および洗脳的行為に対し、我々は強い懸念を抱いています』
その言葉の選び方。
論理構成。
律子は戦慄した。
これは素人の脅しではない。
プロだ。
それも、自分と同等かそれ以上の手練れ。
「監禁ですって?私は母親よ!親権者よ!」
『親権は子供を私物化する権利ではありません。……民法820条、監護教育権の乱用です』
代理人の声が、冷徹に告げる。
『現在、我々は家庭裁判所に対し、親権者変更の申し立てを行いました。子供の精神的安定のため、当面の間、母親との接触は制限させていただきます』
「ふざけるな!居場所を教えなさい!」
『お答えできません。あなたが逆上して連れ去る危険性があるためです』
そのセリフは。
律子が今朝、公園で父親に言い放った言葉と、一言一句同じだった。
「……っ!」
律子は真壁にすがりついた。
「刑事さん!聞いてたでしょ?これは誘拐よ!逮捕して!逆探知して!」
真壁は、痛ましげに律子を見つめた後、ゆっくりと首を横に振った。
「……できません」
「は?」
「相手は法的手続きに則って動いています。書類上、父親が子供を保護した形になっている。これは『民事』です」
律子の顔から血の気が引いた。
「民事……?息子が奪われたのよ!?」
「今朝の男性も、そう訴えていましたよ」
真壁の静かな指摘に、律子は言葉を失った。
ブーメランが、心臓に突き刺さった瞬間だった。
『……岸本様。子供に会いたければ、弁護士を通してください』
プツリ、と通話が切れる。
律子はその場に崩れ落ちた。
コンクリートの地面に叩きつけられた高級バッグの中身が散らばる。
彼女は初めて味わっていた。
ザクロの味を。
愛する我が子を「合法的に」隠されるという、身を切り裂かれるような地獄の味を。
真壁は泣き崩れる「鬼子母神」を見下ろしながら、ポケットの中でスマホを握りしめた。
校正者。
あんたは本当に、彼女が作ったマニュアルを使って、彼女を地獄に落としたのね。
だが、これで終わりではない。
ただ地獄を見せるだけでは、それは復讐だ。
ここから先、彼女をどう「人」に戻すか。
それが刑事である自分の――いや、人間・真壁凛の仕事だ。
(第12話完)
第3部「追跡者の校正」をお読みいただきありがとうございます。
本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




