第11話「奪われた幸福」
土曜日の朝。
都内の平和な公園に、男の怒号と悲鳴が響き渡った。
「ふざけるな!俺の娘だぞ!なんで会わせないんだ!」
「きゃあ!誰か、警察を!この人、DV男なんです!」
通報を受けて真壁凛が駆けつけた時、そこには警備員に取り押さえられた30代の男と、泣き叫ぶ元妻、そして怯えて震える5歳の少女の姿があった。
男は泥だらけになりながら叫んでいた。
「今日が面会日だったんだ!約束の場所に誰も来ないから、ここに来たら……あいつ、娘を連れて逃げようとしやがった!」
明らかに、男の方が必死だった。
暴力的な殺気というよりは、理不尽に対する悲痛な叫びに見えた。
だがその場の空気は一変した。
一台のタクシーが滑り込み、中から冷ややかな表情の女性が降りてきたからだ。
「……困りましたね。接近禁止命令が出ているはずですが」
岸本律子。
離婚・親権問題専門の敏腕弁護士。
彼女は真壁に一瞥もくれず、分厚いファイルを提示した。
「加害者である彼が、私の依頼人と子供に接触を図りました。これは明白な保護命令違反であり、ストーカー規制法違反です」
「待ってください。彼は面会日だと言っていますが」
「面会交流?ああ、それは『子供の精神状態が不安定』という医師の診断書に基づき、昨日付けで停止を通知しましたよ。郵便受けに入っているはずですが」
岸本は事務的に、しかし絶対的な優位性を持って言い放った。
「子供の安全が最優先です。刑事さん、彼を現行犯逮捕してください。しないなら、警察がDVを加担したとして訴えます」
完璧なマニュアル対応だった。
真壁は男に視線を向けた。
男は絶望に顔を歪めている。
「……嘘だ。診断書なんてでっち上げだ。俺は一度も手を上げたことなんてない……ただ、娘に会いたいだけなんだ……」
真壁は唇を噛み締めながら、男の手首に手錠をかけざるを得なかった。
法という名の巨大な壁が、親子の絆を断ち切った瞬間だった。
*
署に戻った真壁は、タブレット端末に表示された調査資料を睨みつけていた。
『弁護士・岸本律子』。
その経歴を洗えば洗うほど、胃の腑が煮えくり返るような事実が浮かび上がってくる。
「……自分は安全圏で、母親ごっこってわけ?」
真壁が吐き捨てる。
資料によれば、岸本自身にも6歳になる息子がいる。
だがその家庭環境は、彼女が担当した数々の案件と不気味なほど酷似していた。
彼女もまた離婚しており、元夫から親権を奪取している。
元夫の名は、田所拓海。
DVの事実は確認できないにも関わらず、徹底的な法的措置によって、この3年間、一度として息子に会わせていない。
今日逮捕された男と同じだ。
田所こそが彼女のマニュアルの実験台であり、最初の被害者だったのだ。
一方、モニターの光が蠢く薄暗い部屋で、織部は冷ややかな独白を漏らしていた。
画面には岸本律子が構築した鉄壁の「連れ去りマニュアル」の構造図が展開されている。
『法は、書類の整った嘘を真実として扱う』
これを外部から破壊するのは不可能に近い。
だが嘘を暴くのに、今回はハッキングなど必要ない。
織部の指がキーボードの上で止まる。
ターゲットは岸本のデータではなく、被害者である田所拓海のスマホへと定められた。
『毒をもって毒を制す。マニュアルをもってマニュアルを制す。……彼女が作ったそのシステムで、彼女自身を封じ込める』
*
土曜日の夕暮れ。
都内の安アパートの一室で、田所拓海は缶酎ハイを煽っていた。
部屋には息子・翔太の3年前の写真が飾られている。
まだ幼い笑顔。
今はもう、どんな顔をしているのかもわからない。
弁護士に相談しても「相手が岸本先生では勝ち目がない」と断られ続け、貯金も尽きかけていた。
「……翔太、ごめんな。父さんはもう……」
その時、スマホが鳴った。
非通知設定。
「……はい」
『田所拓海さんですね。息子さんを取り戻したくはありませんか?』
若いが、理知的な男の声だった。
「誰だか知らないが、無理だ。あいつは法律の化け物だ。俺なんかじゃ手も足も出ない」
『ええ、あなたの力だけでは無理です。ですが、あなたには最強の弁護士がつきます』
「弁護士?金なんかないぞ」
『報酬はいりません。必要なのは、あなたの覚悟と、そのスマホだけです』
電話の男――織部は、淡々と告げた。
『今からあなたのスマホに、通話アプリをインストールします。今後、岸本との交渉はすべて、このアプリ経由で行ってください』
「アプリ?それで何が変わるんだ」
『試してみましょう。……画面の「代理人モード」のボタンを押して、スピーカーにしてください』
田所は半信半疑で、送られてきたURLからアプリを入れ、ボタンをタップした。
直後。
スマホのスピーカーから、重厚で威圧感のある、まるでベテラン法曹界の重鎮のような男の声が響いた。
『――初めまして、田所様。私が代理人の、アルファでございます』
それは田所の耳には織部の声の加工だと分かったが、その口調、間、そして漂う知性は、まさに「法務の怪物」そのものだった。
織部の地声に戻る。
『これはボイスチェンジャーと、AIによる法的最適解の検索システムを連動させたものです。僕が喋った言葉が、瞬時に法的に完璧な「弁護士の言葉」に変換されて相手に届きます』
「……お前が、俺の弁護士になってくれるのか?」
『ええ。書類の手続きや署名は、すべてあなた自身の名義で行います。ですから、これは完全に合法的な「本人訴訟」です。……ですが、頭脳は私が担当します』
織部の声に、静かな熱がこもる。
『岸本律子は、自分が作った迷路の出口を一番よく知っていると思い込んでいる。……ですが、彼女が作った壁は、内側だけでなく外側からも、誰も通さない』
田所は震える手で、スマホを握りしめた。
3年間、流し続けてきた悔し涙を拭う。
「やる……やらせてくれ。翔太に会えるなら、悪魔とだって手を組む」
『契約成立ですね』
スマホの画面には、岸本律子がかつて田所に突きつけたのと全く同じ書式のPDFファイルが表示されていた。
タイトルは、『子監護者指定・子の引渡し仮処分申立書』。
反撃の狼煙は、静かに、しかし強烈に上がった。
(第11話完)
第3部「追跡者の校正」をお読みいただきありがとうございます。
本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




