3-1. はじめての夜は突然に(1)
満天の星が夜をいろどりはじめてからかなりの時間がたったころ、シェーナはやっと、公爵家の本邸にたどり着いていた。
馬車は門に入ってからさらに30分ほどことことと常歩で進み、まずは小庭園の入口で止まった。そこから、幻想的な魔法の灯に彩られた小道をまたさらに徒歩3分。 『無駄に広い』 と、誕生日もとい婚約破棄パーティーでルーナ・シー女史が評していたとおりだ。だがその間も、シェーナは心地よく過ごした。悔しいが公爵のおかげである。
「お帰りなさいませ、旦那様。奥様」
「ただいま」
「あの、シェーナ・ヴォロフと申します。これからご厄介になりますが、そんなにかしこまらなくても大丈夫ですので…… 」
玄関ホールには数十名の使用人がずらりと並び、シェーナと公爵を見るなり一斉にお辞儀をした。練習したかのようにタイミングも角度もピシリと揃っていて、それだけで気圧されてしまうシェーナである。
緊張は、出迎えてくれた頭の毛が寂しい執事がクライセン子爵、と名乗ったことでより強くなった。代々公爵家に仕えた家柄であり、身分的にはシェーナの実家のぽっと出男爵家よりも断然上なのだ。
「どうぞクライセンとお呼びください」
「いえ、そんなの恐れ多くてとても無理そうなんですけど」
「おことばですが、奥様。ルーナ王国には身分制はありますが、法律的には国民の平等が保証されております。くわえて奥様はこのクライセンが代々お仕えしている公爵の奥方様となるお方…… もしクライセンがお気に召さなければ、そこのハゲとでもお呼びくださればよろしいのです」
「いえそんな! じゃあクライセンさんで」
「おわかりいただけて何よりです、奥様。私にご用がある際は、こちらのマイヤーに言付けていただければ、確実に伝わるかと」
クライセンの後ろに控えていた男が、静かに礼をした。執事が不在の折には、その代わりも務めるような立場なのだろう。神殿で荷物を持ってくれた人 (かつレストランの予約もしてくれた人) だ、と気づいたシェーナは 「先ほどはありがとうございます」 と言ってみた。
「いえ、仕事でございますから、お気になさいませんように。なんなりとお申しつけくださいませ」
抑揚にややとぼしいが、やわらかな物言いでの丁寧な返事。だが、心の声は神殿で会ったときと同じく、まったく聞こえてこなかった。いつも考えることを放棄しているからだろうか、とシェーナは思った。それとも、過度に自分というものを抑え込んでいるのかもしれない。
「普段のご用はこちらの侍女長、アライダにお言いつけくださいませ」
次にクライセンが紹介してくれたのは、かたわらに控えていた控えめな物腰の女性。かっちり結った黒髪に黒いドレスといかにもお堅そうだが、あいさつをすると腰の黒いリボンにつけた小さな花の飾りが揺れるのがちょっとかわいい。
「侍女長のアライダ・クライセンでございます」
「もしかして、クライセンさんの奥さん」
「さようでございます」
クライセンが照れくさそうな顔をした。アライダの年頃は40歳程度。クライセンのほうがひとまわりほど上に見える。
(結婚した当初から、きっとこんな顔でアライダさんを紹介してたんだわ)
少しばかりなごんだシェーナに向かって、アライダは早口で説明した。
「ご婚約が急に決まったため、奥様のお世話をするメイドはまだ3名のみでございます。新たに補充していく予定ですが、時間がかかる可能性もございますので―― 当面は、ご不便のないよう、わたくしやクライセンにも遠慮なく雑用をお申し付けくださいませ、奥様」
「いえ、3人でじゅうぶんですよ。なんだったらこれまで全部、ひとりでやっていましたし」
「お言葉でございますが、奥様。公爵夫人となられるからには、雑用などは一切なさってはなりません。そうしたことは身体に歪みを生じさせ、優雅さと気品を損ないますので」
「あの、アライダさん。言ってはなんですが、わたしに損なうレベルの優雅さや気品なんてないんじゃないかと…… 」
「ならばこれからお育てになるべきでは、と存じます。おそれながら、これは公爵夫人としての義務とお考えくださいませ。社交においても、身にまとう空気のみで一目置かれるような存在にならねばなりませんのですよ」
「それ最初に聞いてたのと違うんですけど」
たしかシェーナは、公爵から 『社交はやりたければやればいい程度』 と聞いていた。社交のために優雅さと気品を身につけろ、とはひとことも言われていない。
(もしかして、騙された……? )
そうシェーナが誤解してしまう程度には、アライダはやる気満々だった。
【やっと! やっと、わたくしの仕事ができたのです! 大奥様が亡くなってから今まで、仕事がなさすぎて本当につらかった……! もう人間の形さえしていれば誰が奥様でもかまわないとさえ思っていましたが、普通の女の子で良かったです。平凡だけれど、そっちのほうが磨き甲斐もありますしね。腕によりをかけて美しくしてさしあげますとも! ふんすっ】
鼻息を伴い高速で叫ばれる心の声に、シェーナは恐れおののいていた。仕事がなくてつらいのはシェーナにもよくわかるが、腕によりをかけて磨かれることに時間をとられて結局は読書の時間がなくなってしまうのではないだろうか、ということが非常に心配である。一般に、貴婦人の身支度は1回につき3時間というし。
「アライダ。社交など、それほど必要ないだろう? 」
内心暴走する侍女長を、公爵が苦笑してたしなめた。
「僕の奥さんは、社交よりも図書館に入り浸りたいそうだよ。それに、母の時代ほどは社交が重要でもないだろう? 僕は軍人で、政治家でも商人でもないからね」
「…… さようでございましたか。失礼いたしました、奥様。それでは明日にでも、図書館にご案内いたしましょう」
「あ、いえ…… すみません。ありがとうございます」
さすがは公爵家の侍女長というべきか、アライダはよぶんな議論を避け、表向きはすんなり主張を引っ込めた。だが、このとき語られていた心の声は 【このかたを逃がせばおそらく次はありませんとも…… なにしろ坊っちゃまはとっても評判が悪い上にもうかなりのトシなのですから。ここは慎重に、希望に添うように見せかけつつ少しずつ、奥様にキレイになる楽しみを教えていきましょう! ふんすっ】 というものであり、シェーナとしては顔面に引きつった笑みを浮かべるしかない。
「さあさあ、今日はお疲れでしょう。エステのご用意がすでに整っております。マッサージで疲れを癒してくださいませ」 【ふふふふ…… これぞ、感化の第一歩なのです! ふんすっ】
自分なんかのために張り切ってくれている…… と考えれば有難い限りだが、心の声がなんだかいちいちこわい、と思ってしまうシェーナ。
だがこのとき、公爵が不思議そうにアライダに問うた。
「エステ係は母が亡くなってすぐ、侯爵家に移ったのではなかったかな」
「新しいメイドに、エステの心得があるものを選びました」
「なるほどね。シェーナがもし気に入れば、担当を増やそう。王家や侯爵家にもいい人材がいないか聞いてみるよ」
「ありがとうございます。ところで、坊っちゃま」
公爵にきびきびと答えていたアライダが、不意に口調を改めた。シェーナは知らなかったが 『坊っちゃま』 は公爵がその位をつぐよりずっと前の、少年時代の呼び方なのだ。
「ん? なんだい? 」
「念のために申し上げておきますが、あのときのように、彼女たちを誘惑なさいませんように。よくよく、お願い申し上げます」
いきなり出てきた、女たらしの本領発揮のような内輪ネタ ―― だが公爵には、思い当たりがないようだ。不思議そうに首をかしげた。
「いつだい? 」
「坊っちゃまのせいで侍女たちの半数以上の行動がおかしくなって、大奥様が大爆発されたときでございます」