10-2. 妻の復讐はただ苛烈に(2)
「うっ……」
腰から入れられた渾身のパンチがみぞおちにクリーンヒットし、マイヤーは思わず呻いていた。女性とはいえ侮れない力をもつ、怒りの一撃である。ついで、容赦ない膝が股間めがけて炸裂…… 「おっとマイヤー夫人。それはやりすぎです」
炸裂する寸前で、報復を見守っていた騎士がマクシーネを止めた。にくにくしげにマイヤーをにらみ、ちっと舌打ちするマクシーネ。
愛する妻のかわりように呆然としているマイヤーの耳に 「こんなもの潰れてしまってもよろしいのに」 という、とんでもなく恐ろしいつぶやきが飛び込んできた ――
ルーナ王国の法律はそこそこ整備されてはいるが、未だに原始的な部分も残っている。 『目には目を』 もそのひとつで、人を害せば同じだけの報復が待っているのが基本なのだ。実際の刑罰はそこから裁判をとおし、情状酌量により加減されて決まるのでまったく同等というわけではないが…… 大したことのないケンカ程度なら、騎士団員がその場で同じだけの報復を許可しておさめてしまうことも多い。マイヤーと妻のマクシーネの場合は、まさにこのケースであった。
リーゼロッテの紹介状をたずさえて騎士団を訪れたマイヤーの妻は、これまで夫からいかに暴力を振るわれてきたかをせつせつと訴え、報復と離婚の許可を求めた。殴られたときの傷痕が一部、消えずに残っておりかつ暴力の記憶が体験者でなければ語れないほど詳細であったこと、彼女が (没落寸前でもとりあえずは) 子爵家の三女であったことから、この訴えは適切と認められた。ただし裁判をとおすほどの事案ではない、との判断で今、こうして報復が行われているのである。
「マクシーネ…… なぜ、こんなことをするんだ。私はおまえを愛して、おぶぅっ! 」
最後のおぶぅっ、はマクシーネの右拳がマイヤーの頬にめりこんだためである。
「わたくしは…… 」
マイヤーの妻は、マイヤーがとくに好きだったおっとりとした口調のまま、もう一発、彼のアゴに華麗な蹴りを決めた。彼女は公爵に救われたのち、もう2度と誰からも暴力をふるわれない人間になろうと必死で体術を学んだわけだが、その結果 ―― 護衛もできる侍女ということでノエミ王女付きになったあげくに、またしてもマイヤー絡みで被害を受けたのである。
シェーナとメイリーから説得されるまで夫には恐怖しか感じずトラウマで震えていた彼女ではあるが、いったん決意したら、ふっきれた。そしてふっきれてしまえば、百倍にして返してもまだ足りないのが正直なところだった。ルーナ王国の法律は親切すぎる。
「わたくしは、愛というものがよくわからなくなってしまいました…… 」
そして、みぞおちにまた一発。
「ぐふっ…… 」
「あなたに、愛しているといいながら殴られているうちに…… 」
「げふっ…… 」
「愛ということばを聞くだけで、寒気がいたしますの。口にするのも、おぞましゅうございますわ」
「ごふっ…… 」
「だってあれは、わたくしを支配して服従させるための武器だったのでしょう、あなた? 」
「そんなことは…… 私は真実おまえをあ、ぐぉっ……」
さらにもう一発がみぞおちに決まり、マイヤーはついに立っていられなくなった。騎士が 「そこまで!」 とマクシーネを止める。
「これ以上の報復は、暴行とみなしますよ、奥さん」
「奥さんではありませんから」
「あっ…… 失礼しました。では、離婚を許可します」
「そんな…… マクシーネ! 私は離婚などしないぞ! 認めるものか! 反省する! 今度は殴らない……! 頼む、頼むから戻ってきてくれ……! 」
必死で叫ぶマイヤー。擬態はいつの間にかすっかり解けていた。
そんな彼を完全無視し、騎士は机から紙を取り出してサインをし、マクシーネに渡した。
「はい、これ許可証ね。離婚届と一緒に神殿に提出してね」
「はい。ありがとうございます…… えーとたしか…… ダイエット騎士様、というのはミドルネームですの? 珍しいお名前なので印象深かったのですけれど 」
「いや俺の名前のどこにもそれ入ってませんから」
「あら…… ではきっと、覚え間違いですのね。彼女に伝えておきますわ。では失礼します」
「はいはいよろしく。お疲れ様でしたー」
マクシーネは優雅に淑女の礼をとり、さっときびすを返して取調室の出口に向かった。夫のほうには、一瞥すらない。
「マクシーネ……! マクシーネ……! 愛してるんだ……! おまえだけだ……! 」
重い扉がきしんだ音を立てながら開き、またゆっくりと閉まっていった。
「お気の毒ですがマイヤー男爵。いくら吠えてももう、無駄ですよ…… 」
「マクシーネ…… なぜ、なぜなんだ…… 」
なぜだかわからないなんて、どうかしてる。
内心で首をかしげながら、ダイエット騎士 (シェーナ命名) は泣き崩れるマイヤーにハンカチを渡してやり、さりげない口調でたずねた。
「けっきょくあれ、ワイズデフリンの頼みだったとか全部、嘘だったんでしょう? 」
「 ………… 」
ハンカチを握りしめ、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたままマイヤーがうなずいた。
―― 彼にはもう、なにも残っていなかったのだ。
「…… ぜんぶ、私が悪いんです…… そもそも私なんかが生まれてきたことが間違いだったんだ…… もう、死刑にしてください…… 」
「ああいえいえ、それは無理ですねー残念ながら。アリメンティス公爵から減刑依頼が出てますんでね。良かったねー優しいご主人で」
「 ………… 」
あれが優しさなんかであるものか、とマイヤーは思った。母が亡くなり、使用人見習いとして公爵家に連れてこられてからずっと、公爵はいちどもマイヤーへの態度を荒げたことはなかった。彼の出生については知っていたはずなのに、ほかのみなに対するのとまったく同じように…… いやそれ以上に、彼に対して親切な良い主人だったのである。だが ――
―― もっと憎んでつらくあたってくれていれば。
マイヤーは彼を、不条理に憎まずに済んだのだ。
※※※
ノエミ王女服毒事件の主犯は、公爵家の執事代行、ヨルク・マイヤーただひとり ――
マイヤーをゆさぶるために、騎士団で報復と離婚の許可をもらうようマクシーネを説得した (ちなみに今回の紹介状は事前にきちんとリーゼロッテからもらってきた) シェーナたちでさえも、これほど簡単にいくとは考えていなかった。もともとは 『もしマクシーネの口から告発されたうえに強制的に離婚ということになれば、マイヤーも取り乱して誘導尋問に乗りやすくなるはず』 と推測していただけだ。それほどに、マイヤーの妻への執着っぷりはすごかった。だが実際にこういう結果になったところを見れば、彼にとっての妻は執着の対象どころか、生きる目的のすべて、くらいになっていたのかもしれない。
マイヤーは、マクシーネとの間にもう希望がないと思い知ったとたんに、するするとすべてを自白した。真相はシェーナの予想どおり、解き明かされてみれば極めて単純 ―― つまりは彼が、ジャムに毒を入れてシェーナからだと偽り、ノエミ王女のもとに届けたのだ。
ワイズデフリン伯爵夫人は結局のところ事件に無関係であり、しばらくして無事に釈放された。だが折しも彼女は騎士団長を誘惑中であったため、せっかく釈放されるのにさほど喜ばなかったそうだ。
―― と、それはさておき。
ここにきていちばんの問題は、マイヤーが真の主犯だとわかったのちも、公爵が減刑依頼を取り下げなかったことだった。それを知った貴族たちからこぞって非難されても公爵はまったく気にしていないようすで、マイヤーが抜けたぶんの仕事を執事のクライセンと分担して淡々とこなしている。新しい使用人を雇い入れるようすはなく、どうやらマイヤーが帰ってきたあかつきには再び、もとの地位に戻そうというつもりであるらしい。これまたシェーナたちが予想していたとおり、相変わらず誰に対しても見境なくベタ甘いわけである。
シェーナはといえば、事件が解決したので再び公爵家に戻っていたが、祝い事をするような状況ではないため、結婚式は予定も立たないまま先送りにされている ―― これについては公爵から何度も謝られているが、シェーナとしては別にかまわなかった。どうせパセリだし。結婚式よりも先にマイヤーの処遇をなんとかしてほしい、というのが正直なところだ。
かといって親友のメイリーに言われたように 『わたしとマイヤー、どっちが大切なの!? 』 と公爵に詰め寄るような自信はない。たしかにシェーナだって世間話のついでみたいにさらっと 『いないと寂しい』 とは言ってもらった。だがそれ、ようは 『なんとなくひろった捨て犬に急に逃げ出されてみたら意外と寂しかった』 ということでしかないのではないか、と思ってしまうのだ。
しかし公爵は、こんなふうにウダウダしまくっているシェーナの内心などまったく知らないのだろう。以前と同じように ―― いや、以前にも増してシェーナを溺愛してみせてくれている。
ほめなきゃ死ぬのかなこのひと、と疑問に思えるほどにシェーナをほめまくり抱っこしてはなでたりキスしたりしたがるのだ。シェーナが嫌がれば外面あっさり離しつつ、心の声でしょんぼり大反省会を繰り広げ、そのくせ隙を見ては当然のようにスキンシップに励んでくる。忙しいはずなのに毎日1回は贈り物をくれる。花束ていどなら有り難く受け取れるが、3日続きで宝飾品だったときにはさすがに 『1ヵ月に1回でも多すぎますよ。しまう場所がなくなるじゃないですか』 とツッコミを入れた。すると今度は、それ自体がかなり高価そうなジュエリーチェストをいただいてしまった。そのうえで以下の注釈つきである。
『要らないアクセサリーは売るなり人にあげるなり、好きにしてくれていいんだよ。きみに似合いそうなものを見立てているとはいっても、好みもあるだろうから。ああその琥珀は気に入ってくれたようだね。つけてあげるよ』
もっとも、こんなありさまではあっても公爵の内心の声は相変わらず 『結婚 = パセリ』 のままなのだから、勘違いしようがないのだが ――
シェーナが特に困っているのは、こちらもガードと対応が甘くなってきていることである。公爵の 『結婚 = パセリ』 思考にも次第に慣れてきてしまったうえ、やはり一度相手を好き認定してしまった弱味もあってつい、 『まあ別にいっか』 となってしまうのだ。その結果、はためには 『新婚バカップル』 としか見えないやりとりが延々と続いてしまっている現状 ―― 夜のほうはまだ 『心の準備が……! 』 と断っているものの、おやすみのキスも次第に長く濃くなっている。ついでにその折にシェーナの背中をなでる手つきもナチュラルにエロくなっていっているようである。
結婚式もあげていなければマイヤーの件についても何も言い出せないまま、なしくずしに流されてしまうのは勘弁願いたいと考えているシェーナであるが ―― 己の防御要塞がいつまでもつのか、正直なところまったく自信がない。
そうこうしつつ3ヶ月が経った。
ある日の夕食どき。
料理長の自信作 『仔牛のほおの赤ワイン煮、フレッシュクリームのソースを添えて』 をおいしくいただいていたシェーナに公爵は突如、こう切り出した。
「マイヤーが来年の6月に出所する予定なんだが、シェーナは彼をどうしたい? 」