第10話「あなたの校正に任せました」
土曜日の昼下がり。
都心の一等地にある「エンジェル・ホーム」のシェルター兼レッスン場は、要塞のように静まり返っていた。
インターホンを押しても応答はない。
防犯カメラのレンズが、無機質に真壁を見下ろしているだけだ。
本来なら、ここで織部の出番だ。
電子ロックを解除し、カメラをループさせ、強行突破する。
それがこれまでの「正解」だった。
だが、真壁のスマホは沈黙を守っている。
織部は動かない。
真壁の「待て」という言葉を守り、システムの外側でじっと息を潜めている。
「……ミナさん。いるんでしょ」
真壁はインターホン越しに語りかけた。
応答がなくても構わない。
カメラの向こうで彼女が怯えていることはわかっている。
「帰ってくれ。警察を呼ぶぞ」
スピーカーから聞こえたのは、男性スタッフの威圧的な声だった。
それでも真壁は動かなかった。
「ミナさん。私ね、知ってるの」
真壁は、自身の古傷に触れるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたが今、自分を責めていること。私がバカだったから、私が弱いから、こうなったんだって思ってること。……私にも、覚えがあるから」
それは真壁凛が初めて口にする、刑事になる前の記憶。
あるいは刑事になってからも抱え続けてきた無力感の吐露だった。
マニュアルや法律で武装する前の、ただの傷ついた人間としての言葉。
「でもね、それは違う。あなたの心が弱いんじゃない。あいつらが、あなたの優しさと責任感につけこんで、鎖をかけただけなの」
雨が降り始めていた。
冷たい雨粒がアスファルトを叩き、真壁のジャケットを濡らしていく。
それでも彼女は、一歩も引かなかった。
「契約書なんて紙切れ一枚で、あなたの人生を諦めないで。……私は、あなた自身の言葉を聞きたい」
*
建物の中、モニター室。
複数の監視カメラ映像が並ぶ画面を、男性スタッフたちがうんざりした表情で眺めていた。
「おい、まだ立ってるぞ、あの女刑事」
スタッフの一人が、コーヒーを片手に吐き捨てる。
「しつこいな。もう2時間だぞ?雨も降ってるってのに」
「面倒くさい、放っておけ。どうせ令状なんて取れっこないんだ。そのうち諦めて帰るさ」
彼らは嘲笑を浮かべ、再びスマホのゲームに興じ始めた。
この建物のセキュリティは完璧だ。
外部からの侵入も内部からの逃走も不可能。
彼らはその「システム」を過信しきっていた。
だが彼らの背後の廊下の陰に、息を潜める少女がいたことに気づいていなかった。
ミナだった。
彼女は壁に張り付くようにして、廊下のモニター画面を凝視していた。
雨に打たれながら身じろぎもせず立ち続ける真壁の姿。
「え……?」
ミナの唇が震えた。
「2時間も経つのに……なんで……」
警察なんて、大人の事情で動くだけの組織だと思っていた。
契約書を見せれば引き下がる、冷たいシステムの一部だと。
けれど、あの刑事は違う。
「……私のために……」
ずぶ濡れになりながら、ただひたすらに、自分がドアを開けるのを信じて待っている。
ミナの胸の奥で、凍りついていた何かが音を立てて砕けた。
――私が悪いんじゃない。
真壁の言葉がリフレインする。
ミナは踵を返し、音もなく自分の部屋へと走った。
部屋の隅、クローゼットの奥底。
誰にも見つからないように隠していた小さな巾着袋を、震える手で掴み取る。
中に入っているのは、地獄のような日々の記録。
もし見つかれば、さらに酷い目に遭わされるかもしれない「爆弾」だ。
恐怖で足が竦む。
でも今行かなければ、あの刑事の想いを裏切ることになる。
一生、この檻の中で飼い殺されることになる。
「……っ!」
ミナはそれをポケットに押し込むと、意を決して部屋を飛び出した。
モニター室からは、まだスタッフたちの下卑た笑い声が聞こえている。
ミナは彼らの死角を縫うようにして、玄関ホールへと忍び寄った。
心臓が早鐘を打つ。
見つかったら連れ戻される。
震える指先で重厚なセキュリティドアのサムターンに触れる。
ガチャリ。
微かな解錠音。
スタッフの一人が「ん?」と顔を上げたのと同時だった。
ミナは全体重をかけて、重い扉を押し開けた。
外で待つ真壁の前で扉がゆっくりと動いた。
隙間から現れたのは、息を切らし、恐怖と決意がない交ぜになった表情のミナだった。
「……本当に、パパに……勝てるの?」
消え入りそうな声。
だがそこには明確な「意志」があった。
「勝たせる。私が必ず」
真壁の力強い言葉にミナは涙を溢れさせながら、ポケットから握りしめていたものを差し出した。
それは小さなSDカードだった。
「……これ、撮らされたの。お客様との……動画。言うことを聞かないと、これをネットに流すって……」
それは彼女自身にとっても致命傷になりかねない「爆弾」だった。
だが彼女はそれを真壁に託したのだ。
真壁が雨の中で示し続けた誠意に命がけの信頼で応えたのだ。
*
土曜日の夜。港区の会員制クラブでは、葛西が主催する「シークレット・パーティー」が華やかに開催されていた。
表向きは支援者への感謝パーティー。
だが実態は少女たちを「商品」として有力者に斡旋する人身売買の見本市だ。
葛西はシャンパングラスを片手に上機嫌だった。
昨夜の警察の介入も完璧な契約書とマニュアルで撃退した。
少女たちは恐怖でより一層従順になった。
システムは盤石だ。
その時会場の入り口がざわついた。
セキュリティゲートの警報が鳴らない。
招待客リストにない人間が、堂々と入ってくる。
スーツ姿の女。
真壁凛だ。
背後には、数名の捜査員が続いている。
「おい、どうなっている!セキュリティは何をしている!」
葛西が怒鳴る。
警備員が蒼白な顔でタブレットを操作していた。
「だ、ダメです!システムが書き換えられています……『警察手帳(ポリス・ID)』だけをフリーパスで通す設定に……!」
照明は落ちていない。
音楽も止まっていない。
織部は何も壊さなかった。
ただ真壁のために「道」だけを開けたのだ。
「葛西庸介。児童福祉法違反および児童買春・児童ポルノ禁止法違反の容疑で、署まで同行願います」
真壁が令状を突きつける。
葛西は鼻で笑った。
「令状?何の証拠があって。彼女たちは同意の上で……」
「同意なんてない」
真壁の声が響く。
「被害者からの告発と、決定的な物証がある」
真壁がタブレットを掲げる。
そこにはミナから託された動画の一部と彼女の悲痛な供述調書が表示されていた。
会場の空気が凍りつく。
「ば、馬鹿な……あの子がそんなものを出せるはずがない。自分の人生が終わるんだぞ!」
「ええ。彼女は傷つくことを選んだ。あなたを断罪するために、自分の傷を晒す覚悟を決めたのよ」
真壁が一歩踏み出す。
「彼女の覚悟に比べれば、あなたの作ったマニュアルなんて、紙屑以下よ」
葛西の顔から余裕が消えた。
「弁護士!弁護士を呼べ!これは不当捜査だ。契約書には……」
その時、真壁の持つタブレットに新たな通知が届いた。
送信者は『Unknown』。
『Correction entrusted to you.(校正を、君に託す)』
添付されていたのは、エンジェル・ホームの裏サーバーから抽出された「裏契約書」と「脅迫マニュアル」の全データだった。
法的にも逃げ場のない、決定的な証拠。
織部は最後まで、舞台には上がらなかった。
真壁の「説得」が成功したことを見届けた瞬間に、最後の一押し(トドメ)を彼女の手に委ねたのだ。
「……残念ね、葛西代表」
真壁は手錠を取り出し、ガチャリと冷たい音を立てて葛西の手首にかけた。
「あなたの校正(修正)は、完了したわ」
*
パトカーのサイレンが夜の街に響く。
連行されていく葛西をシェルターから保護された少女たちが身を寄せ合って見つめていた。
その中にはミナの姿もあった。
彼女は泣いていたが、それは絶望の涙ではなかった。
真壁は空を見上げた。
ネオンの光が滲む曇り空。
どこかでこの光景を見ているはずの「彼」に向かって、小さく息を吐く。
今回は、処刑人は現れなかった。
その代わり、一人の刑事が法と心の間で足掻き、一つの正義を勝ち取った。
スマホが短く震える。
画面には文字も通知もなかった。
ただ、バッテリー残量のアイコンが、満タンに光っているだけだった。
それはまるで、「よくやった」という無言の合図のようだった。
(第10話完)
第3部「追跡者の校正」をお読みいただきありがとうございます。
本作に至るまでの「修正」の記録を、以下のアーカイブよりご確認いただけます。
■ 第1部:『マニュアルキラー』
https://ncode.syosetu.com/n4289lo/
設備屋として潜伏する織部悟。彼は、社会の誤植(悪意)を赤ペン一本でデバッグする「伝説のエディター」だった。すべての始まりとなる第1シリーズ。
■ 第2部:『マニュアルキラー Ⅱ —校正なき改竄—』
https://ncode.syosetu.com/n4641ls/
論理パズルを愛する男・三谷と、システムを免罪符にする「ルール」との死闘。織部が「仕様」を悪用する巨悪をいかにして葬ったかを描く、緊迫の第2シリーズ。




