終電まで10分間を過ぎた後
私はいつものように青い砂時計をひっくり返した。
朝倉航一の手首で、腕時計が振動した。航一の頭が動いて、視線が時計盤に落ちる。
上村茜はそれに気付いて、テレビの横に置かれた砂時計を手に取った。
サラサラとガラスの中を流れ落ちてく鮮やかな青い砂。
砂時計を使うようになったのはいつからだっただろう。
最初は軽い気持ちだったと思う。「これ見てたら、時間わかるんじゃない?」そんな風にのんきに無邪気に私は砂時計を棚の上から引っ張り出して、ひっくり返した。
最寄り駅の終電まで、あと10分。
駅とマンションまで5分くらいかかるから、あと5分で航一はこの部屋を出て行く。
このやけに明るい青色の砂時計は、友達のお土産だ。
「5分でごめんね、3分の方が使うよね?」
そんなことを言われながら、手渡された装飾過多な砂時計。
可愛くて明るくて、実用性はともかく友達が私のために選んでくれたってのは、よくわかった。
「かわいいし、インテリアにするよ」
そう返したあの日は、まさかこういう風に使う日が来るとは思わなかった。
5分後には、航一は私の部屋を出て行く。
そして最寄り駅まで5分間の道のりを歩いて、終電に乗り、自分のアパートに帰る。
彼が私のマンションから出て行くまであと5分。終電まではあと10分。
たった5分のカウントダウンが始まった。
最初の頃、私は5分という時間を短いと思った。
5分は何もかも足りない。
次の予定を決めるのにも、部屋を片付けるのにも、愛してることを伝えるのにも、あまりに短い。そう思っていた。
だけど、私たちは慣れた。
5分という時間に、慣れてしまった。
この5分がくるより前に、次に会う日を確認した。
彼がいつも手伝ってくれる食事の片付けも、もう済んでいる。
だから最近の私達にとってこの5分は、砂時計の砂が落ちきるのを待つだけの時間になっていた。
航一がジャケットを羽織り、鞄に荷物を詰め込めば、もう出る準備は万端だ。
語る言葉がない。やることがない。テレビにも興味を引かれない。
気まずい沈黙。
「…………」
私と航一の駆け引きのような5分間が始まった。
この1Kのマンションは私の家である。
地の利は私にある。
私はとりあえず缶チューハイを新しく開けた。
5分では飲みきれない量だが、構わない。
彼が出て行った後でだって、私はお酒を飲める。飲み続けられる。
一人ぼっちでも。
一口、二口舐めてから、続いて、ベッドサイドのテーブルに置いてるブラシを手に取った。
ベッドを背もたれに、床に置いたクッションの上で、すっかり乱れた髪をとかし始める。
そうしているといかにも手持ち無沙汰であった航一が私の後ろに回り、私からブラシをそっと取り上げた。
ギシとベッドが軋む音がした。
「あ、ありがと……」
「いや、俺がしたいから」
髪を、とかされる。
人にやってもらうのと自分でやるのとではずいぶんと感触が違う。
私は髪の毛の塊があれば、強引にブラシを下ろして、ブチッとしてしまうが、彼はそうしない。
丁寧に私の髪を撫でる。なんだか愛撫みたいで、照れてしまう。
とても丁寧で、ゆっくりと時間を使う彼の髪のとかし方。
だけどその時間も5分を保たせるには足らない。
私の髪をとかし終えて、航一がブラシを私に戻す。
砂時計を盗み見る。砂はまだ半分も落ちきらない。
「…………」
ごまかすように缶チューハイを飲む。
おつまみに冷凍食品でも開けようか? いいや、それだと温めの間に時間がオーバーする。
帰ってしまう人の前で食べられない食品を用意するのはなんだか気が引ける。
テレビをチラリと見る。
よく知らないドラマがやっている。
いつも流し見だから展開が分からない。
「……この俳優かっこいいよね」
おお、我ながら中身のない会話。
「茜、こういうのが好み?」
彼も中身のない相づちを返す。
ちなみに俳優と航一の顔は似ても似つかない。
「いや、なんというか、一般論として?」
気を使ったわけじゃないけれど、そう言った。
「なるほど?」
航一は困ったような顔をした。
そりゃそうだ。私だって航一に「この女優かわいいよね」と言われても困る。
機嫌が悪かったら、「喧嘩売ってんの?」とか言ってしまうかもしれない。
彼を困らせてしまった。反省。
「髪伸ばそうかな」
ぽつりと航一がそう言った。確かに俳優の髪は航一より長い。
「ううん、今のままで良いよ」
今のままが良いよと言えばよかったのに、弁解するような感じになってしまった。
そうしているうちに砂が半分落ちた。
沈黙。
ドラマ、消しても良いかな……。
でも、航一が見てる可能性あるな……。
なんだか聞くのも面倒だった。
とにかくおつまみが、足りない。
私は立ち上がり、戸棚からスルメを取り出した。
台所とリビングの間は2歩分くらいの距離しかない。
スルメを取りに行くなど、時間稼ぎにもならない。
「食べる?」
「うん、ありがと」
航一も私が持ってきたスルメをつまむ。
航一が飲んでいるのはコップに入れた水だ。ビールを追加で開けてくれたりは、しない。
咀嚼音がかすかに聞こえる空間が誕生する。
……スルメをすべて噛んでいる間に5分経たないかな。
さすがに無理筋かな。
5分はそれほどまでに長い。それを私はこの1年半で思い知った。
この時間は大学を卒業してから始まった。
私と航一は大学で付き合い始めて、そのまま社会人になっても、恋人ということになっている。
大学時代は、終電の時間も明日の朝も考えず、好き勝手お互いに生きてた。
意味もなく相手の家に連泊して、大学をサボるのなんて日常茶飯事だった。
けれども、社会人になってしまうとそうもいかない。
明日はお互い朝から仕事だ。
大人という生き方を噛み締める1年半だった。
1年半。なんとも微妙な期間だ。
短くはないだろう。
かと言って長すぎることもない。
まだ焦るような期間でもないし、安心できるような期間でもない。
微妙だ。
5分という時間の長さと比べると、1年半の体感はあまりにも微妙だった。
……ああ、いっそ、困らせてしまおうか?
帰って欲しくないとダダをこねてみようか?
それなら5分を潰せそうだ。
もちろん、思い付いただけだ。そんなこと、私にはできない。
そもそも終電まで居座ってくれる時点で優しいじゃないか。
ここから自分のマンションに帰って、もろもろの準備をして、一体航一が眠れるのは何時になってしまうだろう。
砂は、そろそろ落ち切りそうだった。
私はスルメを食べ終えてしまった。
二本目のスルメに手を伸ばすか迷いながら、私はたっぷり入ったままの缶チューハイをすする。
そして砂が落ちた。すっと航一が立ち上がる。その肩にはいつの間にか鞄が提げられている。
「じゃ、また」
「うん」
航一の後についていって、玄関まで見送る。
「ちゃんとチェーンかけろよ、茜」
航一はいつもそう言ってくれる。
心配してくれる。それが伝わる。伝わるのに寂しいと感じる私はワガママなのだろうか。
そう思いながら、返す言葉もいつもと同じだ。
「わかってるよ、気をつけてね」
「ああ」
本当は階段を降りるところまで見送っていたい。
でも、航一がチェーンの音を聞いて安心したいと言うから、私はドアを閉めて、鍵を回して、チェーンをかける。
チェーの音を聞き終えてから、航一はドアの前から歩み去る。
足音が遠ざかっていくいつもの音がドア越しに聞こえる。
自分で言うのもなんだけど、私はお行儀が良いのだと思う。
彼を困らせたり、怒らせたり、そういうことをしたくない。できない。
帰って欲しくない。寂しい。それも本音だけれども。
「……はあ」
足音が完全に消えてから、ため息をついて、玄関から離れる。
航一が水を入れていたコップは、ちゃんと流しの水切り籠に戻されてる。
テーブルの上にぽつんと取り残された飲みかけの缶チューハイ。
5分でだいぶぬるくなったそれがやけに苦かった。
◇◇◇
数日後、やっぱり平日ど真ん中。明日は仕事。
今日はお互い定時に終われたので、適当なお店で食事をしてから私のマンションへ帰って、そのままベッドになだれ込んだ。
ベッドの上、すっかり乱れた髪を手ぐしでイジりながら、起き上がる。
ベッドサイドのテーブルにはブラシと腕時計が隣り合わせに置いてある。
「私、汗流してくる」
「うん」
ベッドに寝転がたまま、航一が軽く手を上げて私を見送る。
着替えとタオルを手に取って浴室へ向かった。
シャワーを浴び、髪を拭きながら部屋に戻ると、航一はまだベッドの上にいた。
「すーすー」と静かな寝息が聞こえる。
珍しい。
航一が私の部屋で寝ているなんて、大学ぶりかもしれない。
裸の上半身にタオルケットを掛けてやりながら、私は床のクッションに座った。
テレビをつける気にもなれない。航一の寝顔を見る。
ひそめられた眉。時折口から漏れ出る不明瞭な言葉。
寝落ちしたせいか、慣れない枕のせいか、快眠とは言えない様子。
それでもこうして寝続けているなんて疲れてたのだろうか。
私達はお互いの仕事の話をあまりしない。
定時に帰れなそうとか、そういうスケジュールの話はするけど、中身の話はしない。
守秘義務とか社外秘とかそういうのが面倒だってのもあるけど、私としてはふたりの時間にそういうものを持ち込みたくないって気持ちが大きい。
航一の方がどう考えているのかは、知らない。わからない。
意外なことに、航一が寝ちゃったことへの不満はさほどなかった。
じっと寝顔を見ている。見ていられる。
好きな人の寝顔を見てるだけで楽しいなんて気持ちがまだ私にも残っていたなんて、意外だ。
時間は刻々と過ぎていったけれど、私は身じろぎもせずに航一を見ていた。
この数日の間に届いた荷物が入っていた段ボールが目の隅にちらついた。
畳んでしまおうかとも思ったが、ガムテープを剥がすだけでも大きな音がするだろうと思い、やめる。
このまま私も寝ちゃおうかな、なんて気持ちがよぎった次の瞬間、ブブと低い音が室内に響いた。
ベッドサイドの小さなテーブル、航一が外してた腕時計が振動していた。
アラーム。終電の10分前。
ブブ、ブブと震える腕時計は、一向に止まる様子はなく、その音はどんどんと私の耳を埋めていく。
「あ……」
とっさに、その腕時計をテーブルから取り上げた。
音は収まる。代わりに私の手の中で、腕時計が震え続ける。
時間を告げ続ける。
「……っ」
ダメだ。航一を起こさなきゃ。
航一はあと5分後には私の部屋から出て帰らないといけない。
その支度のために、もう起こさなきゃ。
そう思うのに、私は腕時計を手にしたまま固まっている。
なんとなく、いつものようにテレビの横の砂時計をひっくり返した。ひとまずのルーティン。
普段はこの時間までお互い起きているから、この時間には準備はほぼ整ってる。でも、今日は寝落ちしてしまったから、服すら着ていない。
航一が何も知らずにむにゃむにゃと眠っている。
私の息は、少し荒い。
どくんどくんと耳元で心臓の音がする。
アラームは止めないと止まらないらしい。私の手の平の中で腕時計が震えてる。
青い砂はまだ半分も落ちきっていない。
落ちてしまえ。早く、落ちきってしまえ。
そうだ。腕時計をクッションの上にでも置いて、私も寝たふりでもして、気付かなかったねって苦笑いする。
そうすればこんなことしてるってバレない。バレずに一緒にいられる。
でも、それをして? 航一は、本当に帰らずにいてくれる?
慌てて飛び起きて、タクシーを呼んで帰っちゃうかもしれない。
その時、私は平静でいられるだろうか。
お行儀の良い私でいられるだろうか。
砂はそろそろ半分が落ちていた。
この頃は、いっそさっさと落ちてしまえと感じていた砂なのに。
今は落ちてしまえと落ちないでが両方同じくらいの重さで、私の心を責め立ててる。
「……航一」
小さい声、届かない。まだこれじゃ、届かない。わかってる。もっと、本気で呼びかけなきゃ。
ベッドに近づいて、手を伸ばして、肩を揺すって。
起こさなきゃ。
「……お、起きて」
ダメ、届かない。声がか細い。
砂の残りは、ほんのわずか。
航一が、帰れなくなってしまう。
明日も朝から仕事なのに。
「航一……!」
私は結局、航一の肩を、タオルケット越しに揺らしながら、控えめに声を上げた。
「……うん?」
気だるそうに彼は目を開けた。
「……あれ。あ、ごめん、茜のベッド占領してた」
目をまたたいて、状況を確認した航一が真っ先に口にしたのは、そんな謝罪だった。
「そ、そんなことより、じ、時間……っ」
罪悪感に苛まれながら、腕時計を突きつけた。スマホと連動するスマートウォッチ。私の手の中でまだ震えてる。
「え、あれ、うわっ」
航一は時間を確認すると、慌てて私から腕時計を受け取って、横のボタンで振動を止め、左手首に巻き付けた。
起き上がった航一の身体からタオルケットが落ちていく。
帰るんだ。
その言葉を呑み込んで、私はベッドの足元に落ちていた航一の服を拾い上げる。
「……茜」
低い声に、服を渡そうとした手が、ピタリと止まる。
航一はベッドの上で上半身を起こしたまま、ボーッとした目でこちらを見てた。
なんだか動きが遅い。
「あの、今からなら、急げば終電、間に合うと思うから……」
「……そう、だよな。そうなんだけど……」
航一は服を受け取って、じっと見た。
「……帰る前に汗流したいから、シャワー借りて良い?」
「え……? う、うん……。タオル、いつもの棚から取って」
うなずいてしまったけれど、青い砂は気付けば落ちきっていた5分が経った。
ここからシャワーを浴びたら、どのくらい時間がかかる?
「うん、ありがと、茜」
静かな、普通の、やり取り。
航一が焦らず、静かに歩いて行く。
青い砂も落ちきった静かな部屋。
昨夜と同じ一人きりになった部屋。
けれども、まだ、航一は私の家の中にいた。
タクシーも呼ばずに、シャワーを浴びに行った。
終電の時間は、気付けばとっくに過ぎていた。
◇◇◇
何もする気になれなくて、床のクッションに座ってベッドを背もたれにしていた。
砂の落ちきった砂時計が、チラチラと視界に入る。
ああ、これがここにあるのって、私がアラームに気付いていた証拠になっちゃうな。
そう思っても、片付ける気力が湧かなかった。
しばらくして廊下をひたひた歩く音とともに航一が部屋に戻ってきた。
「ごめん、腕時計、うるさかったろ」
「いや、えっと……っ」
言えない。テーブルから拾い上げたからうるさくなかった、なんて。
「寝てたの、珍しいね」
へたくそな誤魔化し。
「うん。飲みすぎたかな」
「そういう感じじゃなかったよ」
思い出す。夕ご飯の光景。いつもの適当に入る店トップ3くらいの個人経営の居酒屋。
『居酒屋だけど、とにかくご飯食べちゃうんだよね』なんて言い合うくらい食事が美味しくて、お酒は二杯くらいしか飲んでない。
「そうだよな、いつもどおりだった」
航一はそう言って私の隣、クッションも使わず床に座った。
シャワー上がりの体温がほんのり近い。
ベッドの上でのどこか性急な熱ではなく、ほっとするような穏やかな温度。
「仕事、疲れてた?」
問い詰めるみたいに尋ねる。
違うのに、もうちょっと、優しく柔らかく質問したいのに。
「ほっとしてた。……茜のベッドだなあって」
「なんかそれ変態っぽい」
つい口をついて出たのはそんな言葉。
「そうかも」
航一はそう言って小さく笑った。
「あの、終電……」
「うん、もう行ったよな」
航一が手に持ってた腕時計を見た。一回つけて、シャワーを浴びるときまた外して、ここでも外したまま。
10分とか5分とか、とっくに過ぎていて、終電の時間は過ぎてしまった。
「まあ、別に、たまには」
航一が何でもない風にそう言った。
「明日の仕事、大丈夫?」
「大丈夫だよ、今日一日くらい」
「でも……」
「茜のおかげでいっぱい寝れたし」
航一はそう言うと嫌みなくまた笑った。笑ってくれた。
「……ごめん」
「ん?」
「起こしたく、なくて。私、その、起こさなかったんじゃなくて……、寝てて欲しかったんでもなくて……、ここにいてほしかった」
「……そっか」
航一はすぐに言葉を続けることはなかった。ぐるりと私の部屋を見渡した。
小さいテレビ。白い電灯。扉の閉まったクローゼット。まだ畳んでない段ボール。本棚。壁掛けカレンダー。ノートパソコン。
とっくに砂の落ちきった砂時計。
「…………」
航一は砂時計に手を伸ばし、ひっくり返した。
青い砂が落ちていく。
何を計っているんだろう。
「まあ、ほら、起こしてって言わなかった俺が悪いよ」
なんとも言えない、フォローの言葉。
「……でも」
「いてよかったんだって思ったし」
「え?」
「茜、いてほしかったって、いてよかったんだ、俺。終電過ぎても」
「い、いいよ。いいよ、もちろん」
喉が突っ返そうになりながら、私はそう言った。
もちろん。
思わずそう言ったけれど、今まで一度も言っていないかもしれない。
「帰らないで」なんて言えなかったけど、「もうちょっといる?」とも言ったことなくて、「たまにはゆっくりしたら」すら、軽く口にすることすらしなかった。
「じゃあ、もうちょっとこれからは、いるようにするよ、俺」
「い、いいの?」
「茜こそ」
「いいよ、いい」
「そっか、そうだったんだ。聞けばよかった」
「……私も、言えばよかった」
なんとかそう言った。
砂はまだ全然、落ちきらない。
「えっと……茜、眠いだろ? いつもはもう俺帰ってるもんな」
「……わりと起きてるから、まだ平気」
「そうか、それならいいんだけど」
「航一は?」
「いつもならまだ電車の中だし、電車の中では寝てない」
「そっか」
「今日は久しぶりにぐっすり寝たし」
「あれで……?」
ずいぶん寝苦しそうだったけど、あれでぐっすりって心配になる。
「寝相悪いってよく言われる」
「いや、あれはもう寝相って言うか、もっとなんか……」
「心配してくれるんだ」
「当たり前じゃん……」
砂時計を見た。半分より、ちょっと多い。
「昔と比べたら?」
「え?」
「いや、ほら、大学の時とか、結構寝てたと思って」
「えっと……」
寝てた。
私の部屋の床とかに、転がって寝ては、起きて身体を痛めてた。
「……見てなかったかも」
「うん?」
「あの頃、顔とか見てなかった」
寝てるなと思って、たまに毛布掛けてあげて、それで終わり。
寝顔なんて、気にしてなかった。
「そうなんだ」
「日常だった」
普通だった。自分の部屋で航一が寝てるのが。
気付けば普通じゃなくなってた。特別になっていた。
「あのさ」
航一は砂時計を見た。
半分を、過ぎたあたり。
「茜さえよければなんだけど……、ちょっと散歩しない?」
「散歩?」
時刻は終電が終わって、深夜0時を回った頃だった。
◇◇◇
秋の夜。夏の暑さが通り過ぎて、でも、まだ寒くはない。
夜の散歩には、ちょうどいい季節。
住宅街を並んで歩く。
静かだ。
ここらへんは一軒家が多い。
都会の外れたところにある住宅街。
新旧の一軒家があり、ファミリーカーや子供用自転車が停まってる。
ファミリー層が住んでいる住宅街。
そこにぽつんと私の住む単身者用のマンションがそびえ立っている。
上手い具合に溶け込んで、邪魔になっていない。
朝はちょっと小学生の群れの中に突っ込まなければいけないのが気が引けるけど、夜はほとんど誰も歩いていない。
時折大きな道路の方から車が走り去る音が聞こえる。
「……なんもないね」
「そうだな」
航一がこくんとうなずいた。
コンビニくらいなら近くにあるけれど、別にコンビニに行きたかったわけでもないだろう。
「大学近くは、わりと色々あったね」
「学生街だったもんな」
大学時代もお互い一人暮らしだった。
周囲には学生用のアパートがたくさなって、夜までやってるお店に同じような学生がたむろしていた。
一人で夜出歩くことはなかった。いつも航一が一緒にいてくれた。
こんな風に日付が変わるくらいの時間ふらふらしていることもたまにあった。
ああ、懐かしい。
別に、戻りたいとは思わないんだけれど。
若気の至りだなと感じることもたくさんあるけれど。
懐かしい。
でも、その懐かしさに、寂しさは今はない。だって、航一が隣にいるから。
「……どうしたの、急に」
私はそう聞いた。
「俺さ、この時間帯のここら辺、好きなんだよね。終電で帰るとき、通るけど」
「初耳」
「うん、初めて言った」
航一がまた緩やかに微笑む。
笑顔にいちいち反応してしまうのは珍しいからではなく、嬉しいからだ。
「終電で帰るから、茜を誘うわけにもいかなくて、なんか……共有したかった」
「これを?」
「これを」
困った。別に良いものなんて何もない。
都会の夜だ。空も暗くて星もない。
静かなのが、良いくらい。
何考えてるのか、よくわかんない。
「安心するんだ、ここら辺。住宅街で、家族向けで、うるさくなくて、変な酔っ払いとかもいなくて……。この町に茜が住んでるって安心する」
「なにそれ」
困惑。
こんな変哲のない町のこと、航一はそんな風に思ってたんだ。
「きっと、今夜も茜は安心だって、そう思いながら帰れるんだ」
「…………」
言葉に詰まる。
何も言えなくなる。
知らなかった。そんなこと考えてたなんて。
自分は夜の道を一人で帰ってるくせに、マンションで、時にはもう寝ている私のことなんて心配してる。
「……チェーンしてるし」
なんとかそう言った。
「そうそう、チェーン。いつものチェーンの音と、この静かな町で、俺、いつも安心しながら、帰ってる」
「……そんなこと、考えてるの? 帰りながら? 私のこと?」
「そうだよ」
静かに航一がうなずいた。
「将来、住むなら、こういうとこがいいなって。こういう車買ってさ」
航一が通りすがりの家の車を指さした。
車の名前には疎いけど、CMで見たことがある。四人家族が遠出するCMだった。
暗い夜なのに、その中のチャイルドシートがずいぶんと光っているかのように目についた。
「……車、欲しいの?」
まだどこか自惚れることができないまま、そう言っていた。
大学時代はたまにレンタカーで遠出をした。
私は完全にペーパードライバーだから、旅程なんかも含めて、航一に丸投げだった。
航一の地元はちょっとした地方都市だから、車の運転は手慣れていた。
学生時代、卒業前、一回お邪魔したことがある。
のんびりした感じのご両親が帰り際、力強く「また来てね、茜さん」と言ってくれたことが妙に思い出される。
「いや、一人ならいらない」
航一はあっさりとそう言った。
「……茜と乗りたい」
「……そ、そっか」
ファミリーカー。意識してしまう。
まだ1年半だ。社会人になって1年半。
仕事に慣れないなんて言えないくらいになってきたけど、胸を張れるほどではまだない。
そんな立場で、そんなこと考えるなんて、早すぎる。
ずっと、そう思っていたけれど。
「いつか、買おうね。……その頃には私、また教習所通ってペーパー卒業しようかな」
「うん、いつか」
暗い外。
誰ともすれ違わない閑静な住宅街。
普通の声で話をするのも、ためらわれるほど静かな夜。
小さな約束をした。
さっきまで、ただの住宅街だった町。その家の一つ一つに、急に個性が見えてきた。
ここにはたくさんの家族が暮らしている。
あの大きな玄関の家を、朝一気に出て行く一家。
今、機敏に目を覚ましじっとこっちを見ている犬の散歩をしている一家。
フラットな石畳の上を置かれたベビーカーを押して出てくる一家。
全部どこか航一と茜の姿で思い描いてしまう。
「お互い半年後、部屋、更新だろ?」
「そうだね」
次に何を言われるか、わかった気がした。
「一軒家は、まあ早いにしてもさ、二人で住めるとこ……、エリアとか、物件とか、今からちょっとずつ探しておこうか」
「……うんっ」
私は大きくうなずいて、そして微笑んだ。
手を伸ばす。手を繋ぐ。夜の町を、まだまだ私達はゆっくり歩き出した。




