第一話
「ミ~ンミンミンミンミ~ン...ミ~ンミンミンミ~ン」
夏の鳴き声が深い眠りについていた意識の底を突いてきた。
「うぅ~ん...」
寝返りを打ちながら無造作に放り投げられたスマホの電源ボタンを押す。
「...ヤバァッ!」
目に映った画面は佐藤倖一が学校に遅れる可能性を示唆していた。空気を破るようにして起き上がり、すぐさまハンガーに掛けてあった制服に着替える。
一学期の期末テストも終わり、夏休みにあと数日で入るという事実は男子高校生を寝不足に陥らせる理由として十分過ぎた。
一階へ続く階段を駆け下りた。今日も父と母の姿はない。電源が消えたテレビの黒い画面に映った寝ぐせの酷い自分を一瞥すると、台所のテーブルに置いてあった食パンをわしづかみにし、そのままの勢いで玄関のドアに向かった。
食パンで頬っぺたを膨らませながら自転車の鍵を外す。急いでいて気付かなかったが、自転車に跨ったあと、口の中にはほんのりと甘く香ばしいバターの香りがあふれていた。牛乳も一口飲めばよかったな、そんなことを思いながら家の周りを囲ったブロック塀の間にある出入り口をあとにする。
一歩踏ん張ると、昨日早く家に帰ろうとして上げていたギアがズンと両足に負荷をかける。一瞬倒れそうになったが、すぐにギアを下げて持ちこたえた。帰宅部にとっては早く家に帰ることだけが、自分が学校に存在することを証明する唯一のものだった。
自分の家から東丘高校に行くまでの道のりは、傾斜が緩い登り坂となっている。道路沿いの木々の影にあるセミの抜け殻は、自転車のタイヤによって容赦なく踏みつぶされた。
傾斜が緩いと言っても、登り坂を自転車で登るのは、歩いて登るより体力を相当必要とする。
ただでさえ余り運動をしないというのに、梅雨の気配が少し残った夏の空気を纏いながら登る坂は、学校をより一層憂鬱なものに思わせた。
◇
学校の校門から校舎に続く、緩やかなカーブを伴った東丘坂は、その名の通り、東丘高校が周りより小高くなっている丘の上にあることを表していた。
なんで毎日坂の後に坂を登らないといけないんだよ、くそ!、そんなことを思いながら、急いだことにより時間に余裕ができたため、自転車を押しながら重たい足を一歩一歩進めていた。
「......あ!、倖一じゃん」
地面に落ちる汗にあった目線を、胸元のボタンを開き、右手でスクールっバックを掴んだのを肩に乗せた、同じく帰宅部の黒澤俊介に向けた。
「おー、俊介、おはよう...お前もか」
「待った!俺を現実から逃れるためにゲームに明け暮れる貴様と同じにするでない!」
「はいはい」と、またこいつの中二病地雷を踏んでしまったか、適当に聞いておこう、そう思いながら相槌を打った。
「昨日、というより今日だったかもしれないが、俺は雪落山の北林にあるあの鉄塔の下で、黒魔術による悪魔の召喚実験をしていたのだ」
「へー。で、またなんでそんなことを?」
「前も話したと思うがこの花丘地区には、『万象の深淵』という都市伝説サイトで話題にもなった、魔界とつながる”穴”があるらしいんだよ」
そんな中二病しか訪れないようなサイトのどこに信憑性があるんだよ、そう心の中でツッコミながらも俊介の話に耳を傾け続けた。
「んで、花丘には昔、夏にそのとある穴に対して、生贄を供えて豊作を願う儀式が行われていたらしいんだよ。」
「それと何が昨日お前が悪魔の召喚実験をしていたた理由とつながってんだよ。まさか、花丘が悪魔崇拝をしていた地区だった!とかサイトに書かれてでもあったのか?」
「いや、そうゆうわけではない。だが俺は少し引っかかったんだ。ほら、花丘祭りってもうそろそろだろ?」
花丘祭りとは、夏に花丘で行われる夏祭りのことだ。
「まあそうだけど、別に花丘祭りがその昔の儀式とは何も関係ないだろ。だって花丘祭りは地域復興の一環で戦後から行われるようになった祭りなんだぞ。そんな伝統的なことは行われていない。」
「...んー。そうだといいんだけど。お前6年前のこと覚えてないんだろ?」
一瞬、二人の間に沈黙が流れ、蝉の鳴き声はより一層五月蠅さを増した。
「...俺は屋台回ってたから知らなかったけど、あの日って花丘祭りの日で、倖一が記憶を失ったのってその日だろ?もしかしたら、それと『万象の深淵』に載っていた悪魔の噂とか、その儀式のことが関係あるんじゃないかって思ったんだよ」
「違うよ。俺と俊介がそれ以前どんな関係だったか知らないけど、あれは山の中に勝手に子供二人で入って、崖から落ちて頭を打った自分の所為だよ。悪魔なんているわけないだろ」
早くお前も大人になれ、そんなことも思いながら俊介の馬鹿げた中二病話を突き放した。
「そういえば、榊原さん最近何してんだろう。」
その瞬間、倖一の目元が少しピクっと動いた。
「倖一なんか知らない?別に魅力を感じているわけじゃないけど、榊原さんなんか知らないかな...」
「別に優菜さんと悪魔は何も関係ないだろ」
自分では気付かなかったが、少し怒気が漏れていたようだ。急にどうしたんだ?というふうな顔をした俊介が倖一の顔を窺っている。
「いや、ごめん。何でもない」
何についてなのか自分でもわからなかったが、とりあえず謝っておいた。
いつも通りのしょうもない話になんでこんなに真剣になっているんだろう、馬鹿馬鹿しい、そう思っていると昇降口がすでにそこに来ていた。
「やば!もうこんな時間じゃん!」
少しの間顔を伏して考え込んでいた俊介が、左腕に巻かれている黒い腕時計に目を見張る。
「じゃあまたあとで..倖一も急げよ」
そう言うと俊介は俺を一瞥したあと、前に向かって玄関の中に駆けていった。
今年も鬱陶しいほど暑いなと、顔を上げ、雲一つない空にギラギラと光る太陽を手で隠したあと、自転車のハンドルを押す手に力を込め、駐輪場に向かう体の速度を上げた。