1.木陰の目覚め
鼻をくすぐるような心地よい風が吹いている。
ザザーンーー
遠くには波の音が聞こえる。おそらく浜辺が近いのであろう。
鳥のさえずりが聞こえる静かな木陰で、一人の男が目を覚ました。
(…眩しい…)
心地よい風と暖かな日差しに身を預けていたようだが、
意識を失う前のことを思い出した男はガバっと立ち上がり、
自分の手で確かに抱いていたはずの少女が共にいないことに気づいた。
「…ッ樹李!」
(…いない…確かに樹李をこの手に…)
(俺は…鉄骨が落ちてきたのを受けたん、だよな…
…ここは…?どうやって外まで…)
最後に覚えのある感覚では全身が痛みで麻痺をするほどにボロボロであったはずだが、
服は所々破けており傷も多少あるものの、立ち上がり動けている自分の身体を確認しながら男は辺りを見渡した。
(茅ヶ崎…にしてはやたら静かな場所だ。樹李と一緒にここまで来たのか…?)
「…クソッ、まずアイツ探してウチに連れて帰らねぇと…」
少女の行方を追うため、木陰から移動し波の音がする開けた場所へと歩いていく。
男は眩しさに眉をひそめながらも、目に入る光景に息を飲んだ。
まるで異国のリゾート地のように白く輝く砂浜と青く透き通る海面が広がっており、見知った湘南の海では無いことは明らかだった。
「ンだぁ…ここは…」
ザザーンーー
人の気配すら感じない。ただ波が打ち寄せては帰る美しい海に見惚れていたのも束の間、男は見ていた光景に異変を見つける。
今まで気づかなかった空の様子。
上空にはうっすらと光の壁がドームのように広がっていた。
注視しないとわからない程度ではあるが、境界も見えないほど広大に光の壁は続いている。
「…プロジェクションマッピングとかいうやつか?
にしてもデカすぎんだろ…」
流行り物をそこそこ好むタイプである男は、空中に映像を映し出すイベントに参加したことを思い出す。まぁ、間違いなくそうでは無いのだが周りに誰もいないため否定できない。
(ここは茅ヶ崎じゃねぇな…
あの工場から連れ出されたってことか…?
…鬼塚の野郎が仕組んでいやがったかもしんねぇな…)
自らの置かれている状況に不透明さが増し、イライラしてきた男は慣れた手付きでシャツのポケットを探りタバコの火をつけようとした。
「あぁ?…タバコねぇじゃねぇか…クソッ」
ポケットに入れておいたはずのタバコは無く、喫煙でイライラを解消させるのは失敗に終わる。
無造作に頭を掻きながらも、改めて何か場所を特定するものはないかと辺りを見渡しはじめた。
すると、元いた木陰の奥の方で、探している少女と同じ栗色の髪の毛をした人影が見えた。
(――いるじゃねぇか!)
イライラと共に一抹の不安を感じていた男は、
少しホッとした様子ですぐさま人影の元へ走り出し、大きな声で名前を呼ぶ。
「樹李!」
しかし人影はその声に気づいていないのか足早に遠ざかっているようだ。
「…ッオイ!樹李!」
低木の茂みが多く、人影が段々と見えなくなってくる。
(ックソ、アイツうろちょろしやがって…あとで覚えてやがれよ…)
男は茂みを掻き分けながらズンズンと進んでいく。
再び少女の名前を呼ぼうとした時――
ズバッーー
背後から何かが近づき、男の右腕を掠めて飛んでいった。
「…ってぇ!!」
激しい痛みを右腕に感じて目をやると、
腕から黒い霧のようなものが湧き出しており、大きな切り傷からは血が溢れ出した。
「…ンだよこれ…呪いか!?」
黒い霧イコール呪いというおそらく幼い頃に遊んだRPGゲームから連想したのであろう言葉を放ちながらも、痛んでいるヒマは無いと男はすぐさま少女の元へと走り出す。
(…どっちだ…?
…あぁ、クソいてぇ…、今ので見失っちまった…)
男は走ってきた位置を確認しようと後ろを振り向くと、一際幹の太い樹の上で黒い霧を放つカラスのような生物を見つけた。
「…よぉ。さっきの…テメェだろ…
俺は今最高にイライラしてんだ…ぶん殴られたくねぇなら…失せろ」
額に垂れた赤い前髪から覗く視線は、猛獣さながらに鋭利であった。
並大抵の動物であればそれだけで怯みそうなものの、カラスのような生物はその身体を包む霧をブォンっと揺らすだけで微動だにしなかった。
「…はっ、待っててくれんならありがてぇ。
…樹李見つけたら…お望み通りぶっ飛ばしてやんよ…」
まるで人形のように動かないカラスのような生物を尻目に、男は再び少女を追いかけるため走り出した。
茂みが少なくなっていき、人の通れる幅が確保された道に出ると、その先に白い建物が見えてきた。
…が、その矢先グラリと男の姿勢が崩れる。
(…っく、なんだっ…)
突然視界がボヤけ始め、グルンと世界が回ったような感覚に陥った男は立っていられずにその場に膝をつく。
「…っはぁ、う、腕が…」
痛みを無視して少女を探しつづけて気づかなかったようだが、
先ほど確認した時より広範囲に黒い霧が腕にまとわりついており、痺れるほどの痛みが男を襲う。
(…チッ、いてぇ…
…クソ…行かねぇと…樹李を…連れて帰らねぇと…)
常人はうずくまる程であろう痛みを伴いつつも、男はなんとか立ち上がり、
先ほど見えた建物へ足元をふらつかせながら歩き始めた。
近づいてきた建物を見上げると、白い壁の窓には色とりどりのステンドグラスが飾られていた。
建物の真ん中、高く伸びた柱の上に備えられた銅の鐘が揺れ始める。
リンゴーンーー
(…ここは、教会、か…?
樹李はここに、いるのか…)
鐘の音とボヤけた視界に入る情報から、その建物が教会であろうことがわかったようだが、
傷を負った腕に再び痛みが襲いかかり、男は歩みを止め近くの木陰に腰を下ろした。
気を失いそうになる痛みに耐えつつ、次第にボヤけが強くなる視界に苛立ち、傷を負っていない左腕の拳を握りしめる。
(…クソ…動けッ…)
男が痛みに目を閉じかけた時、
ゆっくりと誰かが歩みを寄せてくる足音が聞こえ、少女がこちらに気づいて来てくれたのかもしれないと、すぐさま顔を上げる。
「…ッ樹李!」
「……じゃねぇ、誰だ…あんた…」
探していた少女と同じ栗色の髪ではあったが背丈は子供のように低く、紺色の長い布を肩から掛けた修道士のような服を着ている。少女は男の声にビクっとしながらも少しずつ歩いてきた。
「あ、あの、えと…セ、セリカと…もうしま、す。
お、おにいちゃん…あの…う、腕が…」
セリカという少女は男の腕を見て目を丸くしている。
どうしよう…と慌てる少女の反応にも応えず、男は遠くなってきた意識をなんとか保ち口を開く。
「…おまえ…
樹李…しらねぇか…
おまえと、おんなじ頭の色、してる…
ねーちゃん…見なかったか…?」
セリカは慌てて落ち着かないのか、パタパタと足踏みをしながら答える。
「え、えと…見てない、です…
ご、ごめんなさい…! さっきまで…海にいた、ので…」
「…そう、かよ…
おまえ、だったのか…さっきまで、うろちょろしてたのは…」
男は自分が追ってきた少女がおそらくこのセリカであるということを確信し、
手繰り寄せていたはずだった希望を失い、項垂れる。
顔を下ろし苦しげな男を見たセリカは、今度は両腕をバタバタとさせながら慌ててどこかへ走り出していってしまった。
(…それじゃあ…樹李は…どこに…)
振り出しに戻ってしまった少女の探索に、次の手を考えようとしても頭が回らなくなってきているようだった。
男の腕を覆う黒い霧は濃度を増し、身体全体が気怠くなってきていた。
(…やべぇ、身体が動かねぇ…)
とうとう意識を飛ばす寸前に、先ほど走り出していったセリカが息を切らしながら、誰かを連れて戻って来た。
「はぁっ、はぁ…
お、おにいちゃん…! トマスさま、連れてきたから…
う、腕を…見せて、ください…!」
そう言ってセリカは連れてきた青年をグイと引っ張り、若葉色のつぶらな瞳に涙を浮かべながら訴える。
「ト、トマスさま…! ま、まだ…、なおせますか…?
お、おねぇちゃんみたいに…黒くなっちゃわない…、よね…?」
白く長い髪を一つに結い、セリカと同じ修道士服を着た青年トマスは、自身の呼吸を整えながらセリカの頭に手を乗せ微笑みながら返答した。
「…何も、言わずに…走るんだから…ふぅ…。
…あぁ、セリカ。この人は大丈夫だよ」
トマスはゆっくりと膝をつき、負傷した男の腕に自身の手をかざした。
「――『祈り』を」
トマスがかざした手から光が溢れ出す。
男の腕にまとわりついていた黒い霧は光に包まれ、スーっと消えていった。
(…なんだ…光が…痛みが…消えてく…)
腕にまとわりついていた黒い霧が無くなると、血が溢れ出していた傷も次第に癒えていった。
「…よしっ。これで大丈夫だよ」
トマスの言葉を聞き、男は痛みに閉じていた目を開けた。
先ほどまでボヤけていた視界もクリアになっている。
上体を起こし、瀕死のところを救ってくれた修道士と少女に礼を告げる。
「…すまねぇ…助かった。
そこのおま…、セリカも。ありがとな」
セリカはよほど心配だったのだろう、涙ぐんでいた目からは大きな雫がこぼれ落ちてきた。
「…ひっく、よ、よかった…」
そんなセリカの背を擦りながら、トマスが男に話しかける。
「レムナントの瘴気に当てられたようだね。
黒化も始まっていたし、危ないところだった。
間に合って、よかったよ」
(…レムナント…?なんかよくわからねぇが、医学用語か…?)
聞き慣れない言葉を医学用語と解釈した男は、先ほどの魔法のような現象をトマスに問う。
「さっきの、あれは…
なんだ…魔法、みたいな光が出てきやがったが」
「…あぁ、瘴気を取るために『祈り』をさせていただきました。
同意も得ずにすみません。あれ以上黒化してしまうと腕を切り落とすか、最悪命を落としかねませんので…」
(…祈りであんなことができるってのか…?
さっきの呪いといい、光の魔法といい、ドラ●エみえてぇじゃねぇか…)
男が小さいころ遊んでいた冒険RPGのような出来事が身近に起きて少々混乱しているところに、トマスはところで…と男が何者なのかを聞いてきた。
「きみ、セリカの…お友達かい?
…それにしては、なんというか…えっと…」
トマスは改めて男を見てみると、
乱れた赤い髪に鋭い目つき、腕にはシルバーのアクセサリーを着けており、さらにはボロボロの黒いシャツを着た成人男性を、可愛いセリカの友人かも…とはいえ、なんと形容したらいいか迷っていた。
「…あぁ、…俺は獅童輪廻。
連れを探してたんだが、途中でカラスみてぇのにやられてぶっ倒れそうなところだったんだが…。
ふたりとも、恩に着る」
「そうだったのかい。大変でしたね、リンネくん。
お連れさんは、まだ見つかっていないのかい?」
リンネ、と日本語とは少し違ったイントネーションで呼ばれた男であったが、
そこは気に留めず、探している少女の情報を聞き出そうとする。
「…セリカと頭の色が似ててな。
さっき追っかけてたんだが、見間違えてたみてぇで…どこほっつき歩いてんのかわかんねぇ」
「トマス…だったか。
輝咲樹李って名前を知ってるか?歳は俺と同じくらいだ」
「う~ん。お名前は聞いたことないですねぇ。
あぁ、華嶋組にセリカと髪の毛の色が同じような女性はいらっしゃいましたねぇ」
「うん、あいかおねぇちゃん!」
すぐに反応したセリカの言葉で、すぐにその女性が探している少女ではなさそうだとわかったが、トマスは首をひねりながら続ける。
「たしかに、若頭さんもセリカと髪の色が似ているね。
僕がもしかしたら、って思ったのは最近入ってきたばかりの子で…名前を思い出せないんだけど…」
「えっと…くみちょうさんの、こうはい、って言ってたおねぇちゃん?」
「そうそう!あの子、名前をなんていったか…」
ここまで黙って聞いていた男リンネだが、飛び交う言葉に少し動揺していた。
(…華嶋組…若頭、組長…!?
おいおい、樹李のやつまさかヤーさんにお世話になりやがってんじゃねぇだろうな…)
(っつうか、こいつら教会の人間だよな…やけにヤーさんと仲良さげじゃねぇか…)
リンネはトマスとセリカの会話から、知らぬ間に樹李がヤクザに匿われているのではないかと勘づいてしまったようだ。
「…わ、わかった。
すまねぇが、その華嶋組ってとこと繋げてほしい。樹李がケガしてるかもしれねぇから、ウチ連れて帰りてぇんだ」
「おや、その方もケガを…そうでしたか…。
リンネくんのお家はどちらに?」
家がどこにあるのか。この言葉の返答以降、リンネは自分の置かれている状況が想像していた事と180度変わることとなる。
「ウチは茅ヶ崎の方だ。
そういやぁ、ここはどこだ? やたら海がキレイだったが…」
「チガサキ…?ふむ…僕はわりと地名には詳しいんですが、
少なくともこの東方区域にそのような地名は無いですねぇ…
あ、もしかしたら南方区域の方に似たような響きの地名はあったかも?」
(…イースト?…サウス…?)
聞き慣れない横文字が出てきたことで、リンネはもう一つ質問をする。
「トマス、お前が日本語喋ってるからあんま違和感無かったけどよ…
…ここは日本だよな?」
「ニホン…?
いえ、ここはウォール6にあるイーストドメイン、ナギミカゼの町はずれです。」
―――そう、ここは、ウォールに守られた世界の6番目『ウォール6』
『湘南之獅子』総長、獅童輪廻は鉄骨の崩落に巻き込まれて死んだ。
そして今、ウォール6東方区域にて、目を覚ましたのであった。