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前編






 ヴィクトリア・ウェルスはのんだくれである。


 彼女は酒が好きだった。

 彼女は些細なことを気に病む性質(たち)で、他人の感情の機微に敏感で、なおかつそういう自分が()()()()()だった。なにかつけくよくよと思いなやみ、あれやこれやと気をまわして、両親や親族に遠慮して云いたいことも云えないのがいやだった。


 彼女は十五歳の頃社交デビューを果たしたが、まったくもってその結果は散々なものだった。

 ヴィクトリアはおとなしく、物静かで、面白みのない令嬢だった。水彩画をたしなみ、外国語を幾らか理解し、ポロとクリケットのルールを理解している程度の人畜無害な令嬢である。こっそりとレースあみをするのと、社交場で階級の違う相手とダンスをするのが親への反抗というタイプだ。間違っても古典など読みはしないし、博物館の綴りも知らない。

 ヴィクトリアは美人だ。おとなしそうな優しい垂れた眉と、いつも笑っているような潤みがちな目、顎にあるほくろ、石炭のような真実黒い髪、黄金色の瞳、どれをとっても美人の要素しかない。

 身長も高からず低からず、ほっそりした腰となだらかな肩をしていて、だがしかし彼女は手が大きかった。


 それが彼女の一番のなやみ、劣等感の源だった。


 水彩画を描いて先生に誉められても、賞をとっても、こっそりあんでいるレースが素晴らしい出来だと自分で思えても、ダンスが上手にできて喜んでも、次の瞬間自分の手が目にはいって気持ちがみるみるしぼんでいく。




「ヴィク、またうかない顔をしてますね?」

「ああ、ピート」

 五度目のシーズン、二十歳になったヴィクトリアは、仕立てたばかりのシャルトリューズ色のドレスを着て、社交場の片隅の居心地いい椅子へ腰掛け、項垂れていた。彼女は先程、高位の青年貴族とダンスをするチャンスを得たのだが、ダンス自体はうまく行ったのに食事に誘われなかった。

 何度目だろう? わたしがここでこうやって項垂れ、涙をこらえるのは。

 ヴィクトリアは手が目立たないよう、手をひろげないように、ものを成る丈持たないようにしていた。それでも、ダンスで組めば手の大きさは相手にわかり、一曲踊り終えると相手は実に丁寧で礼儀正しい挨拶をし、彼女の前から去って行くのだ。いずれ、自分達がささやいた「男のような手の令嬢」の噂が、当人に届くとも知らず。


 ヴィクトリアは優しい友人に目を向けた。仲間からピートと親しげに呼ばれるこの気のいい青年は、貴族ではなく商人だった。母親が貴族の出ではあるものの、日常的に商売でもって金を稼いでいる彼は、その為に社交界では貴族達にばかにされ、陰口をいわれ続けている。

 だが、貴族のヴィクトリア自身は彼のことが好きだった。ほとんど愛しているといってもいい。何故なら、ピートだけだったからだ。彼女を食事に誘ったのは。


 ピートは給仕に命じてのみものを持ってこさせ、ヴィクトリアにすすめた。ヴィクトリアは溜め息を吐いて、上等なクラレットを一息に飲み干す。このところ彼女は()()を愛していた。彼女は酒に弱く、すぐに酔っぱらうのだが、酔ってしまうと平衡感覚もなにもなくなるので、自分の手の大きさを直視しなくてよくなる。だから彼女は酔うことが好きだった。

 ピートは優しい表情をして、ヴィクトリアの顔をじっと見た。分厚いレンズのはまった眼鏡をおしあげる。

「ああ、どうしてなのかしら」

「なんです?」

「どうして、わたくしはこうなのかしら」

 ヴィクトリアは耐えきれずに咽をつまらせ、涙をこぼした。付き添いの婦人が手巾をとりだし、ヴィクトリアはそれで必死に顔を隠す。ピートは鋭い目付きで彼女を見て、小さく頷いた。

「ヴィク、心配ありません。皆、彼女に夢中ですよ。ここは誰にも見られていない」

「ええ……」

 ヴィクトリアは手巾から顔を上げ、広間の中央で踊るカップルを見た。背の高いアーサー・レーキと、小柄で可愛らしい男爵の娘・コーラルが、見事なダンスを見せていた。

 ふたりを見物する人垣に、エドワードの姿を見付け、ヴィクトリアはまた涙をこぼした。彼が魅入られたようにコーラルを見ていたからだ。




「ごめんなさい、とりみだして」

「いいえ、ヴィク、僕の為に君を動揺させたのなら、申し訳ありません」

「いいえ、違うの、ピート」

 ヴィクトリアは指で目蓋を軽くおさえ、その部分の熱をどうにかしようと試みる。

 どうにもならない。

「彼を見た?」

「はい?」

「エドワード……ヴォーテクス卿を。彼はコーラルを見ていたわ。彼も、彼女のような、小さくて可愛らしい子がいいのよ」

 ヴィクトリアは低声(こごえ)で付け加えた。「コーラルのあの小さな手を見た? 彼女が絵をまったくかけないことに全財産をかけたっていい。あれでどうやって絵筆を持つというの? 食器を持てるかどうかも怪しいわ」

「ヴィク」


 ピートが小さいが鋭い声で云い、ヴィクトリアは顔を上げた。眼鏡の奥のピートの目はまったく笑っていない。

「君は、ヴォーテクス卿と、なにか?」

「え? ……いえ、なにか約束しているというのじゃ、ないの。そんなのはありえないわ。わたくしと彼では、釣り合わない。彼は未来の公爵閣下なのよ」

 ヴィクトリアはなにかにつけ悲観するところがあったのだが、今回に関しては彼女の推測は外れていなかったし、悲観的すぎる訳でもなかった。エドワードの家は公爵位を持ち、なおかつ長く続いている貴族のなかではおそろしいほどに羽振りがいい。財政に関してはなんの心配もない。

 ヴィクトリアの家もそれなりの家格とそれなりの財産を持っていたが、持参金目当てであっても彼女に求婚するものが居ないのを見ればわかるように、特別豊かという訳でもなかった。婿に入れば爵位を継げるが、そううまみのあるものでもない。

 エドワードが雀の涙ほどの持参金でもありがたいと思える程困窮しているのなら話は別だが、彼は血筋のいい娘をゆっくり選べるだけの余裕が、財産面でも年齢の面でもあった。なにより、エドワードの両親は、ヴィクトリアの家と縁付くことを求めていなかったし、家格だけでなく彼女のみっともなく大きな手もきらっていた。ヴィクトリアは彼の母親に、面と向かって手の大きさを指摘されたことがある。それから、ヴィクトリアは手が細く、小さく見えるように、苦心惨憺するようになった。


 ヴィクトリアは洟をすする。

「その……たまたま、幼い頃、隣り合った邸で過ごすことが多くあったというだけよ。わたくしが育ったのは、雛菊荘というのだけれど、その隣が彼の別荘で、年に二ヶ月ほど顔を合わせる状態だったの」

「ああ、そういうことでしたか」

「彼はわたくしにとても……優しくしてくれたわ。でももう、忘れているでしょう。だからわたくしに目もくれないし、わたくしのことなんて……わたくしは、彼と一緒だと、気にしないでいられた。いろいろなことを……」

 大きすぎる手、些細なことにくよくよする性質、どれだけパーティや社交場へ顔を出しても求婚されない娘への両親からの失望、親族からの嘲笑……。


 ヴィクトリアは数杯目のクラレットをあおり、歯を食いしばった。彼女は自分の顔が決して不美人ではないこと、寧ろ男性に好まれる顔であることを自覚していた。実際のところ彼女はよくダンスに誘われていた。デビューした年は。それ以降は、物好きでこわいもの知らずの男性が寄ってくるだけだ。美人なのに男の手をした令嬢。神が間違って、もしくは面白がってつくった不良品。

 この手。大きな手。

 ヴィクトリアは衝動的に、手をテーブルの角へ叩きつけた。お付きの婦人達が小さく悲鳴をあげ、ピートがヴィクトリアの手を無遠慮に掴む。ヴィクトリアは痛みに涙をうかべ、じんじんする手を睨みつけていた。これまでもそうやって感情に任せてきた。女中達が彼女の手の傷を隠す為の手袋をどれだけ用意してきたかしれない。

「ヴィクトリア?」

「この手が、わたくしの人生を、耐えがたいものにしているのよ」

「君、馬車の用意をさせなさい。彼女は気分が悪いみたいだ」

 お付きの婦人がひとり、慌てて走っていった。ピートはヴィクトリアの耳許へささやく。「ヴィク、君のなやみは僕がなんとかしましょう。ヴォーテクス卿が君を思い出したら素敵だと思わないかい?」

 ヴィクトリアはピートを見て、目を瞠った。






 数日後、ヴィクトリアは姿を消し、運河からシャルトリューズ色のドレスがひきあげられた。

 エドワード・タロンが病死したと彼の家族が届けを出したのは、更にその数日後のことである。






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