2-1. ふたりのデートは予定外に(1)
清潔でシンプルで、からっぽな小さな部屋。
聖女の誕生日パーティーが和やかに ―― その途中に主役本人の聖女の地位からの追放と婚約破棄という衝撃的なイベントをはさんでいたようには見えぬほど和やかに終わった、そのあと。シェーナは、中央神殿の自室にいた。荷物をまとめて出ていくためだ。
聖女を解任されれば、もう神殿に住む必要もない。そこで、今後は父親の待つ実家に帰るか、父親と国王が勝手に決めた新たな婚約者である公爵の邸宅に移るかの2択がシェーナの前には示されていたのだが、シェーナはあっさりと後者を選んだのであった。まるでシェーナがこの婚約に全力で乗っかっているかのような成り行きではあるが、喜んでいるわけではない。単にメリットがいくつかあっただけの話である。
―― メリットその1、父親へのちょっとした意趣返し。父親に婚約を勝手にとりつけられたことに、シェーナはかなり腹を立てていたのだ。だが、腹を立てても婚約解消はできない。いくら気さくで慈悲深いと評判の国王でも、一代爵位をもらって貴族の端くれに加わった底辺貴族の娘が 『あの婚約やっぱり無かったことにしてください』 とか言えないのだ。国王が怒らなくても周囲が怒る。
仕方ないから婚約はするけれど、いったん実家に帰って結婚前のひとときを父親と過ごすなんて…… 本読むひまもなく怒鳴りあう毎日がやってくるだけだ。確実に。
―― メリットその2、同居したほうが公爵についてのレアな情報を得やすくなる。真の意味で婚約者をおとすと己に誓ったからには、まずは攻略法を見つけなければならぬ。少なくとも、どんなタイプが好きなのかは早めに知る必要があるだろう。ちなみにシェーナは 『女たらし ⇒ 大抵の女には飽きてる ⇒ 有力なのはいわゆる "面白い女" (これなら自分でもできそう) 』 と予想しているのだが、それが正解かはしばらく観察しなればわからぬ。このあたりを考慮しても、同居は必要になってくるだろう。
―― メリットその3は、これがシェーナにとって最大の理由なのだが、公爵家付属の図書館。出入り閲覧ともに自由、と公爵からの言質は、すでにパーティーの途中にとってある。出入り自由とはいえ、曲がりなりにも公爵夫人になるのだから社交やら何やらが大変で本を読む暇もないのでは、と危惧したシェーナであったが…… 公爵はつまらなさそうにこう言い切った。
「社交は下々 (の貴族) がすることだよ」
公爵は現国王の従兄の子にあたり、れっきとした王族。家柄と財産だけで人がすり寄ってくるので、必要な人脈は頑張らなくてもいつの間にかできている。なので社交は、したければすればいいがしなくても大して問題のない案件であるらしい。
つまりは公爵邸に住むだけで、憧れの、本に埋もれるほか何もしない生活が送れるものと考えていい ―― 結婚パセリ男との婚約を喜んでいるわけでは全然ないが、こんなオマケがつくのであれば…… ハタから喜んで食いついてるように見られること程度、ガマンしようとシェーナは思ったのだ。
「じゃあ遠慮なく、おじゃましますね。今日からでいいですか?」
パーティーが終わらないうちにさっくり即決したシェーナに、公爵は一瞬、軽く目を見張り、それからかすかに笑った。
「では、大切なものだけ持っておいで。必要なものはすべて、すぐに揃えさせるからね」
このときの公爵の心の声は 【割り切りの良いお嬢さんというのも、なかなか。泣かれて慰めるのも、またオツなものではあるがね】 というものであった。それって割りきるほうと泣くほうのどっちが彼をおとす近道なんだろう、と思わないでもないが…… どっちにしろ、シェーナはシェーナでしかないのでメソメソ泣くのはかなり無理だ。とりあえずは、なかなか好感触でラッキー、と信じるしかない。
「さて…… さっさと荷物、まとめなきゃ。っていうほどの荷物なんてそうもないか…… 」
神殿のシェーナの自室は、華やかな王宮ホールから戻ったばかりの目には、より殺風景に見えた。品質は悪くはないが、簡素で飾り気のない寝台と机に、小さなクローゼット、わずかな本のならぶ書棚。読みたいものはたくさんあったけれど、忙しすぎてそのうちの半分も読めなかった。
―― 3年前に近所の幼馴染みが、シェーナの手の甲の不思議なあざを 「聖女の印じゃないのか」 と言い出してから今までは一生のうちでもそうないほど目まぐるしく、時間はまさに飛ぶように過ぎていった。
そして、その前に思い描いていた未来 ―― 貧しくても一生懸命働いて、やがては温かな家庭を築く ―― とは、まったく違う未来にシェーナはいる。
聖女となったために与えられたのは、身分と財産、そして分不相応な王族の婚約者。それらをやっかみ、あるいは蔑む人々の心の声。娘のおかげで貴族の端くれに加えられ仕事を得たのを恥じもせず、本来の身分に戻れただけだと胸を張り、より高い地位を得るためにさらに娘を利用しようとする父親 (しかも無自覚) 。そして、聖女としては役立たずでしかなかった自分。
なにもかも当然のことだ、と己に言い聞かせて耐え続けているうち、いつの間にかシェーナの心もまた、この部屋のように殺風景になっていった。
(それでも、後悔なんかしない)
聖女になったときは、お金が欲しかった。病気の母に、すきま風の入らない居心地の良い部屋とじゅうぶんな薬と栄養を与えたかった。それは叶えられたのだから良しとしなければ、とシェーナは思う。あいにくその母親は、この冬の流行病に耐えきれず帰らぬ人となってしまったけれど…… 泣いたってなんにもならないのは、もうとっくに知っている。
シェーナはぐっと奥歯をかみしめ、机の引き出しを開けた。大切なものは、みんなそこに入っているのだ。
貧民街で暮らしていたころ、暴漢に襲われたところを助けてくれたお兄さんからもらったハンカチ。けっこうヘンなひとだったけれど、親切ないいひとだった。
聖女になって初めて買った、美しい装丁の童話集。ルーナ王国で最大手の出版社バルシュミーデ兄弟社の営業担当が、聖女が読書好きと聞いて売り付けにきたものだ。昔から本屋の奥に飾ってあるのを羨ましく眺めるだけだったから、これが手に入ったときには抱きしめて寝たほど嬉しかった。
ハインツ王太子や姉王女のリーゼロッテがくれた宝石。婚約破棄するという連絡を王太子からもらったとき、全部返そうか、と聞いたら悲しそうな顔をされた。そのまま持っていてほしい、といわれたが、持っていても今後、身につける機会があるかは謎 ―― とはいえ、聖女の御披露目パーティーや誕生日に贈られた宝石はどれも、それなりに思い出深いものではある。もっとヒドい目に遭わされた感があればおそらくは見たくもなくなるのかもしれないが、どっちかといえばまだ、懐かしい。己が憐れな被害者だとか情けないことを思わずに済んで本当に良かった、とシェーナは小さく息をついた。
(どっちかというと、最後に笑いとばされたハインツ様のほうが被害者かもね? ふふっ…… )
会場の全員一致の心の声 【 ロ ◯ コ ン ……! 】 を脳裏に蘇らせてニコニコしながら、次にシェーナは布の包みを開いた。あらわれたのは、数点の木彫り細工。手先が器用だった母がこつこつ作った、ブローチや首飾りだ。貧民街でも木の切れ端は比較的手に入りやすいため、手先が器用な者の多くは木工を趣味にしているのである。
母手製の装身具は、最初のうちはパーティーにつけていったりもしていたが 【みすぼらしい】 とあざける周囲の令嬢たちの心の声に耐えきれなくて、やがてしまいこんでしまったものだった。シェーナ自身はそれらをみすぼらしいとも恥ずかしいとも思っていなかったけれど、まるで母までが蔑まれているような気がして嫌だったのだ。
(でも…… もう1回、つけてみよう)
もうシェーナは聖女ではないし、これから会う (というか今、神官長に応対してもらって待たせている) のは 『ルーナ王国一の女たらし』 と悪名高い公爵ただひとり。この公爵は最初からシェーナのことを 【気の毒なお嬢さん】 としか思っていないようだから、シェーナが何を身につけようが関係ないだろう。木の装身具を見て彼もまた蔑んでくるようなら、単にそういう人だった、というだけのことだ。
数々の母の手作りの中からシェーナは精緻に彫られた薔薇のブローチを選び、胸にとめた。
「お待たせしました」
「いや、待つ時間も楽しいものだよ。ああシェーナ、そのブローチ、よく似合っているね。きれいだよ」
神官長と談笑しつつシェーナを待っていた公爵は、彼女を認めるなり、実にスマートにほめてくれた。そして実にナチュラルにシェーナの手をとり、その甲に口づけを落とそうとした。
あまりにも滑らかな一連の言動に、固まるしかないシェーナである。
(なんて隙のない…… これがルーナ王国一の女たらしの実力だというの……? )
対抗しきれるだろうか、と改めて不安になる彼女に、いやまだまだ序の口、と教えてくれる人は、残念ながらこの場にはいなかった。